NAIRUとヒステレシス
個人的なメモ用としてスティグリッツの1997年のJEP論文 “Reflections on the Natural Rate Hypothesis”(Journal of Economic Perspectives, Vol.11(1), pp.3-10)を眺めていて興味をひかれた箇所を突貫訳してみる。
人口構成の変化やwage aspiration effect(労働者による生産性の上昇ペースを上回る実質賃金の引き上げ要求)、生産物・労働市場における競争の促進といった要因以外の第4の要因が今まさにNAIRU*1に影響を及ぼしつつあり、また近い将来においてもそうなるかもしれない。第4の要因というのはヒステレシス(履歴)である。「高失業が長引くことで徐々に自然失業率が上昇していくことになるだろう」というアイデアはおそらくヨーロッパ経済との関連で最も広く語られていると言えるだろう。このアイデアを支える直観はこうである。高失業が長引くと失業者(アウトサイダー)の仕事上のスキルと職探しのスキルがともに毀損される一方で、現在職を得ている人々(インサイダー)は雇用の促進(失業の減少)よりも(自分たちの)賃金の維持を図ろうとする、と。現在アメリカではこれとは逆向きの力が働いているかもしれない。ヒステレシスがここ最近のアメリカにおいてNAIRUが低下している理由の一つであることを示す決定的な証拠はないものの、もしもヒステレシスがNAIRUに影響を及ぼすのだとすれば、高失業は我々がこれまで考えてきた以上に悪いものだ、ということになろう(というのも、高失業によりNAIRUが高まることになるから)。そして低失業は我々がこれまで考えてきた以上に好ましいものだ、ということにもなろう(というのも、低失業によりNAIRUが低下することになるから)(注4)。」(pp.8)
「(注4)自然失業率概念を提示するにあたって、ミルトン・フリードマンは、政策当局者による総需要管理政策の選択とそれ(政策当局者による総需要管理政策)に対する制約とを切り離して論じた。(自然失業率はどの水準にあるか、自然失業率が変化したのはなぜか、といった問題を考える上で)人口構成といった労働市場におけるサプライサイドの要因が第一義的な重要性を持っているという点に関しては私もフリードマンに同意する。しかしながら、ここで取り上げたヒステレシス効果によると、マクロ経済政策を実行する立場にある政策当局者は経済のサプライサイドだけによって決まる単一のNAIRUを前提にして政策を決めねばならないというわけではなく、自然失業率の水準は総需要の動向にも依存していることが示唆されることになるのである。つまり、フリードマンによる二分法*2は誇張され過ぎているかもしれないのである。」(pp.8)
「ここで私はもっと議論を推し進めて、フィリップスカーブが凹型(concave)であるかもしれないことを示す証拠のいくつかを提示してみたいと思う。・・・(省略)・・・凹型のフィリップスカーブという非線形性の存在が今後の研究でも支持されることになったとすれば、リスク回避的な政策当局者であっても失業率の低下に向けた実験*3に乗り出してみようという気になるかもしれない。ここで仮に現実の失業率が6か月間にわたってNAIRUを0.5%ポイントだけ下回っていたことが後になってわかったとしよう。もしフィリップスカーブが凹型であれば、(現実の失業率がNAIRUを下回ることで生じる)インフレ率の上昇分を打ち消すために現実の失業率は(6か月間にわたって)NAIRUを0.5%ポイントだけ上回る必要はなく、失業の増加はもっと穏やかなもの―例えば、現実の失業率がNAIRUを0.4%ポイントだけ上回る期間を6ヶ月間続ける―でよいだろう。もしもヒステレシス効果が重要なものだということが証明された場合には、この結論は一層強められることになるだろう*4。」(pp.9-10)
*1:訳注;インフレ非加速的失業率。Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment)。
*2:訳注;自然失業率は経済のサプライサイドの要因だけによって決まり、ディマンドサイドの影響は一切受けない
*3:訳注;現実の失業率がNAIRUを下回る可能性を引き受けた上で失業の解消に乗り出す
*4:訳注;ヒステレシス効果が働く場合、現実の失業率がNAIRUをしばらく下回るとNAIRU自体が低下することになる。そのため、現実の失業率とNAIRUとのギャップもその分小さくなり、結果として生じるインフレ率の上昇も軽微なものにとどまることになる。そしてインフレ率の上昇分を打ち消すために必要となる失業の増加も一層穏やかなものでよいことになる。