Neil Irwin 「ケチャップ発言を巡るミステリー 〜あの発言の主は噂通りの人物? それとも・・・?〜」


●Neil Irwin, “The mystery of Ben Bernanke and the Japanese ketchup is solved!”(Wonkblog, May 12, 2013)

つい先日私は中央銀行をテーマとした著書を上梓するに至ったが、その中でFRBの現議長とケチャップならびに日本銀行三者を巡るちょっとしたミステリーについて言及している。しかし、今やそのミステリーは解かれた、と個人的には考えているところだ。

遡ること10年前の2000年代初頭、アメリカの政府高官ならびに経済学者らは日本政府、中でも日本銀行に対してひっきりなしに次のようなコメントを寄せていた。日本経済がデフレから脱却するために日本政府(中でも日本銀行)はもっと積極果敢に行動する必要がある、と。当時FRBの理事であったベン・バーナンキ(Ben Bernanke)もそのように発言していたうちの一人だった。

長年にわたり日本銀行の役員の間で流布し、またリチャード・クー(Richard Koo)が繰り返し自らの著書の中で取り上げている次のようなストーリーがある。それはバーナンキが2003年の5月に訪日した際のエピソードに関するものである。当時バーナンキは次のように語ったと言われている。「中央銀行はいつでもインフレの上昇をもたらすことができるはずだ。市中に貨幣を注入する上で金融資産を購入するだけでは十分ではないようなことがあっても、日本銀行はそれ以外に何でも−それこそトマトケチャップでも−買うことができるし、そうすることを通じて経済に流通する貨幣の量を増やし、物価の上昇をもたらすことは可能なのである。」

ケチャップとは何とも面白い例である。しかし、ここに問題が控えている。バーナンキ自身はケチャップを例に持ち出した覚えがないばかりか、果たして本当に自分がそのように発言したのか極めて懐疑的なのである。先にも触れた私自身の本では日本をテーマに1章を割いているが、その箇所を執筆している最中、このケチャップ発言を巡るエピソードに関して確信が持てないでいた。バーナンキの記憶違いなのだろうか、それとも日本銀行の役員の間で噂が広まるうちに話が事実とは違うかたちで伝わってしまったのだろうか、と。かつて東京に滞在していた際に日銀の元スタッフからこのエピソードを耳にしたことはあったものの、バーナンキのケチャップ発言を直接聞いたという人は誰一人としていなかった。そういう事情もあって、拙著ではバーナンキがケチャップあるいはそれと類似のモノを例として持ち出したかどうかについては真偽不明の未解決問題として取り上げる格好となったのであった。

しかし、今やその答えが明らかになったと言えるかもしれない。当時財務省の役人であったトニー・フラット(Tony Fratto)から次のような話を聞いたのである。彼の記憶によると、現在スタンフォード大学に籍を置く経済学者であり、当時は財務次官(国際経済担当)を務めていたジョン・テイラー(John B. Taylor)とともに日本銀行を訪れたことがあるという−新聞の切り抜きから判断すると、彼らが日銀を訪れたのは2002年10月のことだと思われる−。その際にテイラーがケチャップ発言をしたのを聞いたというのだ。

フラットはメールで次のように答えている。「私たちが東京を訪れたのは、不良債権の処理をもっと速やかに進めるとともに、量的緩和をもっと積極的に実施するように日本の政策当局を鼓舞するためでした。あの時のジョン(テイラー)はぶっきらぼうな調子で意見を開陳していましたが、ケチャップ発言を含むコメントはそのようなざっくばらんな雰囲気の中で語られたものでした。ジョンは長い間日本銀行(金融研究所)の顧問を務めており、そこで働く人々全員と大変良好な関係を築いていました*1。当時のエピソードは非常によく覚えています。」

加えて、例として持ち出されたのは抽象的な「ケチャップ」というわけではなかったようである。フラットの記憶では、テイラーはケチャップの具体的な銘柄まで口にしたらしい。

「当時私たちは二人ともピッツバーグに住んでいて、日本への移動中はピッツバーグのあれやこれやについて情報を交換し合ったり語り合ったりしていました。ジョンは単に『ケチャップパケット』とだけ述べたわけではありません。『ハインツのケチャップパケット』*2と述べたのです。」

どうやらこれが真相のようである。テイラーこそがあの何とも愉快なケチャップ発言の主だったのである。このエピソードが語り継がれる中で、テイラーと同じく高い評価を得ているアメリカ出身のマクロ経済学者であり、また彼と同じくその後公職の座に就くことになり、また彼とほぼ時期を同じくして日本を訪れた別の人物*3の発言として入れ替わってしまったのであろう。

テイラーによると、当時日本銀行を訪れた際にケチャップのメタファーを用いたかどうかまでは詳しくは覚えていないものの、大学の講義で学生に金融政策のことを説明する際の助けとしてケチャップを例に持ち出してきたことは確かだということだ。テイラーはメールで次のように述べている。「これまで長年に(何十年にも?)わたってスタンフォード大学での経済学入門の講義で公開市場操作のエッセンスを説明する際に、『ケチャップが十分に存在するようであれば、Fedはケチャップを買うことができる』といったような調子でケチャップを例に持ち出してきました。学生が金融政策の働きを理解し、そのことを記憶に定着させるよう促すための教育上のジョークの一種としてですが。」

さて、ここにもう一つのアイロニーがある。テイラーとバーナンキが日本を訪れ、日本銀行に対してもっと積極的な金融政策に打って出るよう発破をかけてから10年以上が経過しているが、ついにここ最近になって、安倍晋三首相率いる新政府と黒田東彦新総裁率いる日本銀行アメリカの政府高官がかつて推奨していた積極的なアプローチに踏み出すこととなった。インフレ率を2%にまで引き上げるために必要なことは何でもすると誓ったのである。これまでの動向を観察する限りでは、新たに刷った貨幣で債券を無制限に購入する姿勢を見せるなどしており、日本の政策当局は前進を続けているように思える。

しかしながら、巷間伝えられるところでは、日本銀行が新たに刷った大量の円でトマトケチャップ−ハインツあるいはその他の銘柄のケチャップ−を購入する予定はないようである。


The Alchemists: Three Central Bankers and a World on Fire

The Alchemists: Three Central Bankers and a World on Fire


(追記)アダム・ポーゼンが↑のIrwin本(『The Alchemists: Three Central Bankers and a World on Fire』)の書評をしているようだ。

●Adam S. Posen, “The Myth of the Omnipotent Central Banker”(Foreign Affairs, July/August 2013)

*1:訳注;テイラーが打ち解けた調子で意見を述べたのもそのためであった。

*2:訳注;ハインツの本社はピッツバーグに居を構えている。

*3:訳注;バーナンキ

コーエンの新訳が近々出版されるらしいよ


◎タイラー・コーエン著/石垣尚志*1訳 『アメリカはアートをどのように支援してきたか−芸術文化支援の創造的成功』(ミネルヴァ書房、2013年07月刊行予定)

以下、出版元であるミネルヴァ書房のHPより引用。

芸術文化の振興に関して、対立するふたつの立場がある。ひとつは芸術文化への助成を否定し、市場に任すべしとする立場、もうひとつが芸術文化は素晴らしいものであり公的に助成すべきだとする立場である。両者はたいてい相手の存在を無視して自分たちの主張を繰り返すばかりである。本書は、アメリカにおけるそれぞれの立場の主張内容と意義そして可能性と限界を整理し、望ましい芸術文化支援のあり方を探る。(原著=Tyler Cowen, Good & Plenty: The Creative Successes of American Arts Funding, Princeton University Press, 2006.)

[ここがポイント]
◎ 原著者タイラー・コーエンは2011年にイギリス「エコノミスト」誌によって「世界に最も影響力をもつ経済学者の一人」に選ばれた人物。
◎ これからの日本の文化政策を考えるうえで比較対象となるアメリカの事例が取り上げられている。


原著は2006年に出版された『Good and Plenty: The Creative Successes of American Arts Funding』(Princeton University PressのHPで第1章(pdf)を読むことができる。また、コーエンのHPで第1章の草稿(pdf)を読むこともできたり)。

以下はリッチモンド連銀発行のRegion Focusに掲載されたコーエンのインタビュー。原著である『Good and Plenty』が出版される直前に行われたものであり、『Good and Plenty』の内容についても話題に上っている。

●“Interview−Tyler Cowen(pdf)”(Region Focus, FRB of Richmond, Winter 2006


Good & Plenty: The Creative Successes of American Arts Funding

Good & Plenty: The Creative Successes of American Arts Funding


ちなみに、本書はコーエンによる文化経済学方面の著書としては2冊目の邦訳。1冊目の邦訳は以下。

創造的破壊――グローバル文化経済学とコンテンツ産業

創造的破壊――グローバル文化経済学とコンテンツ産業


翻訳を手に取る前に原著を再度読み直しておきたいところだけれど、それにしても夏場に額に汗しつつコーエンの文化経済学と向き合う機会が多いような気がするのは気のせいだろうか。

ついでながら、9月にコーエンの新著(『Average Is Over: Powering America Beyond the Age of the Great Stagnation』)が出版される予定とのこと。『The Great Stagnation』(邦訳『大停滞』)の続編という位置づけのようだ。

The Great Stagnation: How America Ate All the Low-Hanging Fruit of Modern History, Got Sick, and Will( Eventually) Feel Better

The Great Stagnation: How America Ate All the Low-Hanging Fruit of Modern History, Got Sick, and Will( Eventually) Feel Better

大停滞

大停滞

*1:訳者である石垣氏のブログはこちら

水準目標の利点とは?


以下、高橋洋一(監訳・解説)『リフレが正しい。FRB議長ベン・バーナンキの言葉』(「第7章 日本の金融政策、私はこう考える」)より引用。

「物価水準目標」の具体的な形態としてここで私が想定しているのは、「過去5年間を通じて、デフレではなく、たとえば年率1%といった緩やかなインフレが起こっていたと仮定した場合」に到達していたはずの水準にまで、物価水準(物価水準は生鮮食料品を除いた消費者物価指数のような、標準的な物価指数によって測定されることになるでしょう)を回復させる意志(あるいは意図)を、日本銀行が宣言するという方法です。

・・・(省略)・・・

ここでご注意いただきたいのは、私が提案している「物価水準目標」においては、目標が絶えず変動し続けるということです。すなわち、2003年時点で目標にすべき物価水準は、1998年の実際の物価よりも約5%高いことになりますが、2003年以降に関しては目標となる物価水準は年率1%のペースで上昇することになるのです。

デフレは物価水準の下落を意味しますが、デフレが生じている間も目標とすべき物価水準は上昇を続ける(現在のケースでは年率1%で上昇する)ことになります。となりますと、デフレの克服に失敗すると私が言うところの「物価水準ギャップ」(Bernanke, 2000)が拡大する結果となります。物価水準ギャップというのは、「実際の物価水準」と、「デフレが避けられ、物価安定の目標が常時達成され続けたと仮定した場合に到達していたであろう物価水準」との差のことです。(pp.212〜213)

物価水準ギャップを埋めるための試みは、次のように2つの段階を踏むことになるでしょう。

まず第1段階では、物価水準ギャップを埋め合わせ、それまでのデフレの影響を打ち消すことが目指されることになります。そのため、第1段階においては、インフレ率は長期的な目標インフレ率(現在のケースでは1%のインフレ率)を上回ることになるでしょう。この第1段階は「リフレーション段階」と呼ぶことができるでしょう。

物価水準ギャップが完全に埋め合わされ、現実の物価が目標となる物価水準に達すると―あるいは現実の物価が目標となる物価水準の目前にまで接近すると―、第2段階に移行することになります。この第2段階では、通常のインフレ目標あるいは通常の物価水準目標に則って政策が運営されることになり、長期的な目標インフレ率(現在のケースでは1%のインフレ率)の達成が目指されることになります。(pp.213〜214)

エガートソンとウッドフォード(2003)は、ゼロ下限制約下における金融政策の問題を取り扱った最近の重要な論文の中で、日本が物価水準目標を採用すべき別の理由を提示しています。

彼らは(他の多くの専門家と同様に)、「名目金利がゼロあるいはほとんどゼロのときには、中央銀行は、国民の間でインフレ期待を喚起することによってのみ、実質利子率を引き下げることが可能である」と指摘しています。

また、エガートソンとウッドフォードは、これまで私が語ってきたようなタイプの「物価水準目標」のほうが、「インフレ目標」よりも短期的な予想インフレ率の上昇につながりやすいと主張しています。

なぜそう言えるのかを理解するためには、次のポイントをおさえておけばよいかもしれません。すなわち、「『物価水準目標』の下では、「現実の物価水準」と「目標となる物価水準」との差が広がれば広がるほど(中央銀行が目標の達成に失敗すればするほど)、中央銀行はその後の期間において、より一層積極的な行動に打って出る必要に迫られることになる」ということです。

・・・(省略)・・・

・・・目標となる物価水準が年率一定の割合で上昇する「物価水準目標」の下では、デフレが続く限り、「物価水準ギャップ」は時とともに拡大を続けることになります。

そのため、「物価水準目標」の下では、中央銀行が目標の達成に失敗した場合、国民は「将来的に中央銀行は一層積極的な行動(例えば、公開市場での資産購入額の拡大)に打って出るに違いない」と期待することになりますし、そのように要求することにもなります。

ですから、仮に中央銀行が目標の達成期限を設けることには消極的だとしても、「物価水準目標」という政策枠組みは、デフレの克服に向けたこれまでの試みが不首尾に終わった場合に「脱デフレに向けた努力を今後一層強化すること」にコミットする方法を中央銀行の手に授けてくれることになるわけです。

エガートソンとウッドフォードが示しているように、「物価水準ギャップが拡大するにつれて、中央銀行は一層積極的な試みに打って出るに違いない」との期待が生み出されるとすれば、国民は最終的にはインフレがデフレに取って代わると信じることになるでしょう。その結果、実質金利の低下がもたらされ、目標の達成に向けた中央銀行の努力への後押しとなると考えられるのです。(pp.216〜219)


assorted links;NGDP目標(その2)+α


*NGDP目標(NGDP目標リンク集(その1)はこちら

●Jeffrey Frankel, “Nominal GDP Targeting is Left, Right?”(Jeff Frankels Weblog, May 2, 2013)

●Nick Rowe, “Raising expectations of inflation vs raising expectations of NGDP growth”(Worthwhile Canadian Initiative, June 25, 2013)

●Yichuan Wang, “Why Nominal GDP Targeting Solves the Credibility Problem”(Synthenomics, June 30, 2013)

●Tomáš Sivák, “Inflation targeting vs. nominal GDP targeting(pdf)”(Biatec(Journal of National Bank of Slovakia), March 2013)

●Kevin D. Sheedy, “Debt and Incomplete Financial Markets: A Case for Nominal GDP Targeting(pdf)”(Econbrowser経由)


大恐慌

●Nicholas Crafts and Peter Fearon (編集) 『The Great Depression of the 1930s: Lessons for Today』(Oxford University Press, 2013/5/5;The Enlightened Economist経由)

Understanding the Great Depression has never been more relevant than in today's economic crisis. This edited collection provides an authoritative introduction to the Great Depression as it affected the advanced countries in the 1930s. The contributions are by acknowledged experts in the field and cover in detail the experiences of Britain, Germany, and, the United States, while also seeing the depression as an international disaster. The crisis entailed the collapse of the international monetary system, sovereign default, and banking crises in many countries in the context of the most severe downturn in western economic history. The responses included protectionism, regulation, fiscal and monetary stimulus, and the New Deal. The relevance to current problems facing Europe and the United States is apparent.

The Great Depression of the 1930s: Lessons for Today

The Great Depression of the 1930s: Lessons for Today


*数量制約一般均衡理論(不均衡マクロ)の歴史的展望

●Roger Backhouse and Mauro Boianovsky(著)『Transforming Modern Macroeconomics: Exploring Disequilibrium Microfoundations, 1956-2003 (Historical Perspectives on Modern Economics)』(Cambridge University Press, 2012/11/12)

This book tells the story of the search for disequilibrium micro-foundations for macroeconomic theory, from the disequilibrium theories of Patinkin, Clower, and Leijonhufvud to recent dynamic stochastic general equilibrium models with imperfect competition. Placing this search against the background of wider developments in macroeconomics, the authors contend that this was never a single research program, but involved economists with very different aims who developed the basic ideas about quantity constraints, spillover effects, and coordination failures in different ways. The authors contrast this with the equilibrium, market-clearing approach of Phelps and Lucas, arguing that equilibrium theories simply assumed away the problems that had motivated the disequilibrium literature. Although market-clearing models came to dominate macroeconomics, disequilibrium theories never went away and continue to exert an important influence on the subject. Although this book focuses on one strand in modern macroeconomics, it is crucial to understanding the origins of modern macroeconomic theory.

Transforming Modern Macroeconomics: Exploring Disequilibrium Microfoundations, 1956?2003 (Historical Perspectives on Modern Economics)

Transforming Modern Macroeconomics: Exploring Disequilibrium Microfoundations, 1956?2003 (Historical Perspectives on Modern Economics)

エガートソン 「アベノミクスとフランクリン・ルーズベルト」


●Gauti B. Eggertsson, “Abenomics and FDR”(Economic Notes, April 4, 2013)

過去数ヶ月のうちで経済政策の分野で起こった最も注目すべき出来事は、日本銀行と日本政府がデフレからの脱却に向けて金融政策と財政政策とをはっきりと(明示的に)「協調させる(コーディネートさせる)」決意を固めたことだろう。日本で生じているこの政策面での新たな動きは(新しい首相(安倍晋三)の名前にちなんで)「アベノミクス」の名で喧伝されている。アベノミクスの目標は、長年にわたって続いたデフレから脱却し、年率およそ2%のインフレ率を達成することにある。その目標を達成するために具体的にどのような行動を採るつもりであるのかについてはこれまでにも様々にその概要が伝えられている。

例えば、去る1月に日本政府と日本銀行政策協調に関する声明(pdf)(日本語はこちら(pdf))を共同で発表しており、本日(4月4日)になって日本銀行から追加的な行動の概要が明らかにされた(詳しくはこちら(pdf)(日本語はこちら(pdf))を参照のこと)。

これら一連の政策行動がどのような動機に基づいているかは明らかである。まず第一に、インフレ期待の喚起を通じてデフレが予想されている状況からインフレが予想される状況へと移行することになれば、実質金利が低下することになるだろう。その結果、将来よりも今現在支出した方が相対的に魅力的に感じられることになるだろう。つまり、インフレ期待が喚起されることになれば、通常の金融政策と同じようなかたちで、総需要の刺激につながるはずである。第二に、ほどほどのインフレが生じることになれば、借り手が負う債務の負担が和らげられる可能性があり、その結果としても総需要が刺激されることになるかもしれない。特に、経済が深刻な不況下にあって、(経済が落ち込む以前の時期に)過剰な債務を積み上げた経済主体が「デレバレッジ」(債務の圧縮)を進める必要性に迫られているようなケースではそうなる*1可能性がある。

大変興味深いことに、日本で目下進行中のアベノミクスと極めて似通った政策が1933年に大統領に就任したばかりのフランクリン・D・ルーズベルトによってアメリカで試みられたことがある。双方の政策レジームを構成する要素は大半において同じであるが、違いもある。それは、ルーズベルト大統領が目標とした(その達成を約束した)インフレ率(物価水準の引き上げの程度)の方がアベノミクスでの目標よりも高かった、ということである(ルーズベルトアメリカ経済が不況に陥る以前の水準にまで物価をリフレートする(引き上げる)旨を誓ったが、それはかなり高めのインフレを受け入れることを意味していた。この点に関して詳しくは、私の2008年の論文(pdf)を参照してほしい)。私の判断では、「ニューディール」("New Deal")レジームにおけるこの要素(高めのインフレに対するコミット)は大きな成功を収め、アメリカ経済が1933年から1937年にかけて急速な景気回復を達成する上で助けとなったと思われる(しかしながら、成果をあげた一連の政策も"Mistake of 1937(pdf)"(「1937年の過ち」*2)によって放棄されることになり、大恐慌は次なる第2局面へと移行することになってしまった)。おそらく、これまでに日本政府が発表している政策も(ルーズベルトが実施した一連の政策と同様に)経済成長を促す上で大きく役立つことだろう。しかし、私が一番心配していることは、インフレ率の目標として掲げられている2%という数字が少しばかり低いのではないか、ということだ。結果はやがてわかるだろうが・・・、ともあれ、最も重要なポイントは、日本政府がルーズベルト大統領と同じように「リフレーション」("reflation")を最優先課題に掲げ、リフレーションを達成するために必要なことは何でもするつもりである態度を鮮明にしているところにあると私には思える。

以下の動画はルーズベルトが政策面でのイノベーションに踏み出した後に放映されたインフレーションの「宣伝」動画である。この動画ではインフレーションの主要な効果が2つほど触れられていることがわかるだろう(第1の効果は私自身のかつての主要な研究テーマであり(例えば、こちら(pdf)を参照)、マイケル・ウッドフォードとの共同研究でも対象となっていたもの(こちら(pdf)を参照)である。第2の(分配を通じた)効果に関してはポール・クルーグマンとの共著論文(pdf)で分析を行っている)。

*1:訳注;ほどほどのインフレが生じることで債務の実質的な負担が軽減され、その結果として総需要が刺激されることになる

*2:訳注;こちらもあわせてどうぞ。

賃金にまつわるパラドックス


●Scott Sumner, “The wage paradox”(TheMoneyIllusion, March 15, 2013)

賃金の下落は労働市場が均衡から外れている(不均衡状態に置かれている)ことを示唆するサインであり、それゆえ問題が発生している証拠であると言える。一方で、賃金の下落は労働市場が再び均衡に復する(労働市場における不均衡を解消する)助けとなると考えられる。そういった意味では、賃金の下落は問題の解決を促す役割を担っていると言える。

このどちらの主張もともに弁護可能である。私が思うに、景気循環について具体的なイメージを掴むためにはこの2つの主張を同時に念頭に置いておくことが最善の方法だと言えるだろう。次の文章はつい最近のエコノミスト誌の記事からの引用である。

実のところ、安倍首相による(15年にわたるデフレからの脱却を目指す)キャンペーンは政治的な意味合いを備えている可能性が強い、との指摘もある。金融緩和に前向きな人物(tough-talking money-printers)を日本銀行の総裁・副総裁に新たに任命することで、安倍首相は「中央銀行は2%のインフレ目標を達成すべきだ」との決意を露わにした。問題は、物価が上昇する一方で名目賃金が上昇しなければ、労働者は経済的に苦しい生活を余儀なくされることになる、ということである。安倍首相は衆参両院で自民党が多数派を占めることを目指しているが、仮に名目賃金の上昇が物価の上昇に遅れをとれば、7月に行われる参院選挙で自民党は不利な状況に置かれることになるだろう。

そういった事情もあってか、つい先日、安倍首相と麻生太郎財務大臣は大企業に対して賃金の引き上げを要請した。消費者マインドと家計消費が盛り上がりの兆しを見せる中、この要請に前向きに応じる企業も現れた。例えば、コンビニ大手のローソンは、今年度のボーナスを増額することで社員(具体的には、学校に通う子供を3人持つ社員)の年収を平均15万円引き上げる意向を示した。また、円安による恩恵を受けた輸出業者の中には今年度の春闘労働組合の要求を受け入れてボーナスの増額に動く企業が出てくる可能性もある。

しかし、これまでのところ経団連−主要な大企業から構成されているロビー団体−は安倍首相らの賃上げ要請に冷やかな態度を見せている。持続的な業績の改善が見通せるようになるまでは基本給の引き上げ(ベースアップ)−ボーナスの増額と比べるとベースアップを実施するのは困難だとされている−に踏み切ることはできない、というのである。JPモルガン証券のシニアエコノミストである足立正道氏はこう語る。「基本給の引き上げよりも先に残業代とボーナスが増額される可能性が高いと思われます。また、各企業が持続的な賃上げに向かう上では、インフレ期待が高まるよりも成長期待*1が高まる必要があるでしょう。」 しかしながら、日本では来年度に消費税の増税が予定されている。仮に予定通りに消費税が引き上げられることになれば、今年度実施される大規模な財政刺激策の効果の幾分かが打ち消され、そのために2014年の後半に入って経済が減速する可能性がある。


最後に引用したグラフは極めて興味深いものである。このグラフによると、名目賃金の下方屈折が生じている3つの局面を読み取ることができる。それは、アジア通貨危機が発生した1997年、ITバブルの崩壊を受けての2001年の景気後退期、そして2008年〜2009年の世界同時不況期である。名目賃金は粘着的であり、毎月ごとに調整がなされるのは一部の賃金だけである。それゆえ、全体として名目賃金が低下しているということは、賃金の調整が進む部門以外においては名目賃金は高すぎることを意味することになる。そのため(名目賃金の調整がなかなか進まない部門が存在するために)、全体として名目賃金が低下する際にはしばしば失業の増加が伴うことがあるが、これはまさしく日本で生じている状況そのものだと考えられる。

名目賃金の調整が完了した暁には現実の失業率は自然失業率に等しい水準に落ち着く(復する)ことになると考えられるものの、名目賃金の(絶対水準の)カットには困難が伴う。おそらく日本でも(名目賃金のカットに対する抵抗もあって)名目賃金の調整はまだ完了しておらず、それゆえ日本の失業率は依然として自然失業率を若干上回っていると考えられるだろう(日本の失業率は元々極めて低いという点には注意が必要である。また、日本の真の失業率はデータ上で計測される失業率よりも高い、という意見もある)。

現在安倍政権が進めている経済政策がうまくいった場合、名目賃金は若干上昇する可能性があるが、馬の前に荷車をつなぐようなことは間違いだと言えるだろう。つまりは、名目賃金が上昇するとしても、政治的なプレッシャーを通じてそれ(名目賃金の上昇)を強いるのではなく、経済が堅調に回復し、名目GDP成長率が高まる結果としてそうなる(名目賃金が上昇する)のが好ましいと言えるだろう。実のところ、名目賃金が(政府が企業に圧力をかけることで)人為的に引き上げられようものなら、むしろ失業は増加してしまうかもしれないのである。

なお、日本の実質賃金は1990年代以降およそ10%程度下落している点にも注意しておこう。つまり、実質賃金に関しても日本のパフォーマンスは低調なわけだが、このことは日本だけではなく他の先進国(ただし、オーストラリアとカナダ等を除く)に関しても同様に言えることである。最終的にキーとなるのは経済成長である。金融緩和を通じて(名目GDP成長率が高まり、それに伴って)実質GDP成長率が上昇することになれば、引き締め気味の金融政策のために低インフレが続く場合よりも実質賃金はおそらく高まることだろう。ここで思い起こすべきは、2002〜2006年に日銀が量的緩和に乗り出し、日本経済が一時的にデフレから脱却した際のことである。当時実質賃金は(低下するのではなく)横ばいを記録したのであった。繰り返すが、経済成長はゼロサムゲームではない。経済成長を通じて経済のパイが大きくなれば、たとえインフレが上昇したとしても少なくとも長期的には実質所得は増加することになるのである。

(追記)金融引き締めによって実質賃金の上昇がもたらされることを予測するモデルもあるにはある。しかし、その結果、若年労働者が生産性の極めて低いインフォーマル・セクターに追いやられることになるとすればどうだろうか?

*1:訳注;将来的に実質GDP成長率が上昇するとの期待

Marcus Nunes 「日本で今何が起こっているのか? 〜予想インフレ率の気になる急落〜」


●Marcus Nunes, “A visual take on Japan”(Historinhas, June 4, 2013)

直近のエントリー(訳注;sowerberryさんによる邦訳はこちら)でラルス・クリステンセンが次のように語っている。

ここのところ日本では予想インフレ率が低下しているわけだが、その主たる理由は長期金利(長期国債の名目利回り)の上昇に対する日銀のあべこべな対応にあると私は考える。

日本銀行幹部―黒田総裁も含む―の発言から判断するに、どうやら日本銀行は不可能な試みに乗り出そうとしているようである。つまりは、長期名目金利の上昇をもたらすことなしに金融緩和を進めようとしているようなのだ。日銀がそのような姿勢をとっているために日本銀行の目標をめぐって混乱がもたらされる格好となっており、その結果として予想インフレ率の急落が引き起こされているのである。

クリステンセンの主張は実際のデータによって裏付けられている。以下に掲げる3つの図では、予想インフレ率の推移(I.E;青線)とあわせて、名目為替レート(円ドルレート)の推移(1番目の図/FX;赤色の点線)、日経平均株価の推移(2番目の図/Nikkei;紫色の点線)、10年物国債の利回りの推移(3番目の図/10 year Bond;緑色の点線)がそれぞれ描かれている。

以下の図によると、予想インフレ率がその他の指標の変化を促す(状況の変化に向けたプロセスを始動させる)役割を果たしているように見えるが、2%のインフレ目標の採用と安倍政権の(当初の)高い信頼性を考えるとそれも当然と言えるだろう。

しかしながら、5月9日以降に長期名目金利が急上昇するや、状況にぐらつき(‘wobbly’)が見られる点には注意が必要である。長期国債の利回りは依然低い水準にとどまっており、ここのところは低下傾向にあるが、全般的に見て長期金利の動きは順風満帆(‘smooth sailing’)といった調子である。日銀には次のことを望みたいものだ。まずは日銀の目標が何であるかを明らかにして(視界を晴らして ‘clarifies’)ほしい。そして、量的緩和(に類似した戦略)の目標は長期名目金利を引き下げることだ、との伝統的な見解(量的緩和の航海に乗り出す度にバーナンキが誤って陥った見解)から脱却してもらいたい。


黒田総裁にお願いである。再び力強く漕ぎ出してくれ(please start‘rowing’ vigorously again!)。