「中央銀行の独立性」とか「アイデアの政治経済学」とか


特段仲が悪いわけでもないのになかなか都合があわずに1〜2年まったく顔を合わせないことがあるかと思うと、ちょっとしたきっかけで頻繁に顔を合わすようになって連日のようにランチをともにしたり、という経験はままあるものです。そうです。一方的に喋りまくるあの知人と街中でばったりと出くわして今日もまた彼と一緒にランチに向かったんです。というわけで、その時の会話の様子を再現してみる(話題があっちこっち飛んだもので内容にまとまりがあるかどうかはわかりませんが)。


○「中央銀行の独立性」と「民主主義」との関係

安倍自民党総裁の発言もあってか、ここ最近はネットのニュース記事なんかを見ていても「中央銀行の独立性」の話題をよく目にするよね。

そういえば、アラン・ブラインダーがこの論文で「民主主義」社会における中央銀行の「独立性」のあり方(「中央銀行の独立性」が「民主主義の原理」と矛盾しないために満たすべき要件)について論じているよね。内容的にはアラン・ブラインダー著『金融政策の理論と実践』の第3章(「中央銀行の独立性」)と被っているけどね。

Alan S. Blinder, “Central Banking in a Democracy(pdf)”(Economic Quarterly, FRB of Richmond, vol.82/4, Fall 1996)


ブラインダーは「中央銀行の独立性」というので何が意味されているのかについて次の2点を挙げているよね。

①(「目標の独立性」と「手段の独立性」とを区別した上で)「手段の独立性」の保証、②(特別な状況を除いては)政府の他の部門によって金融政策上の決定を覆される恐れがないこと。

①に関連してちょっと長めの突貫訳を試みてみるよね。

「(独立した;訳者挿入)中央銀行は目標をどのように達成するかを自由に決定することができる。ただし、ここで「自由に決定できる」というのは中央銀行が目標を自ら自由に決定できるということを意味するわけではない。民主主義社会においては、政府(political authorities)が(中央銀行が達成すべき)目標を設定した上で、その目標の達成を中央銀行に命じる(instruct)というあり方が適切でもあり、また当然でもある(obligatory)と思われる。中央銀行が「独立している」ためには、中央銀行は(政府によって)課せられた目標を追求する上で自由に政策手段を行使できる大きな裁量を手にする必要があるが、自ら目標を設定する権限を持つ必要はないのである。中央銀行にそのような(自ら目標を設定する)権限を認めることは、選挙で選ばれたわけでもないテクノクラートに対してあまりにも過剰な(行き過ぎた)権力を付与することを意味するものと私には思われるのである。民主主義社会においては、その種の決定(中央銀行の目標の設定)は選挙で選ばれた国民の代表に任されるべきである。そのような形を通じて(政府によって課された目標を達成するための「手段の独立性」を携えた上で)中央銀行は国民の意志(public will)に服するべきなのである。」(pp.9)


ブラインダーは「中央銀行の独立性」が「民主主義の原理」と矛盾しないために満たすべき要件として6点挙げてるよね(pp.10〜13)。

①立憲的選択としての「中央銀行の独立性」、②選挙で選ばれた政治家が中央銀行の目標を設定すること、③正直である(言行が一致している)こと、④説明責任を果たすこと(あるいは政策決定の過程をオープンにすること)、⑤中央銀行のリーダー(総裁等)は大統領(とか首相)によって任命されること、⑥非常事態(特別な状況)においては中央銀行の決定を覆すことが可能であること、の計6点だね。

①は簡単に言うと、(国民の代表たる)議会が「中央銀行の独立性」を認める法律を通したってことだね。そんでもって立憲的な決定なので変更するのもそう簡単ではないということだね。

ブラインダー自身が言及しているわけではないけれど、例えば中央銀行行員が団結してクーデター等暴力的な手段を行使して独立性を勝ち取ったという場合は民主主義と矛盾するってことになるよね。

④(説明責任を果たすこと)に関連してまたもやちょっと長めの突貫訳を試みるよね。

「金融政策上の決定は一般の人々の生活に対して甚大な影響を及ぼすものである。それゆえ、民主主義社会における中央銀行は一般国民に対して自らの行動を説明する−今現在何を行っているのか、なぜそのような行動をとったのか、そのように行動することでどのような結果が期待されるのか、を説明する−責任を負っていると私は考える。私がFedに仕えていた際にしばしば口にしたものだが、「アメリカ経済というのは彼ら一般国民のものであって、我々Fedのものではない」(“It’s their economy, not ours.”)のである。中央銀行が自らの行動に対する理にかないまた首尾一貫した説明を行うことで、金融政策を取り巻いている神秘の多くを取り除くことが可能となり、外部の人間が中央銀行の決定を同時進行で評価することが可能となるであろう。そしてまた、この点が重要なのだが、(中央銀行が自らの行動に対する理にかないまた首尾一貫した説明を行うことで)外部の人間が中央銀行の行動が成功であったか失敗であったかを事後的に判断することができるようにもなる―結局のところ最も重要なのは(問題となるのは)歴史の審判なのである―だろう。・・・(省略)・・・私の個人的な意見では、国民に対する説明責任というのは「中央銀行の独立性」から自然と導かれる道義的な結論(moral corollary)であるように思われる。つまりは、民主主義社会においては、中央銀行による行動の自由は国民一般に対してその行動を説明する義務を含意すると思われるのである。独立性と説明責任とは対立的な関係にあるのではなく共存の関係にある。民主主義社会における「中央銀行の独立性」は(中央銀行が国民に対して)説明責任を果たすことによって正当化されるのである。」(pp.11〜12)

国民に対して説明責任を果たすために政策決定過程の透明性を高めることは、中央銀行の行動に対する外部からのリアルタイムにとどまらず事後的な検証も可能にするってわけだね。そして特に「事後的な」検証を可能にするっていう点が重要だって話だね。

たぶんその理由は金融政策の効果が表れるまでには時間的なラグがあるからだろうね。そしてラグがあるからこそ金融政策の決定はフォワードルッキングにならざるを得ない、言い換えれば、将来的なマクロ経済の動向を予測した上で現在の行動を決定せねばならないからだろうね。

事後的な検証=後々振り返ってみて「当時の決定は正しかったのか?」(当時の予測は正しかったのか? その決定に至った理屈は正当なものだったのか?)ってことだね。

例えば、某銀があのタイミングでゼロ金利を解除したのは正しかったのか? あの時点で量的緩和をやめたのは正しい判断だったのか?って話だね。

ゼロ金利解除や量的緩和の終了は、足許のインフレ率ではなく、将来のインフレ予測に照らしての判断だった、との見方があるかもしれないけれど、もしそうだとすればその決定が成功であったのか失敗であったのかについては事後的に検証してみる必要があるよね。予測が正しいものだったどうかは時間の経過によってのみ判明する話だからね。

予測の正しさだけではなく、その決定に至った理屈の正しさを検証するには、判断材料が必要だよね。その判断材料を提供するのが政策決定過程の透明性ってわけだね。


そういえば、あのスティグリッツもこの話題に関連してそうな論文を書いてるよね。

●Joseph Stiglitz(1998), “Central Banking in a Democratic Society”(De Economist, July 1998, Volume 146, Issue 2, pp. 199-226


anomalocarisさんが「道草」で訳されてるこの記事(「中央銀行についての大嘘」by Joseph E. Stiglitz)と内容的に重複しているところがあるかもしれないよね。といっても、まだこの論文ちゃんと読んでないんだけどね。この論文についてはまた今度会った時にでも、ということだね。 


○「中央銀行の独立性」に関する政治経済学的な分析

中央銀行の独立性」それ自体を説明すべき対象として捉えるという発想も重要だろうね。「中央銀行の独立性」なる制度がどのようなプロセスを経て確立されるにいたったのか(ならびにどのようなプロセスを通じて維持されているのか)、言い換えれば、「中央銀行の独立性」の生成過程(ならびに維持過程)に関する政治経済学的な分析ってことだね。

中央銀行の独立性」という制度は天から降ってきたわけではなくて、対立する利害を有する集団間のゲームの結果とみなすことができるかもしれないよね。具体的には、「中央銀行の独立性」が確立されることで得をする集団がそれによって損をする集団を打ち負かした結果であるのかもしれないよね。

中央銀行の独立性」の生成過程に関する政治経済学的な分析を行うことの意味は(知的な興味・関心を魅かれるというだけにとどまらず)実践的な意味合いもあるよね。生成過程を理解することによりそれをどう変更したらよいかについてヒントが得られるかもしれないからね。

わかりやすいところだと、「中央銀行の独立性」という制度の変更を促すためには「中央銀行の独立性」が確立されることで得をする集団の政治的な影響力を削ぐような方法を考えればいい、というのが思い付くよね。

例えば、オルソン説くところの集合行為の問題の解決を困難にする、言い換えれば、その集団が一致団結して政治的な活動(ロビー等)を起こすことが困難になるよう仕向けたり、あるいは、その集団が「中央銀行の独立性」以外の方向に向けて政治的な働き掛けを行うよう仕向けるってことだね。

何ともあれ、まずは「中央銀行の独立性」の生成過程に関する政治経済学的な分析に着手する必要があるよね。・・・・え? 今から? そんな猶予はない、だよね? 安心するよね。既に先行研究があるからね。例えばポーゼンさんが次のような論文を書いてるよね。

●Adam Posen, “Declarations Are Not Enough: Financial Sector Sources of Central Bank Independence(pdf)”(NBER Macroeconomics Annual 1995, Volume 10, pp. 253〜274)


論文のタイトルから推測できるかもしれないけれど、ポーゼンさんは「中央銀行の独立性」が確立されることで(ひいては低インフレが実現することで)得をする利益集団として民間銀行等を含んだ金融セクターに着目しているよね。

金融システム改革のような一見すると「中央銀行の独立性」とは関係のないように見える制度改革によって「中央銀行の独立性」をめぐる制度の変更が促される、という可能性もあるかもしれないよね。

金融システム改革によって金融部門における集合行為の解決が困難になったり、レントシーキングの対象として「中央銀行の独立性」以外の方面に注力したほうが大きなレントが得られると期待されるようになったりすれば、相対的に「中央銀行の独立性」を支持する利益集団の力が弱まることになるからね。


○アイデアの政治経済学

ところで、経済学上のアイデアが現実の政策決定過程に与える影響っていうのはそう単純なものではないかもしれないよね。政策当局者がアイデアに説得されてそれを実践に移す、というだけではなく、言い訳やら隠れ蓑として政策当局者に都合よく利用されちゃうってこともあるかもしれないよね。

ボルカー連銀によるマネタリズムの受容なんかそうかもしれないよね。ここでマッカラムも指摘しているようにね。

「1979〜1982年間のFRBによる有名な「マネタリズムの実験」・・・は、実際のところは、マネタリスト的な教義に則ったものではなかった、と(マネタリストらは)主張した。・・・(省略)・・・現時点から振り返ってみると、FRBによる非借入準備の操作を通じた政策運営は、FRBが国民と円滑な関係を築く上では非常に効果があったように感じられる。というのは、国民的には人気のない利子率の高止まりという結果が生じたとしても、FRBは利子率が高いのは市場需要が旺盛であるからだと言い逃れをすることができたからである。」

さっき話題にあがったブラインダーも似たような指摘をしているよね。最近久し振りに『ハードヘッド&ソフトハート』を読み直したんだけど、その中で次のような記述があるよね。

「なぜ連邦準備制度理事会は、まさしく最悪の時機にマネタリズムを受け入れるという愚行をしでかしたのだろうか。・・・(省略)・・・私の答えは簡単である。ボルカー議長はインフレの鎮静化を固く決意しており、そのためには拷問に近い高金利が必要なことを十分心得ていた。けれども彼は、議会に出頭してパイプをふかしながら、わが国は21%のプライム・レートを必要としています、などというつもりは毛頭なかった。彼の必要とする熱シールドはマネタリストが与えてくれた。高金利に対する苦情がでても、連邦準備制度の役人はマネタリストの学説の傘の下に隠れることができた(事実、彼らはそうした)。私たちの仕事はマネーサプライの管理であり、金利の管理ではない、といえばそれですむ。要するに連邦準備制度理事会マネタリズムと結託したのは、あくまでも便宜上のことであり、連邦準備制度理事会マネタリズムに入信したわけではなかった。」(アラン・ブラインダー著/佐和隆光訳『ハードヘッド&ソフトハート』, pp.145〜146)

連邦準備制度理事会の新しい金融政策は、驚くほどの成功を収めた。この政策は金利を高目に誘導し、信じがたいほどに金利を不安定化した。そのため、家を新築する人や農民など、高金利による被害を被る人びとを大いに苦しめたにもかかわらず、驚くほどわずかな政治的糾弾しか受けなかった。なかでも特筆すべきは、連邦準備制度理事会の政治的中立が侵されずにすんだことである。マネタリズムという熱シールドのおかげで連邦準備制度理事会は、容易にインフレ鎮静策をとることができたのである。」(同書, pp.146)

「まさしく最悪の時機にマネタリズムを受け入れるという愚行」っていうのはあれだよね。マッカラムもブラインダーも指摘しているけど、70年代〜80年代になって貨幣需要関数(あるいは貨幣の流通速度)が不安定になったことを示す実証的な証拠が積み上がってきていたんだよね。

FRBの政治的中立が侵されずにすんだことと引き換えに熱シールドたる「マネタリズム」は「失敗した」との烙印を押されることになったわけだよね。マッカラムはこう指摘してるよね。

「また、FRBは、見かけ上はマネタリスト的なアプローチを採用しているかのように振る舞い、「実験」が失敗したとなれば、マネタリズム(と常日頃FRBに対して文句ばかり言ってくるマネタリスト)に失敗の責任を被せることができたからである。時間が経過して全貌が明らかになると、「実験」は− 一時的には痛みを伴うものであったかもしれないが−戦略的な成功であったと見なされるようになり、「マネタリズムの失敗」という評価だけはそのまま残るという顛末になったのであった。」

ついでながらブラインダーの件の本では合理的期待理論を含む「新しい古典派」も政治に都合よく利用されたって話が出てくるよね。

「新しい古典派経済学が学界外部に及ぼした主たる影響は、ケインズ主義の権威を失墜せしめたことである。新しい古典派の理論それ自体は、具体的な政策提言を導き出すには、あまりにも抽象的にすぎ、政策決定者たちが理解するには、あまりにも神秘的にすぎた。だがしかし、ケインジアンの政策提言に従うことを嫌う政治家たちは、その提言を無視するための口実として、新しい古典派経済学者の著作に訴えるという、便利な隠れ蓑を手に入れたのである。こうして結局、ケインズ主義の権威は失墜し、新しい古典派経済学は、すぐ後に続く、いんちきサプライサイド経済学登場のための地ならし役を、心ならずも引き受けたのである。」(『ハードヘッド&ソフトハート』, pp.155〜156)


金融政策の理論と実践

金融政策の理論と実践

ハードヘッド ソフトハート

ハードヘッド ソフトハート


(追記)「ブラインダー」連呼ついでに。来年1月に新刊が刊行予定とのこと。この度の金融危機が主題の模様。

Alan S. Blinder 『After the Music Stopped:The Financial Crisis, the Response, and the Work Ahead』

After the Music Stopped: The Financial Crisis, the Response, and the Work Ahead

After the Music Stopped: The Financial Crisis, the Response, and the Work Ahead