需要は有限か


西部邁氏が先導した「出エジプト」(塩沢由典教授による命名)の動きに共鳴し反経済学の道をまっしぐらに突き進んでいたあの頃(そう昔のことではないけれども)、佐伯啓思著『「欲望」と資本主義』の以下の一節を読んで目から鱗が落ちる思いをしたものである。

ふつう経済学では、人間の欲望はあらかじめ無限にあり、これに対して生産資源は有限なのだから、生産物はこの無限の欲望のもとでつねに絶対的に不足していると考えられている。だから経済学の問題はあくまで「稀少性」にあるとされる。どんなに生産しすぎても人間の絶対の欲望に対しては生産過剰ということはないのであって、問題はあくまで「稀少」な資源をどのように使い、かぎられた生産物をどのように分配するかにある。・・・人間の欲望は潜在的には無限かもしれないが、そのもっとも基本的なものは生存に関わるものだろう。すると、これは決して無限なわけではない。・・・ひとつの「種」が社会を構成して存続するための基本条件・・・という観点からすると、人間は明らかに生存に関わる以上のものを生み出しているのである。・・・一般的にあらゆる人間社会は基本的生存水準以上の生産力をもっているのである。その意味では生産は常に「過剰」なのだ。だからこう考えれば、人間社会の経済問題は「稀少」にあるのではなく、むしろ「過剰」にあるというべきではなかろうか。(p75〜76)


「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

 


経済学の教科書を見ると消費の限界効用は逓減すると書いてある。豊かになり消費水準が高まるにつれていつかは欲しいものがなくなってしまうのではないか。(マクロとしての)消費の限界効用もやがて飽和してしまい、生産が需要を上回ることが常態となってしまう(=構造的な過剰生産・超過供給が定着する)のではないか。コンビニやデパートで新品同様の弁当や雑貨が廃棄される様を指摘して生産過剰の例証とする向きもある*1。「豊かな国で生産は過剰になる」という言明は我々の「常識」に訴える力を持っており、そのため欲しいものがないから(=構造的な消費需要の不足のため)現在の日本は長引く不況から抜け出すことができないのである(=現在の不況は豊かさの裏返しである)、という議論に多くの人々が説得力を感じてしまうのかもしれない。しかしながら、「豊かになれば欲しいものがなくなる」という一見すると説得的な議論に基づいて、「消費水準が低いことは欲しいものがないことのあらわれである」、と結論付けるのは早計であって(高貯蓄=欲しいものがない、と単純に等式で語ることはできない)、欲しいものがあっても消費が低迷することはありえる。この点の詳しい議論は「何を消費するか」と「どれだけ消費するか」とを区別すべきだと説く岩田規久男著『デフレの経済学』第7章を参照して欲しいが、価格下落の期待(=デフレ期待)もまた消費低迷の一因となりうる(=価格下落の期待は消費を将来に延期する誘因となる)ということは注記しておきたいところである。


デフレの経済学

デフレの経済学


急速な技術革新や東欧の市場参入、新興工業国からの輸出の急増により資本主義経済は(一国経済にとどまらず世界全体で見て)過剰供給状態に陥ったのだ、との主張も構造的な過剰供給論として人気あるものであるが、クルーグマンはこの主張に「グローバル・グラット・ドクトリン」という名を冠して批判を行っており、その中で「グローバル・グラット・ドクトリン」の背後には「豊かになれば欲しいものがなくなる」との常識に訴える議論が控えていることを指摘している(『資本主義経済の幻想』を参照。該当する文章はウェブ上でも読めます。Is Capitalism too productive?kmori58さん情報。どうもありがとうございますm()m)。


資本主義経済の幻想―コモンセンスとしての経済学

資本主義経済の幻想―コモンセンスとしての経済学


以下、「豊かになれば欲しいものがなくなる」論への批判の一環としてKrugmanによる「グローバル・グラット・ドクトリン」批判を簡単に見ていくことにしよう。


Krugmanはグローバル・グラット・ドクトリンが成立するための前提条件として3点挙げている(p37)。

1.グローバルな生産能力は例外的なまでの速さ、おそらくは前例のないほどの高い伸び率で増大しつづけている

2.先進国の需要は、潜在供給力の増大に追いついていくことができない

3.新興経済圏の成長は、グローバルに見て需要面よりもむしろ供給面でより大きく貢献するであろう


1については逸話や印象論―特定分野での過剰生産の事実や「ムーアの法則」etc―によって形作られた思いつきに過ぎず、統計数字を用いてここ数年のうちにおいて例外的といえるほどの生産力の伸びが見出せないことを指摘、2については「所得が上がるにつれて消費者は、必要な物をすべて購入してしまって満足するようになる、つまり所得が増えるにつれて支出を増やすことには躊躇するようになる、という観念」(p42)の産物であり、これまた統計数字からアメリカの消費支出が増大する所得に歩調をあわせて上昇していることを指摘、「「恒常的な」所得の上昇が見られる場合、それは経済成長に伴うものだが、彼らの支出は所得の上昇に比例して増加する」(p43〜44)と結論付ける(=「豊かになれば欲しいものがなくなる」論に対するデータに基づいた反駁)。3については新興市場諸国は対外債務を返済するため消費を抑えて輸出主導の成長戦略をとっており、低賃金に基づく価格競争力を武器に貿易黒字を計上しているはずという思いつきにほかならず、またまた統計数字を用いて正規(regular?)の経済学者が予測する通り*2実際には新興市場国の多くは貿易赤字を抱えており、賃金も生産性の上昇に伴うかたちで上昇していることを明らかにする。


統計数字を見る限り、グローバル・グラット・ドクトリンが成り立つための前提条件は一つも満たされていない。グローバル・グラット論者は「実在しない問題が実在すると思い込」んでいるのである。

グローバル・グラット・ドクトリンを説く者たちは、退治すべき怪物どもがあたりを徘徊しているというのに(他に解決すべき重大な経済問題があるにも関わらずという意味:引用者)、ドン・キホーテのように風車に挑みかかろうとしているのである(p57)。


生産力過剰に関する懸念は1930年代の大恐慌期にも存在したという(「大恐慌期における雇用不足を1920年代に広汎に導入された大量生産技術に結びつけようとしたのは、ごく当然のことであった」、p34)。「常識」「実感」に訴える考え、あるいは「既得観念」のしぶとさをまざまざと知らされる思いである(フランスでジョスパン政権期に「ワークシェアリング」の議論がグローバル・グラット・ドクトリンと関連付けられて台頭してきた、という指摘も興味深い)。

*1:コンビニでアルバイトをした経験がある人ならば、まだ食することが可能な弁当を惜しげもなく大量に廃棄する際にもったいないと感じたことがあるはずだ。「なんて贅沢な、アフリカの貧しい人々は日々の生活にも困っているというのに」、と強い憤りを覚える正義感溢れる人もいるかもしれない。しかし、コンビニという社会の片隅での経験・観察を一国経済レベルにまで一般化して、「豊かな国では生産は需要を超過する」と結論付けるのはあまりにも飛躍しすぎである。商品に売れ残りが発生する(あるいは廃棄される)理由はその値段が高すぎるためか、あるいはそもそもその商品に対する需要が存在しないためである。大量に廃棄される商品は次回からは入荷が抑えられ(あるいは値下げされ)、その一方ですぐに売り切れとなりしばしば在庫不足に見舞われるような売れ筋の人気商品が存在する。コンビニという狭い世界の中においても、生産過剰の商品もあれば需要過剰な商品も存在するわけである。POSシステムにお金をかけて投資するのも、消費者の動向を素早く見極め、商品間の需給の誤差を調整するためである。営利を目的とする以上、いつまでも大量廃棄されるような(需要のない)商品を店頭に残しておくはずがない。部分的な生産過剰から全体的な生産過剰を類推するのは大きな過ちである。

*2:新興市場諸国の生産性上昇は所得の上昇をもたらす。発展途上の国の人々は、貧しさのため現在の消費水準に満足しているはずもなく、所得増加は供給の増加に劣らぬほどの需要増加につながるはずだ。また、国内貯蓄を上回るほどの投資機会を国内に有する新興市場国の場合(S<I)、支出は収入を上回り資本収支の黒字、翻って貿易赤字を計上するはずである(ISバランス論)。また、当初の価格競争力の優位も生産性上昇に伴う賃金上昇によって軽減されるはずである。(p44〜45参照)