洋の東西を問わず


清算主義」的な考えというのはある種の普遍性を有しており、洋の東西を問わず人々を魅了するようである。Krugmanは“The Hangover theory”という論考の中で、オーストリア学派景気循環論の背後に流れる清算主義的な世界観の匂いを嗅ぎ取り、批判を加えている。KrugmanはHangover theoryについて次のようにまとめている。

●不況は景気過熱の対価であり(slumps are the price we pay for booms)、不況で苦しむことは、行き過ぎた経済の拡張に対する欠くべからざる「罰」である(suffering the economy experiences during a recession is a necessary punishment for the excesses of the previous expansion)。

●経済のチャートの上下を(株価の上げ下げやら、GDP成長率の変動やらを)一種の道徳劇―傲慢な振る舞いとその後の転落(お仕置き)の悲喜劇の話として―に読み替えようとする(It turns the wiggles on our charts into a morality play, a tale of hubris and downfall)。


この清算主義的なHangover theoryは1930年代の大恐慌時代に大きな役割を演じた。

Liquidationist views played an important role in the spread of the Great Depression--with Austrian theorists such as Friedrich von Hayek and Joseph Schumpeter strenuously arguing, in the very depths of that depression, against any attempt to restore "sham" prosperity by expanding credit and the money supply.

銀行信用とマネーサプライを拡張させて不況から脱出しようと試みることは、「見せかけ」の繁栄を取り戻そうとしているに過ぎない・・・・・。この主張の背後には次のような考えが控えている。

貨幣の膨張や向こう見ずな銀行貸付、後先考えない企業家の市場進出により投資ブームが手に負えなくなる時がくる。過剰投資の結果として経済に過剰なキャパが生まれ、全く稼動してない工場やテナントの見つからないオフィスがそこらじゅうにあふれ出す。大規模プロジェクトは完成するまでに時間がかかるから、経済の「不健全性」が露わになるまで多少の間は見かけ上の好景気が続くかもしれない。しかし、やがて投資家は破産し、これまで蓄積されてきた資本ストックは無駄で役立たずになる。これから始まる不況は、それ以前の経済の異常な拡張ぶりに比例して厳しいものとなり、「過剰な」供給能力が廃棄され、価格と賃金が異常な高水準から「正常な」水準へと下落し始めることによって、経済は健全な姿を取り戻すことになるだろう。また、失業は肥大化した投資財部門から消費財部門に向けて労働者が移動する過程で生まれる摩擦的なものに過ぎず(失業の大半は生産構造の調整に適応する過程で生じるものであり)、需要刺激策は生産の落ち込みによって労働者を吐き出すべき部門を延命させることで経済の調整過程を先送りしてしまう。経済の調整過程をスムーズに進めるためには無理矢理に景気を刺激するようなことは控えるべきだ。不況は経済が「正常な」姿に戻るために通らなければならないプロセスなのである。


Krugmanはこの議論の難点をいくつか指摘する。ここでは一点だけ取り上げておこう。

過去の無駄で向こう見ずな投資の責任を、なぜ現在の何の非もない労働者が失業という形で引き受けなければいけないの?(nobody has managed to explain why bad investments in the past require the unemployment of good workers in the present.)


最後に、大恐慌期に景気刺激策を採ることを否定した論者へのホ−トレ−の言葉を。

彼ら(ハイエクたち)は、「ノアの洪水の真っ只中で“火事だ、火事だ”と叫んでいるようなものだ」


デフレ下のこの日本において、インタゲつきの量的緩和ハイパーインフレを招くことになる、と主張する(心配の素振りを見せる?)人々に是非とも捧げたい言葉である。