コーエン著「自己制御 vs 自己解放」(その4)
●Tyler Cowen(1991), “Self-Constraint Versus Self-Liberation(pdf)”(Ethics, Vol. 101, No. 2, pp. 360-373)
第5節 「Is addiction always the result of weakness of will ?」/ 第6節 「Self-management and markets」の訳です。次回エントリーがラスト。
Is addiction always the result of weakness of will ? (中毒は常に意志の弱さの結果なのか?)
自己規律の行き過ぎを招く可能性があることに加えて、ルール志向の「私」は中毒や有害な消費習慣を招く原因になっているかもしれない。中毒は、必ずしも意志の弱さの結果、あるいは、衝動的な「私」が自己管理を巡るバトルで優勢に立っている結果とは限らない。中毒は、ルール志向の「私」による慎重な決定の結果であるのかもしれないのである。ルール志向の「私」がそのような決定をするのは、人生において衝動的で自発的な喜びが欠けているためであるかもしれない。衝動的で自発的な喜びの欠けた人生は、何らかの中毒を伴う生活と比べて、つまらなくて魅力のないものなのかもしれない。
例えば、北イエメン(North Yemen)では、人口の80%近くがカート(qat)として知られる常習性のある木の葉を噛む習慣を持っている。このカートを噛むと数時間であるが軽い覚醒作用が引き起こされるが、イエメン人にはカートはエネルギーの源泉であると考えられている。カートへの需要は非常に広範なものであり、ある情報ソースによれば、イエメンのGDPに占めるカート生産の割合は30%にのぼるということである*1。カート中毒者のうち現状に不満を感じ、カートを噛む習慣をやめたいと考えている割合は50パーセント未満であり、イエメン人の大半は、カートを噛む習慣を誇らしく感じているとのことである*2。カートは、イエメンにはない消費財や文化的な刺激の代わりになっているのかもしれない。実のところ、イエメンは、世界銀行によって、世界で最も貧しい6つの国のうちの1つに数えられている。多くのケースでは、カートの常習的な消費は、ルール志向の「私」の意志に反するかたちで行われているわけではないようである*3。
自己制御の問題を扱う通常の分析が予測するところとは反対に、ルール志向の「私」の力を強化してもカート中毒はそれほど減少しないかもしれない。反対に、カート中毒は、新たな喜びや誘惑を導入することで、効果的に克服できるかもしれない。新たな喜びや誘惑を導入することで、衝動的な「私」がカート消費に抵抗し、カート消費以外の源泉から喜びを得ようとするインセンティブを持つようになるからである。ケネディー(John G. Kennedy)は、その著書の中で、カート消費を減少させているのは中産階級の人々であり、彼らは手元のお金を消費財の購入に使うよう動機づけられていると指摘している*4。さらには、アメリカやサウジアラビアといった海外で働いているイエメン人は、人生の他の側面に関心を持つに至るにつれて、カート中毒から脱していくようになるとのことである*5。
Self-management and markets (自己管理と市場)
自己管理には自己解放の側面も伴うということを理解することで、多くの社会・経済問題に関する従来の態度に変化がもたらされることになるかもしれない。例えば、従来のように、自己管理が自己統制・自制の問題として捉えられるならば、消費者の規律を緩めたり歪めたりしようとする企業の試み、例えば商品の購入を説得しようとする広告活動やマーケティング活動は、消費者の自己制御を阻害する有害で非生産的なものであると判断されることになる。企業による広告活動やマーケティング活動に政府規制を加えることは、消費者の自己制御を支援することを通じて消費者厚生の向上に資すると判断されることだろう。
消費者の規律を緩めたり歪めたりしようとする試みは市場経済に広く見られる現象である。スーパーマーケットやデパートは、買い物客がお目当ての商品にたどり着くまでについつい余計な商品まで手にしてしまうよう展示がなされている。高価な自動車や家具、諸々のぜいたく品を販売している企業は、消費者に対して、支払いやすいクレジット条件(easy credit terms)を提供したり、商品の試用期間を設けたりしている。何度か繰り返し使用され、定期的に買い替えられるような商品、例えば、リップスティックや防臭剤、トイレットペーパーのような商品の販売者は、消費者に贔屓にしてもらうために、無料のサンプル品を提供している*6。この点を捉えて、N. マッケンドリック(Neil McKendrick), J. ブレワー(John Brewer), J. H. プラン(J. H. Plumb)は、 消費者から注目を引きつけようとする企業の試みこそが、産業革命の背後にあった真のイノベーションであると主張している*7。
フリーサンプルや試供品といった多くのビジネス慣行は、(消費者の規律を緩めたり歪めたりするためというよりもむしろ)消費者に対して判断のための情報を提供しようとする試みであると解釈できるかもしれない―情報提供機能と説得機能とを分離することはしばしば困難なことではあるが―。にもかかわらず、消費者の意志の力や規律を弱めることが多くのマーケテンィグ活動の重要な要素であることは否定できないと思われる。消費者の意志の力や規律を弱めることを意図した明白な例は、サブリミナル効果を利用した広告である。商品の販売者は、広告や映画の中に隠されたイメージや映像、メッセージを秘かに潜り込ませて、消費者の意志の力を弱めようと試みることがある。
企業による広告活動に批判的な立場に立つ論者は、伝統的に、広告の説得機能を強調し、広告を擁護する立場の論者は、広告の情報提供機能・シグナリング機能を強調する傾向にある*8。ただ、広告の説得機能は消費者厚生に対して必ずしもマイナスとなるわけではない。消費者は、この消費志向の現代経済において、誘惑に身を委ねたいと考えているかもしれず、広告による説得は、一人の人間の中の衝動的な「私」に力を貸すことになり、その結果として消費者の厚生を改善することになるかもしれない。自己制御(自己規律)が行き過ぎており、また自己解放が過度に抑制されているとすれば、心をかき乱すような*9企業のマーケティング活動は、消費者に対して、害よりは益をもたらすことになるかもしれない。自己規律の行き過ぎた消費者は、企業による広告活動のおかげで、ヨリ自発的で衝動的に生きることが可能となり、厳格な自己規律の縛りから解放されることになるかもしれない。
市場は、消費者の規律を弛緩する意図的な試み(例えば、広告)をそのうちに含むだけではなく、意図しないかたちで消費者規律を弛緩させる効果を有している。市場経済の進展に伴う一連の現象―例えば、利用可能な消費財メニューの拡大、選択の自由の広がり、富の増進、放蕩にふける( "licentious" )機会の広がり(=不道徳的な選択肢の広がり)、社会的な紐帯の解体―は、個々人の自己解放を促進し、自己規律の行き過ぎを抑える効果を持っているかもしれない。
サミュエル・ブリタン(Samuel Brittain)はその著書『Capitalism and the Permissive Society』の中で、資本主義と結びついた選択の自由は、寛容な精神(permissive moralities)を生み出すに至るであろう主張している*10。多くの保守派の論者は、資本主義は伝統的な価値観を破壊し、弱めることになると懸念を表明しているが、ブリタンは保守派のこの懸念をひっくり返して、資本主義の進展に伴う道徳律(moral codes)の弛緩が個人の自由につながると主張しているのである*11。
しかしながら、市場が人の自己規律を弛緩させる効果は、功罪相半ばするものかもしれない。市場のおかげで自己規律の行き過ぎが抑えられたとしても、その結果として個人の厚生は必ずしも高まるわけではないかもしれない。人格の健全な発展には自己規律への欲求自体が低下する必要があるかもしれない。自己規律への欲求が低下することが最も望ましいとしても、自己規律を欲求する態度に大した変化がないすれば、自己規律に完全に失敗してしまうよりはある程度成功するほうが好ましいことなのかもしれない。おそらく市場は(自己規律への欲求を低下させることはなく)決して満たされることのない欲求*12を生み出すだけなのであろう*13。
さらには、市場のおかげで特定の領域における自己規律の行き過ぎが抑えられたとしても、自己規律の行き過ぎは他の別の領域―それも市場の影響がそれほど及ばない領域―において姿を変えて表すことになるだけかもしれない。例えば、チョコレートを我慢したいと思いながらも、広告による説得やショッピングセンターで配られるサンプル品につられてついついチョコレートを口にしてしまうとある人物を取り上げてみよう。この人物が自己規律の行き過ぎの傾向を有しているとすれば、チョコレートを我慢するという面での自己規律の失敗は他の領域―チョコレートのように簡単に挫折を経験しないであろう領域―で取り返されることになるかもしれない。例えば、この人物は綿密なメニューを組んで懸命にエクササイズに励むことになるかもしれない。
しかしながら、ある領域で自己規律の行き過ぎを抑制することができれば、行き過ぎた自己規律への欲求は、別の他の領域において姿を変えて表れることはなくそのまま消滅することになるかもしれない。人は、ある活動に成功を収めるとその活動を選好するようになり、またある活動に失敗するとその活動を嫌うようになる傾向がある*14。さらには、人が自らの選好に影響を及ぼすことができるとすれば、自らの選好体系のうちから満たすことができないとわかっている選好は取り除こうと試みるかもしれない。市場のおかげで自己規律の行き過ぎが抑えられることになれば、人は行き過ぎた自己規律への欲求を取り除こうとする新たな自己管理の努力に取り組むことになるかもしれない。
さらには、市場のおかげで特定の領域における自己規律の行き過ぎが抑えられ、自己規律の行き過ぎが他の別の領域において姿を変えて表すことになるとしても、この別の領域における(ルール志向の「私」が享受する)自己規律からの限界効用はヨリ低いものとなるであろう(もしこの別の領域における自己規律からの限界効用が、市場における広告活動等を通じて衝動的な「私」の力が強くなったために渋々ながら自己規律の適用を諦めざるを得なくなった元の領域においてよりも高いものであれば、ルール志向の「私」ははじめからこの別の領域で自己規律への欲求を満足させていたことだろう)。自己規律からの限界効用が低下するとすれば、行き過ぎた自己規律への欲求は放棄されることになるか、あるいは、自己規律への欲求を満たすために投下される資源の量は減少することになるであろう。
以上の議論のいくつかは、資本主義体制下における疎外(alienation)に関するマルクスの仮説が合理的選択理論とその根を共有するものなのかもしれないことを示唆している*15。疎外という問題は、市場の作用が自己管理ゲームにおける異なる「私」間の力関係のバランスを変化させることから生じてくるのかもしれない。しかしながら、経済成長が人々の道徳に与える影響を強調したのはマルクスだけではない。富(経済成長)が重要な道徳観念を毀損することになるという信念は、ローマ帝国の崩壊を説明する諸理論の多くに共有されたものであった。ハーシュマンは、この点に関連して、以下のように指摘している。「古代ローマにおける、節制(sobriety)や共和国の一員としての誇り(civic pride)、勇敢さ(bravery)といった美徳は、戦争での勝利や領土の拡張につながり、勝利や領土の拡張は、富裕(opulence)や贅沢(luxury)につながった。そしてこの富裕や贅沢は、先の美徳―節制、誇り、勇敢さ―を棄損し、共和国を、そして最終的にはローマ帝国を崩壊させるに至ったのであった」*16。マルクスと対照的な市場観は、ドイツの古典的自由主義者であるヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt)に見出すことができる。フンボルトは、自発的な関係性の発展は人格の統合を促進すると主張していたのである*17。また、J.S.ミルも同様に、個人的な幸福と自発性、そして政治的な自由との相互のつながりを認識していた一人である*18。
*1:原注;John G. Kennedy, The Flower of Paradise: The Institutionalized Use of the Drug Qat in North Yemen (Dordrecht: Reidel, 1987), p. 133.
*2:原注;Ibid., pp. 20, 237.
*3:原注;イエメンでのカート消費の実態は、ベッカーとマーフィーによる「合理的な中毒」理論といくつかの面で共通点を持っている。Gary S. Becker and Kevin S. Murphy, "A Theory of Rational Addiction," Journal of Political Economy 96 (1988): 675-700. ルール志向の「私」は、将来の期待効用を最大化するように意図して中毒を選んでいるのかもしれない。しかしながら、ベッカー=マーフィーの議論とは異なり、本論文では、ルール志向の「私」が選択を決定する際にその利益が部分的にしか考慮されない他の異なる「私」(例.衝動的な「私」)の存在を認めている。
*4:原注;Kennedy, p. 238
*5:原注;Ibid., p. 191. 関連する議論として興味深いのは以下である。 Herbert Fingarette, Heavy Drinking: The Myth of Alcoholism as a Disease (Berkeley: University of California Press, 1988). H. フィンガレットによれば、アルコール依存症は病気というよりはむしろ、意識的な選択の結果であるとのことである。
*6:原注;一方で、ニコチンガムや健康器具の生産者は、ルール志向の「私」が一人の人間を支配していることを望むかもしれない。同様に、銀行は、預金を預けてもらうために、自己解放よりは自己制御を促進しようと考えているであろう。
*7:原注;Neil McKendrick, John Brewer, and J. H. Plumb, The Birth of a Consumer Society: The Commercialization of Eighteenth Century England (London: Europa, 1982).
*8:原注;広告活動への批判については、ガルブレイスの以下の著書を参照せよ。 John Kenneth Galbraith, The Affluent Society(Boston: Houghton Mifflin, 1958). 広告のシグナリング機能については、P. ネルソンの以下の論文を参照せよ。Philip Nelson, "Advertising as Information," Journal of Political Economy 82 (1974):729-54.
*9:訳者注;衝動的な「私」に力を貸すような
*10:原注;Samuel Brittain, Capitalism and the Permissive Society (London: Macmillan, 1973).
*11:原注;ハーシュマン(Albert Hirschman)はその著書 Rival Views of Market Society and Other Recent Essays (New York:Viking, 1986) の中で、市場経済が人々の道徳にいかなる影響を与えることになるかという問題を取り上げ、この問題に対する様々な論者の見解を要約している。
*12:訳者注:たぶんこの「欲求」は、衝動的な「私」が有する欲求=広告等を通じて刺激される衝動的な欲求、のこと
*13:訳者注;この部分の訳はあんまり自信がない。原文は以下。Perhaps markets succeed only in producing persons with desires that can never be fulfilled
*14:原注;以下を参照せよ。Maynard W. Shelly and Tina Z. Adelberg, "The Constraint-ReinforcementApproach to Satisfaction," in Analyses of Satisfaction, vol. 1, ed. Maynard W. Shelly (NewYork: MSS Information, 1972).
*15:原注;この点に関しては、シトフスキーの以下の本を参照せよ。 Tibor Scitovsky, The Joyless Economy: An Inquiry into Human Satisfaction and Consumer Dissatisfaction (New York: Oxford University Press, 1976).
*16:原注;Hirschman, p. 114.
*17:原注;Wilhelm von Humboldt, The Limits of State Action (Cambridge: Cambridge University Press, 1969).
*18:原注;John Stuart Mill, On liberty (New York: Norton, 1975).
コーエン著「自己制御 vs 自己解放」(その3)
●Tyler Cowen(1991), “Self-Constraint Versus Self-Liberation(pdf)”(Ethics, Vol. 101, No. 2, pp. 360-373)
第4節 「Can the rule-oriented self be too strong ?」の訳です。この節は長めなので今回の訳はこの一節のみ。
Can the rule-oriented self be too strong ?(ルール志向の「私」があまりにも強すぎるということはあり得るのか?)
自己管理の問題を扱う文献の多くでは、ルール志向の「私」が自己管理を巡るバトルで勝利を収めることが望ましいこととされている。ルール志向の「私」は、喫煙や飲酒をはじめとして何らかの望ましくないとされる活動をやめたいと望んでいるものの、衝動的な「私」からの抵抗によってなかなかその望みを遂げることができないとされるのである。このような観点からすれば、ある一人の人間の厚生(well-being)は、ルール志向の「私」が自己管理を巡るバトルで勝利を勝ち取る能力に依存している、ということになる。
しかしながら、ルール志向の「私」が勝利を収めることが望ましいと考えることはそこまで自明のことではない。アルコール中毒や薬物中毒のような多くのケースでは、確かにルール志向の「私」が勝利することが一人の人間の幸福にとって必要となるかもしれないが、ルール志向の「私」があまりにも勝ち過ぎることは精神衛生上かえって有害となり得るかもしれない。衝動的な「私」の欲求を絶えず抑え込んでいる人間は、満たされない思いからイライラしたり、過度に融通がきかなくなったり、自発性を発揮する能力を欠いたり、ということになるかもしれない。衝動的な「私」は時に無責任な行動を見せることがあるが、我々が人生を楽しく過ごすことができるのも多くは衝動的な「私」のおかげである。
精神的な安定を達成するためには、ルール志向の「私」が絶えず勝利を収めることよりはむしろ、ルール志向の「私」と衝動的な「私」のそれぞれの要求をうまくバランスさせる必要がある。あるケースでは、衝動的な「私」が勝利することが望ましいであろうし、別の他のケースでは、どちらか一方の「私」が勝利を収めるのではなく、ルール志向の「私」と衝動的な「私」の要求をともに聞き入れ、両者の間で折り合いを付けるよう試みることが望ましいであろう。もちろん、どちらの「私」ももう一方の「私」の利益を完全には考慮に入れないかもしれないので、どちらの「私」も一人の人間にとって最善の結果を望むとは限らないであろう。実際のところ、ルール志向の「私」は衝動的な「私」に対して外部性を及ぼす(また逆も言える)ということがあり得るのである。この外部性の問題から自己規律の行き過ぎ(overdiscipline)という事態に陥ることがあるかもしれない*1
もちろん自己規律の行き過ぎは外部性に基づく以外の多くの理由からも発生し得る。どちらか一方の「私」、あるいは、どちらの「私」もともに、完全な合理性とは相容れないような要素、例えば、文化的、生物学的、認知的なバイアスまたは欠点を備えているかもしれない。認知的なバイアスを抱えているとなれば、ルールを用いて行動を律することに伴うコストのすべてを勘案することに失敗するかもしれないし、ルールを用いて行動を律することで達成可能となる目的に過度に注意を集中してしまうがために自らの選択が(目的の達成を促進する以外の側面も含めて)どのような結果をもたらすことになるかを見誤ってしまうことになるかもしれない。
自己規律の行き過ぎは、種としての人間に備わる生物学的・遺伝的な特徴に基づくのかもしれない。ルールを用いて行動を律することは、種としての人間にのみ特有な現象ではなく、問題解決に取り組むような動物には広範に見られる現象である*2。人類は、有史以来、言語を用いて分析し思考する能力を発展させてきた。この能力は、多くのケースにおいて、ルールを用いて行動を律することの効果的な代用物として機能することになるかもしれない。しかしながら、人類は依然としてルールの使用に頼ろうとする遺伝的な傾向を有している―たとえルールの使用が必ずしも適切ではないような状況であっても―。衝動的な「私」がルールの使用に頼ろうとする人類の遺伝的な傾向にもっと首尾よく打ち勝つことができるようであれば、一人の人間としてはヨリ幸福であるのかもしれない。
ドイツの哲学者 I. カント(Immanuel Kant)の一生は、あまりにも強すぎるルール志向の「私」をその内部に抱え込んでいる人間の極端な例を提供するものである。カントの伝記作家であるスタッケンバーグ(J. H. W. Stuckenberg)は、カントが自らの肉体的な欲求(衝動)をいかにして律していたか(あるいは律する術を知り尽くしていたか)を伝えている。カントは、強靭な意志の力をもって、のどの渇きや咳、寒気、頭痛を我慢し、これらの肉体的な衝動を抑えつけていたのである*3。この点以外にも、カントの一生は厳しく規律づけられた生活ぶりであった。カントは一度も結婚しなかったし、スタッケンバーグはカントの一生を「厳格でありまた決して中断されることのなかった精神的な修養(mental application)の66年であった」と述べている*4。
カントは、講義や研究、食事、夕方の散歩、就寝といった日々のルーチンをそれぞれ同じ時間きっちりにこなしていた。どんなに天気が悪くても夕方の散歩を欠かすことはなく、散歩中は汗をかかないように、口呼吸をしないようにと慎重に気を使っていた―カントは汗をかいたり口呼吸をすることは健康に悪いと考えていた―。 カントはまた、召使に対して、厳格な軍隊の流儀で「時間です!」との号令をかけて毎朝5時きっちりに起こしに来るようお願いしており、カントがどれだけ「もう少し寝かしてくれ」と強く懇願しても5時を過ぎていれば決してその懇願を聞き入れないよう頼んでいた。カントはしばしば誇らしげに語ったそうである。「この30年間というもの、私の召使は一度たりとも私を2度起こす手間をとることはなかった」と。カントは「肉体面ならびに精神面できっちりとした規則性(regulariry)を保つことは重要なことであると考えていた。カントは、健康に影響が出るのではないか、研究に支障が出るのではないか、と恐れて、些細な変化でさえも嫌っていた。そういうわけで、カントは自分自身に対して厳しく接し、並外れた几帳面さをもって日々を送ったのであった。カントはルールに従うことに痛ましいまでに心を砕き、ついには完全に自らを統御し、自発性(spontaneity)を締め出すことに成功したのであった。」*5
カントとまではいかなくとも、ノイローゼに苦しんでいる人はたくさんいる。神経質すぎる人、仕事中毒の人、時間に几帳面過ぎる人、潔癖症の人、権威主義的な人、ケチな人・・・これらは、あまりにも強すぎるルール志向の「私」を内部に抱え込んでいる人間のいくつかの例である。自己規律の行き過ぎに伴うコストは、心理的なものにとどまらない。例えば、仕事中毒者は、健康上の大きな問題を抱え込むことになるかもしれない。
自己規律(自己統制)が行き過ぎることの危険性については、インサイトセラピスト(insight therapists)と呼ばれる心理学の一学派の人々によって強調されている*6。インサイトセラピーにおいては、自己統制は、しばしば、人格の統合(personality integration)と代替的な関係にあると強調される。人は、パーソナリティ障害(personality disorder)が外部に表出することを抑えるために―パーソナリティ障害の事実それ自体を受け入れようとはせずに―ルール志向の「私」を利用するかもしれない。インサイトセラピーでは、パーソナリティ障害が外部世界に表出されるのを無理にコントロールして抑制しようとするよりはむしろ、逸脱的な衝動と全人格とを調和させるよう試みることを勧めている*7。
逸脱的な衝動と全人格とを調和させることに失敗すると深刻な結果が待ち受けているかもしれない。R. バート(Richard Burt)は、手を塞いだり、使用できなくしたりして、顔を掻きむしりたいという欲求の抑え込みに成功した人の事例を論じている。顔を掻く欲求が抑制された結果として、その人は代わりに自分ではコントロールのできない顔の引きつりを経験することとなった。単に厄介な行動パターンを抑え込むだけでは―ある厄介な行動の抑え込みは、容易にはコントロールのできない別のノイローゼの発生につながるだけかもしれないので―満足な結果を得るには必ずしも十分ではないのである。
ルール志向の「私」が衝動的な「私」をコントロールして抑え込むよりもむしろ衝動的な「私」を鼓舞することが望ましい理由というのがあるかもしれない。互いに対立する欲求を有しているとしても、ルール志向の「私」にとっては、衝動的な「私」を鼓舞することは合理的な行いかもしれないのである。
ルール志向の「私」が有効に活動できるためには、衝動的な「私」による対抗的な活動の存在が必要となるかもしれない。ルール志向の「私」があまりにも強すぎると精神的なバランスの崩壊につながり、その結果ルール志向の「私」がその意志を課す余地が失われてしまうがために、長期的に見るとルール志向の「私」が強すぎることは自身(=ルール志向の「私」)にとっても得ではないということになるかもしれない。また、衝動的な「私」は創造性やイノベーションの種を次々と生み出すことになるかもしれないが、それが価値を生むためにはルール志向の「私」からの協力が必要となるかもしれない。さらには、ちょっとしたルール破りを認めることは規律の完全な放棄を防ぐためにも望ましいことかもしれない。ダイエットに臨む彼/彼女は、事前の計画に厳密に従うことはあまりにもフラストレーションがたまることでありとても耐えきれるものではなく、最悪の場合にはダイエット自体を放棄することにもつながりかねないと感じて、ちょこちょこと計画を破って食べ物に手を出すことになるかもしれない*8。つまりは、衝動的な「私」がある程度強くて健康的であることはルール志向の「私」の利益にもなるかもしれないのである。衝動的な「私」が自らの意志を押し通すことができないほど弱々しいとノイローゼに陥ることになるかもしれず、長期的に見るとルール志向の「私」にとっても得にならないかもしれないのである。
自己解放(self liberation)に役立つ技術はルール志向の「私」にとっても有利に働くことになるかもしれない。例えば、ギャンブルや宝くじの購入、あるいは、その他の衝動的なリスクテイキング活動は、異なる「私」の間の協調(interself cooperation)を促進することになるかもしれない。リスクテイキング活動は、将来利得の不確実性を高めるものである。定期的にリスクを引き受ける人は、(将来がどうなるかわからないという不確実性を持ち込むことで)自らの将来は行き止りであるという感覚を避けることができるかもしれない。将来に希望を見出せない人ほどお酒や薬物にはしる誘惑に駆られたり、自暴自棄になる可能性が高く、それゆえ将来は行き止りであるという感覚は異なる「私」の間の協調や自己規律にとって障害となりかねない。ギャンブルや宝くじの購入といった程度のリスクを引き受けるだけの意志を持つ(ある程度の強さを備えた)衝動的な「私」は、間接的ながらも、ルール志向の「私」を支援していることになるかもしれないのである。というのも、ほどほどの強さを備えた衝動的な「私」のおかげで*9、ヨリ危険な衝動がコントロール可能な範囲や規模に抑制されることになるからである。
宝くじの購入は、将来の期待所得を最大化しているのではなくむしろ、「夢を買っている」("buying a dream")ようなものであるとは、しばしば指摘されるところである(1ドルの宝くじの期待値は、大体40〜60セントくらいである)。宝くじの購入が将来に対する希望を喚起し、異なる「私」の間での協調を促進するものであるとすれば、負の期待値を持つ宝くじを購入することは、実のところは、長期的な効用を最大化しているということになるのかもしれない。ギャンブルは、ルール志向の「私」と衝動的な「私」との協調を図る広範な自己管理のためのプログラムの一構成部分であるのかもしれない。この見解とは対照的に、自己制御の問題を扱う伝統的な分析では、ギャンブルや宝くじの購入は、ルール志向の「私」が制御することを欲する衝動的な活動として捉えられている。
これまで論じてきたリスクテイキングの役割に関する私の仮説は、 宝くじやギャンブルに関する我々の直観の多くとも合致するものである。ちょっと世の中を簡単に見まわしてみると、「将来行き止り」と感じている人ほどギャンブルに向かったり、宝くじを購入したりしているようである。ギャンブルは「将来行き止り」という感覚を克服する手助けとなり、どこか他の領域で自己制御を達成する見込みを高めることにつながっているかもしれない。
行動上の気紛れ(Behavioral quirks)や特性(peculiarities)は、リスクテイキング活動と似たような役割を果たすことになるかもしれない。例えば、私の内にある衝動的な「私」が大学の今のポストをなげうってビジネスの世界に飛び込むよう促すかもしれない。私の内にあるルール志向の「私」は大学から去ることに反対しているとしても、職を変更する可能性があるということは、ルール志向の「私」にとって利益となるかもしれない。私は、衝動的な「私」の唆しによって職を変更する可能性があることにより、杜撰さ(sloppiness)や怠惰(laziness)といった性格に陥らないよう気をつけるかもしれない。というのも、杜撰さや怠惰というのは、大学の外では特に不利になる性格だからである。規律を破ること*10の潜在的なコストを高めることで、ここでも再び不確実性の存在が異なる「私」の間の協調を促進することになるかもしれないのである。ここでは衝動的な「私」が不確実性*11を持ち込んでいるのであるが、衝動的な「私」それ自体が不確実性を生む重要な原因となり得るのである。
*1:原注;一人の人間内部の対内的な選好の集計(intrapersonal preference aggregation)に関連する哲学的な問題の多くは、G.カフカ(Gregory Kavka)によって論じられている。 Gregory Kavka, "Is Individual Choice Less Problematic Than Collective Choice?" (University of California, Irvine, 1988, typescript). 対内的な選好の集計をアロー(Kenneth Arrow)の問題とのアナロジーで理解するならば、選好の基数性(cardinality)を認めない限りにおいては、独裁的な選好の存在が必要になるということになろう。本論文では、異なる「私」の利害を集計するというこの問題を扱うことはしないが、問題の解決には、ルール志向の「私」の利害だけではなく、衝動的な「私」の利害も考慮に入れる必要があるであろう。
*2:原注;以下を参照せよ。 Ronald Heiner, "Rule-governed Behavior in Evolution and Human Society" (George Mason University, 1987, typescript).
*3:原注;J. H. W. Stuckenberg, The Life of Immanuel Kant (New York: University Pressof America, 1986), pp. 102-4.
*4:原注;Ibid., p. 145.
*5:原注;Ibid., pp. 160-62.
*6:原注;Burtを参照せよ。
*7:原注;人格統合は心理学の古典的な研究の多くでも共通して取り上げられているテーマである。例えば、以下の2冊を参照せよ。 Carl G. Jung, The Importance of Personality Integration (New York: Farrar & Rinehart, 1939); and Erik Erikson, Childhood and Society (New York: Norton, 1950) . 心理学における自己統制のコストに関する研究は、フロイトから大きな影響を受けてきている。 Sigmund Freud, Civilization and Its Discontents (1930; reprint, New York: Norton, 1961).
*8:訳者注;ルール志向の「私」にとっては、たとえ計画通りにはすすまなくとも曲がりなりにもダイエットを続けてくれる方が(イライラが募る結果として)ダイエットが途中で放棄されるよりは望ましいことである。時折衝動的な「私」に活躍の場を与えてガス抜きをすることは、ダイエットの成就にとって必要なことかもしれない。
*9:訳者注;衝動的な「私」がギャンブルや宝くじの購入を通じてほどほどのリスクを人生に持ち込むことで、同時に将来に対するほどほどの夢や希望も持ち込まれることになり、人が自暴自棄的になることを防ぐかもしれない。
*10:訳者注;この例では、規律を破ること=怠惰で杜撰な性格の人間になること
*11:訳者注;職を変更する可能性