M.トーマ(or ソーマ)「成長政策 vs 安定化政策」


●Mark Thoma, “Growth Policy versus Stabilization Policy”(moneywatch.com, May 25, 2010)

訳せという声がどこからともなく聞こえてきたような気がしたので、訳してみました。

他の学問分野(disciplines)においてもそうだろうが、経済学においても、その学問内部において関心が向けられる重要な質問は時代とともに変化する。マクロ経済学の分野においては、取り組むべき質問として2つの重大な質問(two big questions)が存在しており、どちらの質問に学者の大勢の注意が注がれるかは現実に生じる経済上の出来事の移り変わりとともに変遷する傾向にある。2つの重大な質問のうちの一つ目の質問は、安定化政策(stabilization policy)―マクロ経済を可能な限り長期的な成長経路に維持するための経済政策―に関わるものであり、二つ目の質問は成長政策(growth policy)―長期的な成長率それ自体の最大化を目的とする経済政策―に関わるものである(安定化と成長との間に関連があるかどうかを検討する研究も存在している。経済変動が安定すればするほどそのことで不確実が減じ、結果として経済成長が促進される可能性もあれば、経済変動を安定化しようとする政府介入が経済成長を抑制することにつながる可能性を示すモデルも存在する。安定化と成長との関係は、アプリオリには判断できない問題ということである)。

2つの重大な質問の間での関心の移り変わりに関する具体的な例は過去に遡って見いだすことが可能であるが、ここでは1970年代の事情を取り上げることにしよう。当時も経済成長の問題に関心を注いでいた学者もいるにはいたが、1970年代〜1980年代初期の混乱の時期における学界の主要な関心は、いかにして経済の安定化を首尾よく実現するかという点にあった。伝統的なケインズ政策は、インフレーションやインフレ期待の問題をうまく考慮できていなかったこともあり、経済の好ましい安定化を実現することができずにいた。伝統的なケインズ政策の失敗は、政策立案に対するよりよい指針を提供する新たな経済モデルの構築を促すことになり、その結果として学界の前面に登場してきたのが新しい古典派モデル(New Classical model)であった。しかしながら、新しい古典派が現実の景気循環の長さ(duration)やその規模(magnitude)をうまく説明することができなかったことに加えて、「予測されざる金融政策だけが重要である(only unanticipated money matters)」との新しい古典派モデルのインプリケーションが現実のデータと矛盾しているように見えたこともあって、学界の主流は新しい古典派モデルからニューケインジアンモデル(New Keynesian model)へと移り変わることになった。

ニューケインジアンモデルとそのモデルの新たな政策提案である政策ルールに則った安定化政策とはうまく機能するように見え、世界の主要な経済は「大いなる安定(グレート・モデレーション)」(“The Great Moderation”)として知られる時代に突入することになった(政策ルールに則った安定化政策とは何かという点に関して簡潔に述べると、経済の安定化政策として、中央銀行による政策金利の設定に焦点が置かれ、政策金利の水準はテーラールール(Taylor rule)―テーラールールによれば、政策金利は、産出(実質GDP)とインフレーションに反応するかたちで操作され、特に政策金利はインフレ率の変化以上の幅で操作されることなる(訳者注;例えば、インフレ率が1%上昇すると、政策(名目)金利を1%以上引き上げる、というように)―に基づいて設定されることになる)。1980年代初期に始まる「大いなる安定」の時期においては、低位かつ安定したインフレーションと実質GDPの変動の50%近い低下が実現することになり、「大いなる安定」の到来の結果として、経済安定化の問題はもはや解決されたのだ、との見解が生まれることになったのであった。適当な金融政策によって「大いなる安定」という経済の安定化が生み出されたとの理解が広まることになり、財政政策のようなその他の政策ツールは経済成長の最大化を実現するための手段として割り当てられることになったのであった(その一つの結果が、経済成長の促進に貢献するものとして正当化されることになったサプライサイドに働きかける一連の財政政策―キャピタルゲインや配当に対する減税措置をはじめとした―の採用であった)。

「大いなる安定」の時期の到来の結果として、学界の注目は成長理論や成長政策に向けられることになった。安定化の問題は適当な金融政策の運営によって対処可能なもはや解決された問題なのであり、次に解決が待たれている主要な問題は成長の問題である、ということになったのであった。「大いなる安定」の時期以前のように現実の経済が依然として不安定なままであったならば、安定化政策も引き続き学界の注目を受けたであろうが、ニューケインジアンモデルに基づく最適な金融政策ルールの発展がもはや安定化の問題は解決された問題であるかのように感じさせることになったのである。

もちろん、最近の出来事(=世界的な金融危機)が疑いのない明瞭なかたちで示しているように、安定化の問題は依然として未解決のままなのであり、いかにして経済の安定化を実現するかという質問は再び学界の最前線で取り組まれるべき質問である。確かに、最近の出来事を受けて、ある程度学界の注目は安定化の問題にも注がれるようにはなっているが、私(=Thoma)の個人的な印象としては、経済の安定化を実現する我々の能力は、経済政策の善し悪しはそれがどれだけ経済成長の促進に貢献するかだけに基づいて判断すべきだと主張する人々によって制約を課されているのではないかと感じるのである。成長こそが解決すべき主要な問題であるとの声が学界において依然として幅を利かせているために、金融危機に伴う経済の落ち込みへの対処策として採用を検討された経済刺激策は、いかにして経済の安定化を実現するかに主要な関心が置かれるべきであったにもかかわらず、その政策が長期的な経済成長の促進にどれだけ貢献するかによって正当化される必要があったのである。経済刺激策として減税(保守派によれば、減税は経済成長を促進するものであると理解されている)やインフラ整備に対する政府支出に力点が置かれたのはその表れである。しかしながら、実際に実行に移されたタイプの減税はほとんどが貯蓄に回り、インフラ整備に対する政府支出は実際に実行に移されるまでには非常に長い時間を要するものである(加えて、インフラ整備に対する政府支出は、他のタイプの政府支出と比べて、1ドル当たりの雇用創出力は弱いものであるかもしれない)。つまりは、実際に実行されたこれらの経済刺激策は最適な経済安定化政策ではないのである。人々の手元に直接お金が渡り、即座に雇用を生み出すようなタイプの政府支出が実行されていれば、経済刺激効果は実際よりもヨリ早く表れていたかもしれず、経済をトレンドの近くまで引き戻すという意味でヨリ大きな便益が生み出された可能性があるが、こういった政策は、長期的な経済成長への貢献という観点からは正当化することが困難であったために、実際に実行されるために必要なだけの支持を得ることができなかったのである。

私個人としては、経済の安定化は個々人にとって重要な意味を持っており(つまりは、個々人が感じる効用は、経済の不確実性が大きければ大きいほど低くなる傾向にある、ということ)、経済の安定化が個々人にもたらすその便益だけに基づいて安定化政策を正当化できると考えるものではあるが、安定化政策が同時に経済成長の最大化につながると主張するに足るだけの理由は存在しない。経済成長を最大化する政策は経済を安定化する政策とは別物であり、いかなる政策もそれがどれだけ長期的な経済成長を促進することに貢献したかによって正当化しうるのだとする見解は経済の安定化を犠牲にする結果となってしまうことだろう。我々が採用する政策は、安定化と成長のどちらの目標にも目を配るべきであるが、私個人としては、近年においては、政策を立案するにあたって経済成長の促進にあまりにも多くの注意が注がれてきており、経済の安定化には決して十分な注意が向けられていないのではないかと考えている。

幸いなことに、最近の世界経済を襲った出来事は、1980年代初期以降の学界の流れである「成長が何よりも大事」(“growth above all else”)との見解からの発想の転換を促す契機となるであろうし、また、学界のヨリ多くの注目が経済安定化政策に注がれる契機ともなることだろう。我々は、適当な政策対応を通じて、現下の経済刺激策以上に速やかに雇用を生み出すこともできるし、不況の初期の段階でもっと首尾よく総需要を刺激することもできる(そして、総需要が刺激されれば、GDPや雇用の落ち込みが抑えられることになる)。しかしながら、以上のことを実現するためには、我々はまず何よりも、経済の安定化は重要な政策目標である、ということを認識しなければならず、同時に、経済安定化を実現する政策は経済成長の最大化にとって必要な政策とは必ずしも同じものではない、ということを認識しなければならない。人々の人生(People’s lives)、あるいは少なくとも人々の暮らし向き(People's livelihoods)は、これらの点を認識できるかどうかにかかっているのである。