クルーグマン「スタグフレーション vs ハイパーインフレーション」


●Paul Krugman, “Stagflation Versus Hyperinflation”(Paul Krugman Blog, March 18, 2010)

どこからともなくこのコラムを訳すよう促す天の声が聞こえてきたような気がしたので訳してみた。ただし、このコラムに関しては既にoptical_frogさんによる素晴らしい訳が存在している。

●optical_frog, “クルーグマン「スタグフレーション vs. ハイパーインフレ」”(left over junk, 2010年3月19日)

(追記)JD-1976さんのブログ記事(『クルーグマンマクロ経済学』第16章の要約)も参照のこと。

●JD-1976, “第16章 インフレ、ディスインフレ、デフレ(1)”(事務屋稼業, 2009年11月22日)


そういうわけで、以下では私なりの解釈をかなり入れて自分なりに理解しやすいように訳してみた(ところどころ勝手に文章を加えたりして)。クルーグマンの真意を正確に理解したい方+クルーグマンの文章が持つ本来のテンポを楽しみたい方は是非ともoptical_frogさんの訳にあたられたい。

ちょっと反応するのが遅れてしまったが、Mike KinsleyがAtlantic誌にヘンテコな記事を寄稿しているようだ。その記事の中でMike Kinsleyは将来のインフレーションに対する懸念を表明している―現実に目を向けるとインフレ(特にハイパーインフレ)が生じそうな兆候なんてないんだけども。近い将来にハイパーインフレがやってくるのではないかと心配しているのはKinsleyただ一人ではない。ハイパーインフレが目前に迫っているとの予測は2009年中にもたくさん目にしたし、今年に入っても依然としてよく目にする話だ(もの好きにも僕はそういった予測を記録しているんだ)。
ハイパーインフレが目前に迫っているとの予測の妥当性は如何?という問題は置いておいて、今回取り上げたいのは、Kinsleyの記事の中でも特に以下の部分だ。

ハイパーインフレーションというのは、インフレが自己増殖するように加速*1して制御不能に陥るような状況である。2%や3%といったインフレ率であれば安定させることは可能かもしれないが、インフレ率が10%もの高水準に達するともはやインフレを安定させることはできなくなる。人々が10%のインフレ率を当然のものとして受け入れるようになると、10%のインフレを引き起こした諸力が次にはインフレ率を20%にまで引き上げることになり、さらにはやがてインフレ率は40%に達し、というようにインフレは加速を始めることになる。そうしてやがて人々は手押し車に大量の貨幣を載せて運ぶことになるだろう―1920年代にハイパーインフレを経験したドイツ(ワイマール共和国)の写真*2が伝えるようなかたちで。

ウ〜ン、この説明は少なくとも経済学の教科書的な議論に則ったものではない。経済学の教科書では、1970年代のあの悩ましい高インフレと1923年のドイツのハイパーインフレーション(あるいは現在ジンバブエを襲っているようなハイパーインフレーション)とは厳密に区別がなされている。
まずはハイパーインフレについて。ハイパーインフレーションは、実のところ、極めてよく理解されている現象の一つで、経済学者の間ではハイパーインフレの原因について広いコンセンサスがある。基本的には、ハイパーインフレの原因は政府収入(特に財政赤字問題)と大きな関わりがある。政府が税金や借入(国債発行)を通じて自身の支出を賄うための資金を調達できないような状況に陥ると、政府は時に輪転機を頼りにする、つまりは通貨発行を通じた資金調達=シーニョリッジ(seignorage;通貨発行益)の活用、に乗り出すことがある。政府支出を賄うために大量の貨幣が発行されるようになるとインフレーションが生じることになり、人々は価値の低下した現金を手元にとどめておくのをやめてサッサと支出に回すようになる*3。また、インフレが生じると、同量の資源を購入するためにより多くの貨幣が必要になるので、輪転機の回転速度をさらに速めなければならないことになる*4
一方で、1970年代に生じたインフレーション―高失業と高インフレとが併存したことからスタグフレーション(stagnation(経済停滞)+inflation(インフレーション)=stagflation)という名称で広く呼ばれるようになった―は、ハイパーインフレーションとは全く種類が違うものである。1970年代当時、財政赤字は深刻な問題ではなかった。実際のところ、1970年代の高インフレ期における米政府の財政赤字はその後の1980年代のディスインフレ期と比べるとずっと規模は小さかった。1970年代の高インフレは、(財政赤字が原因ではなく)過度な金融緩和政策―金融政策が過度に緩和気味に運営された原因は、NAIRU(インフレーションを加速させることなしに達成可能な最低限の失業率)が非現実的なほど低く見積もられていたことにあった―とオイルショックとが組み合わさった結果として生じたのであった―さらには賃金契約等において物価スライド条項が広範に利用されたこともインフレ率の上昇を促すことになった―。1970年代当時においては、ハイパーインフレーションが発生する危険は全くなかったのである。当時直面していた唯一の問題は、インフレ率を抑制するために高失業という対価を支払う意思があるかどうか、また、高失業を受け入れる意思があるとすればいつどのタイミングで受け入れるか、というものであったのである。
Kinsleyは自然失業率仮説のロジックとハイパーインフレのロジックとを混同しているようである。自然失業率仮説のロジックは、現時点において設定される価格に将来のインフレ期待が反映されること、それゆえ、NAIRU以下の水準に失業率を留めようとすればインフレが加速すること、を説くものである。一方でハイパーインフレのロジックは、人々が貨幣を手元にとどめておくのを嫌ってさっさと支出に回すこと、を説くものである。両者のロジックは全く違うものなのである。
話は変わるが、ハイパーインフレの到来を予測している人々に尋ねたいことがある。あなた方の見立てでは、現在のアメリカと例えば2000年の日本との違いってどこにあるの? 財政赤字の規模とか政府債務残高の規模とか? チェックが必要だね*5。マネタリーベースの規模? これまたチェックが必要だね*6。ところで、日本のGDPデフレーターは2000年以降9%下落してるみたいだね*7

*1:訳者注;インフレがインフレを呼ぶ

*2:訳者注;例えば、この写真

*3:訳者注;その結果としてインフレがさらに加速することになる

*4:訳者注;インフレ発生後も政府がこれまでと同量の資源を買い取ろうとするならば、(税収や借入に頼ることができないとすれば)政府は(貨幣価値の低下を反映して)より一層多くの貨幣を発行しなければならないことになる。貨幣供給量がさらに増加する結果としてさらなるインフレ圧力が生じることになる

*5:訳者注;現在のアメリカも2000年の日本も財政赤字・政府債務残高ともに規模が大きいみたいだ

*6:訳者注;現在のアメリカも2000年の日本もともにかなりマネタリーベースを拡張しているみたいだ

*7:訳者注;おそらくこのパラグラフでクルーグマンが言わんとしていることは以下のようなことだろうと推測。現在のアメリカは、大規模な財政赤字・累積する政府債務残高・マネタリーベースの急拡大、という点から見るに、2000年当時の日本と似たような状況に置かれている。ところで2000年以降の日本は(ハイパーインフレではなく、さらにはインフレさえでもない)デフレに陥っている。「2000年の日本→デフレ」となっているにもかかわらず、どうして「(2000年の日本と似ている)現在のアメリカ→ハイパーインフレ」って言えるの?