「自然と人為、ケインズと柴田」


久しぶりに某友人と会ってランチ。お得意のマシンガントークは衰えを知らず・・・というかむしろその勢いはさらに増しており、相槌を打つ暇さえありませんでした。某友人よ、そんなに急いでどこへ行く?

デフレがどうして生じるか(デフレの原因)というとその理由は大まかに2タイプに分けられるよね。総需要の不足かあるいは(生産性の上昇をはじめとした)正の総供給ショックかのどちらかだよね(hicksianによる補足;AD-ASモデルで言うと、総需要の不足はAD曲線の左シフトに、正の総供給ショックはAS曲線の右シフトにそれぞれあたる)。

産出量(実質GDP)に及ぼす影響という点では両者の間で大きな違いがあるけれど(hicksianによる補足;総需要が不足する場合は産出量は減少し(あるいは実質経済成長率は低下し)、正の総供給ショックが発生した場合は産出量は増加する(あるいは実質経済成長率は上昇する))、どちらもデフレ(あるいはインフレ率の低下)という結果をもたらすことになるよね。

さて、ひとまず総需要の不足(によるデフレの発生)の話題は一旦脇に置いておいて、生産性の上昇によってデフレが発生したとするよね。というか、生産性の上昇によってデフレが発生するのは自然な(必然的な)成り行きなんだろうか? 生産性の上昇が物価にどういう影響を及ぼすかは「金融政策のレジーム」次第だと個人的に思うんだよね。

例えば、中央銀行が「インフレ目標」を採用していてプラスのインフレ率の達成を目標に掲げていたとするよね。その時「生産性の上昇」ショックのためにデフレ圧力が生じて、インフレ率が目標インフレ率を下回りそうだとなったとしたら中央銀行はどう行動するだろう? インフレ率が目標インフレ率を下回ることがないように金融緩和に打って出るだろうね。つまり、中央銀行が「インフレ目標」を採用している場合、生産性が上昇してもデフレ(インフレ率の低下)は生じないという結果になる可能性があるわけだよね。

さて、一方で中央銀行が「NGDP目標」を採用しているとするよね。この場合、「生産性の上昇」ショックが発生したら中央銀行はどう行動するだろう? 先の「インフレ目標」を採用している場合とは違って金融緩和に打って出ることはないだろうね。「NGDP目標」を採用している場合、中央銀行がターゲットとするのは名目GDP成長率だよね。名目GDP成長率が目標の範囲にある限りはその内訳(インフレ率と実質GDP成長率)がどう変化しようと関係ないはずだよね。「生産性の上昇」ショックは「実質GDP成長率の上昇」と「インフレ率の低下」というかたちとなって表れる可能性が高いよね。つまり、中央銀行が「NGDP目標」を採用している場合、生産性が上昇するとデフレ(インフレ率の低下)が生じるという結果になる可能性があるわけだよね(hicksianによる補足;このあたりの議論はベックワースによる次のエントリー「インフレターゲットの問題点 by David Beckworth」(erickqchanさん訳)が参考になるだろう)。

というわけで、生産性の上昇が物価にどういう影響を及ぼすかは「金融政策のレジーム」次第だと言えるわけだよね。中央銀行が「インフレ目標」を採用していれば(生産性の上昇に伴って)デフレは生じないし、「NGDP目標」を採用していれば(生産性の上昇に伴って)デフレが生じるというわけで。ところで、中央銀行がどの「レジーム」の下で金融政策を運営することになるかは人為的な面があるよね。どの「レジーム」の下で金融政策を運営するかは運命によって(あるいは神の思し召しによって)あらかじめ決まっているというわけではなく、複数ある選択肢の中から選び出された結果なわけだから。となると、生産性の上昇によってデフレが発生するのは自然な(必然的な)成り行きだとは言えないわけで、ある程度人為的な選択の結果だと言えるわけだよね。さっきも触れたように、中央銀行が「NGDP目標」を採用している場合は生産性の上昇によってデフレが生じることになるけれど、それは中央銀行が「NGDP目標」というレジームを採用している結果であるわけで、そういう意味で生産性の上昇によってデフレが発生するかどうかは中央銀行がどのようなレジームを採用(選択)するかという人為的な要因に拠っていると言えるわけだよね。


ランチを終え、そのまま近くの喫茶店に入る。店内に流れるジャズに聞き入る・・・余地など与えず、某友人のマシンガントークは続く。

ところでつい最近、柴田敬著『経済の法則を求めて』を読み直したんだけれど、こんな話が書いてあったよね。

ケインズは次のように考えていた。経済の発展につれて①限界消費性向は低減し(その結果総消費が伸び悩む)、②資本の限界効率は低下する(その結果総投資が伸び悩む)という法則があり、1930年代の大恐慌は①と②の法則の結果として生じた必然的な事態である、と。

でも、ケインズのその判断は事実誤認であり、「偶然を必然と見誤る」ものだ・・・と柴田氏は評価しているよね。

「1930年代に生じた大恐慌の原因は総需要の異常な収縮にあり」というケインズの判断は正しいが、総需要が収縮した原因を①と②の法則に求めるのは間違っている。1930年代に総需要が大きく収縮したのは、「「金本位制度の支配下においては世界経済にもマーシャリアンkが支配する」ことに気づかなかった当時の指導者たちが間違った貨幣政策を採用した、という「偶然」の事情に起因するのである。」・・・というのが柴田氏の評価だよね。

簡単に言うと、各国が金本位制に復帰したのが大恐慌の原因であり、大恐慌金本位制という「金融政策のレジーム」を採用したがために生じた「偶然の」結果だ、ということだよね(hicksianによる補足;この点について詳しくは韓リフ先生の次のブログエントリー「忘れられたリフレ派、没後20年」/「忘れられたリフレ派、続き」を参照)。

金本位制度の支配下においては世界経済にもマーシャリアンkが支配する」というのはこういうことだよね。「マーシャリアンk」(マーシャルのk)というのは貨幣対名目所得比(M/Py)のことだけれど(ケンブリッジ現金残高方程式「M=kPy」のk)、金本位制下にあった時期の世界経済全体を見ると、世界全体に存在する貨幣用の金の総額(M)と世界全体の名目所得(Py)の比(世界全体で見たマーシャルのk)が一定の値で安定していることに柴田氏は気付いたんだよね。

第一次世界大戦が勃発すると各国は金本位制から離脱することになったわけだけれど、その結果世界経済は「世界経済のマーシャリアンk」の支配から自由になって(言い換えると、金の量に束縛される必要がなくなって)Py(名目所得)が大きく上昇することになったんだよね。

でも、しばらくすると各国は金本位制に復帰し始めることになったわけだけれど、そうなると再び「世界経済のマーシャリアンk」がその力を発揮し始めることになるわけだよね。

Pyが上昇した分kは低下しているわけだけれど、この間貨幣用の金の量はそれほど増えておらず、そのためkが元の値に戻るためには(上昇するためには)Py(名目所得)が低下しないといけないよね。

kが元の値に戻ろうとする調整過程で名目所得ひいては総需要が急激に収縮し、その結果として生じたのが大恐慌だというわけだよね。柴田氏は実際に事が起こってからそう診断したわけではなくて大恐慌が発生する前の時点で「(金本位制への復帰によって)総需要は大きく落ち込むぞ!」と予測していたんだけれどね。

というわけで、1930年代に発生した総需要の不足はケインズが語るように必然的なものではなく、(金本位制という)レジームを選択した結果として招かれたものであり、「偶然」の結果だと柴田氏は評価しているわけだよね。「偶然」は「人為的」と言い換えてもいいかもしれないよね。

さて、さっきのランチの時に一旦脇に置いておいた「総需要の不足によるデフレ」の話題だけれど、ここでも「自然」と「人為」という区別が関わってくるよね。総需要の不足を「必然」の法則に求めたケインズとレジームの選択という「偶然」に求めた柴田敬、「限界消費性向の低減傾向」と「資本の限界効率の低下傾向」の「自然な」(必然的な)結果として大恐慌が招かれたのだと説くケインズ金本位制という金融政策のレジームを選んでしまったがために(レジームの「人為的な」選択の結果として)大恐慌が招かれたのだと説く柴田敬というわけだよね。「過去20年近くの日本で総需要が不足しているのは買いたいものが無いからだ」とか「(過去20年近くの日本で総需要が不足しているのは)人口減少の結果だ」という声を聞くことがあるけれど、これは(柴田氏が解釈する)ケインズの立場に近いように感じるよね。「構造的な」総需要不足とでも形容できるもので、平成下の日本経済を苦しめている総需要不足は金融政策だとか財政政策といったマクロ経済政策では(あるいは金融政策のレジームを転換することによっては)解決できない問題といった意識が強く表れているよね(hicksianによる補足;「構造的な」総需要不足という表現は、田中秀臣著『経済政策を歴史に学ぶ』から借りてきたもののようだ。単に表現だけではなく、内容の面でも多くを負っているようだ)。一方で、故岡田氏のあの論文(hicksianによる補足岡田靖小幅で頑固な日本のデフレーションは問題か?」)などは柴田敬の流れを汲むものとして解釈できるよね。「金融政策のレジーム」に総需要不足(殊にデフレ)の原因を求めるという意味でね。

時間が無いので強引にまとめておくとこういうことだよね。デフレが生じるのはいかなる「金融政策のレジーム」を選ぶかという「人為的な」要因に拠っている面が大きいということだよね。「構造的な」総需要不足は例外だけれど、生産性の上昇がデフレにつながるかどうかはいかなる「金融政策のレジーム」を採用しているかに拠っており、また「金融政策のレジーム」は総需要の不足をもたらすことでデフレを生む可能性があるわけだからね。「デフレは(ほぼ)人為的な現象である」と格言っぽくまとめておくよね。

Marcus Nunes 「アベノミクスのこの1年の成果を振り返る」


●Marcus Nunes, “‘Abenomics’ one year on”(Historinhas, January 16, 2014)

一昨年(2012年)の9月のこと、経済を再び力強い成長軌道に乗せるとともにデフレからの脱却を目指すことを公約に掲げた安倍晋三氏が自民党の新たな総裁に選出された。そして、同年の12月に行われた衆院選自民党が勝利を収めたことで安倍氏は晴れて第96代の内閣総理大臣に就任することになったわけだが、それから1年が経過しようとしている。この1年の間に安倍氏の公約はどの程度果たされているだろうか?

以下ではいくつかの図表を通じてこの1年のアベノミクスの「パフォーマンス」を見ていくことにしよう。

まず最初の図表はインフレ−ヘッドラインインフレ率(青色)およびコアインフレ率(赤色)−の推移を辿ったものである。

日本のインフレ率は長い間マイナス(デフレ)の領域を漂っていたが、上の図にあるようにここにきてインフレ率はその勢いを増しつつある*1ように思える。


次の図表は総需要(名目GDP;赤色)と(実質的な)産出量(実質GDP;青色)の推移を辿ったものだが、どちらの伸び率(成長率)もともにプラスの領域に向けて大きくバウンド(急上昇)している様が見て取れることだろう。


次の図表は日経平均株価(青色)と為替レート(ドル円レート;赤色)の推移を辿ったものである。

上の図表にあるように株価は大きく上昇しているわけだが、この株価の動きはアベノミクスの効果についてポジティブな期待が抱かれていることを示唆していると言えるだろう。また、円が減価(円安)傾向にあることも見て取れるが、通貨の減価は金融緩和が実体経済に影響を及ぼす上で重要な経路の一つである。この点に関連して、日本と貿易の面で競合する国の間から「日本は「近隣窮乏化」(‘beggar-thy-neighbor’)政策に乗り出している」との非難の声が当初あがっていたわけだが、そのような反応は筋違いであったと言えよう。というのも、次の図表に示されているように、確かに日本の輸出(青色)は増えているがそれ以上のペースで輸入(赤色)が増えているのである−その結果、日本は貿易収支の赤字を抱える格好となっている−。

(輸入の伸びが輸出の伸びを凌駕しているという)この事実は、金融緩和に伴う所得効果*2が通貨の減価に伴う交易条件効果*3を上回っていることを示唆していると言えるだろう。言い換えると、貿易赤字の拡大は内需国内需要)の増加を反映しているのだ。

アベノミクス」が進行中の日本とユーロ圏の現状を比較してみるのも面白いだろう。

次の図表は日本とユーロ圏のマネーサプライ(M3)の伸び率の推移を示したものである。日本(赤色)ではアベノミクスの計画に沿うかたちで金融政策は緩和スタンスにあるが、ユーロ圏(青色)では金融政策は引き締めスタンスにあることが見て取れるだろう。


両経済圏における金融政策のスタンスの違いを考えれば、両者の間でインフレが対照的な動きを見せているとしても何も驚くことはないだろう。日本ではインフレ率は目標である2%に向かって上昇を続けている一方で、ユーロ圏ではインフレ率は目標を下回っているばかりか低下傾向にあり、ユーロ圏の中にはデフレを経験している国も見られるのである。


日本銀行とECB(欧州中央銀行)の行動の違いがどのような結果の違いをもたらしているかを要約したものが最後の図表である。この図表では日本(青色)とユーロ圏(赤色)の実質GDP成長率の推移が示されている。


要約することにしよう。アベノミクスは(安倍氏の)公約を果たしつつあるように思える。今後もこの調子が続くことを祈るばかりだ。そしてユーロ圏については次のように結論付けられるかもしれない。ユーロ圏は「日本が抜け出しつつある状況」に向かって歩を進めているのかもしれない*4

*1:訳注;マイナスからプラスの領域に上昇する傾向にある

*2:訳注;金融緩和によって総需要ひいては総所得が増加し、その結果輸入需要が増加する効果

*3:訳注;円安によって国内製品が国外製品よりも価格面で割安になり、その結果純輸出(輸出マイナス輸入)が増加する効果

*4:訳注;このままいくとユーロ圏は(日本と入れ違うかたちで)デフレや長引く景気の低迷を経験することになるかもしれない、ということ

気になった論文や論説あれこれ


忘れないように書き留めておこう。


*日本経済関連

●Simon Wren-Lewis, “Japan’s consumption tax: a test of modern macro?”(mainly macro, October 1, 2013)

Koichi Hamada, “Japan’s Tax-Hike Test”(Project Syndicate, October 24, 2013)

●Barry Eichengreen, “Japan rising? Shinzo Abe’s Excellent Adventure(pdf)”(The Milken Institute Review, Fourth Quarter 2013)

●Thomas Klitgaard, “Japan's Missing Wall of Money”(Liberty Street Economics, November 4, 2013)

●Paul Krugman, “PPP and Japanese Inflation Expectations (Extremely Wonkish)”(The Conscience of a Liberal, October 27, 2013)

クルーグマンはつい先日行われたばかりのIMFのカンファレンス(の中のマンデル=フレミング講演)で報告を行っており(“Currency Regimes, Capital Flows, and Crises(pdf)”)、その中でアベノミクスケーススタディーの一つとして取り上げている(pp.29〜pp.30)。

●Benjamin R Mandel, “Abenomics and the Yen – Implications of \ Depreciation for Japanese Equities and the Policy’s Success(pdf)”(Citi Research, September 20, 2013)

Mandel氏はこのエントリー(「予想インフレ率を測る新たな指標 〜日本の予想インフレ率の動きを辿る〜」)の執筆者の一人。PPP(購買力平価)のアイデアに依拠した(日本の)予想インフレ率の推計についても(比較的最近のデータまで加味した上で)言及あり。



*金融政策関連

●Christina D. Romer, “Monetary Policy in the Post-Crisis World: Lessons Learned and Strategies for the Future(pdf)”(Sumerlin Lecture, Johns Hopkins University, October 25, 2013)

●Kenneth N. Kuttner and Adam S. Posen, “Goal Dependence for Central Banks: Is the Malign View Correct?(pdf)”(Paper presented at the 14th Jacques Polak Annual Research Conference, Hosted by the International Monetary Fund, Washington, DC., November 7–8, 2013)

●William B. English, J. David López-Salido and Robert J. Tetlow, “The Federal Reserve’s Framework for Monetary Policy― Recent Changes and New Questions(pdf)”(Paper presented at the 14th Jacques Polak Annual Research Conference, Hosted by the International Monetary Fund, Washington, DC., November 7–8, 2013)

Abstract
In recent years, the Federal Reserve has made substantial changes to its framework for monetary policymaking by providing greater clarity regarding its objectives, its intentions regarding the use of monetary policy― including nontraditional policy tools such as forward guidance and asset purchases―in the pursuit of those objectives, and its broader policy strategy. These changes reflected both a response to changes in economists’ understanding of the most effective way to implement monetary policy and a response to specific challenges posed by the financial crisis and its aftermath, particularly the effective lower bound on nominal interest rates. We trace the recent evolution of the Federal Reserve’s framework, and use a small-scale macro model and a simple static model to help illuminate the approaches taken with nontraditional monetary policy tools. A number of foreign central banks have made similar innovations in response to similar developments. On balance, the Federal Reserve has moved closer to “flexible inflation targeting,” but the Federal Reserve’s approach differs in important ways from the strict implementation of that paradigm by including a balanced focus on two objectives and the use of a flexible horizon over which policy aims to foster those objectives. Going forward, further changes in central banks’ frameworks may be needed to address issues raised by the financial crisis. For example, some have suggested that the sustained period at the effective lower bound points to the need for central banks to establish a different policy objective, such as a higher inflation target or nominal GDP targeting. We use our small-scale model of the U.S. economy to examine the potential benefits and costs of such changes. We also discuss the broad issue of how central banks should integrate financial stability policy and monetary policy.


フリードマン関連

●Paul Krugman, “The Friedman-Eichengreen Theory of the Great Depression(pdf)”(March 28, 2009)

●Edward Nelson, “Milton Friedman and the Federal Reserve Chairs, 1951−1979(pdf)”(October 23, 2013)

Abstract
This paper studies the interactions between Milton Friedman and the three Federal Reserve Chairmen from 1951 to 1979: William McChesney Martin, Arthur Burns, and G. William Miller. Friedman had much praise for monetary policy in the first half of Chairman Martin’s tenure, which covered the immediate post-Accord years of 1951−1960, and singled out the achievement of price stability. Friedman felt, however, that an overemphasis on interest-rate stabilization during the 1950s had led to a money growth pattern that magnified cyclical fluctuations. Friedman had considerable misgivings about the monetary policy of the 1960s, especially once a period of monetary restraint was abandoned in 1967. In the 1970s, both Chairmen Burns and Miller were at odds with Friedman on the issue of the extent to which monetary policy could restore price stability.

ロナルド・コース逝去


「経済を支える制度的な構造と経済の機能に対して取引費用ならびに所有権が果たす役割の重要性を発見し、その明確化に努めた」業績を称えて1991年にノーベル経済学賞を授与されたロナルド・コース(Ronald H. Coase)が先日の9月2日に逝去されたとのこと。102歳でした。
どちらかと言えば寡作の学者だったと言えるのかもしれませんが、コースの論文はいずれも質の高い優れたものでした。「企業の本質」「社会的費用の問題」(ともに『企業・市場・法』に収録*1)は取引費用経済学(あるいは新制度学派経済学)や「法と経済学」の分野を開拓した偉業であり、自らの名前が冠された「コースの定理*2や取引費用のアイデアは企業論や「法と経済学」の分野を超えて政治経済学等の幅広い分野にわたって応用されています(取引費用の観点から政治経済学の問題に接近している著作としては、例えばディキシット著『経済政策の政治経済学―取引費用政治学アプローチ』があります)。
他にも、耐久財の独占的な供給を巡る「コースの推測(Coase Conjecture)」やここ最近韓リフ先生が頻繁に言及されている「アイデア市場」論文*3、経済学史の方面における一連の論文*4(この方面の論文は「アイデア市場」論文とともに『Essays on Economics and Economists』に収録されています)など一般的にはそれほど知られてはいないものの数多くの分野で独自の業績を残しています。
なお、私は今のところ未読ですが、ワン・ニン氏と共同で執筆し、今年の2月に邦訳も出版された『中国共産党と資本主義』がコースの遺著ということになるでしょう*5。私が目にした中では以下の記事 “Saving Economics from the Economists”(Harvard Business Review, December 2012)がコースによる最新の執筆物のようです。
コースの業績の概要については今井賢一教授による「やさしい経済学−巨匠に学ぶ【コース】」(日本経済新聞、2003年2月3日〜2月12日)を参照してください。
コース教授のご冥福をお祈りします。



(左から時計回りにロナルド・コース(Ronald Coase)、ダンカン・ブラック(Duncan Black)、ジェームス・ブキャナン(James Buchanan)、ジェームス・ファーガソン(James Ferguson)、ウォレン・ナッター(Warren Nutter)、ゴードン・タロック(Gordon Tullock)、リーランド・イェーガー(Leland Yeager)。1962年に撮影されたもの)


企業・市場・法

企業・市場・法

経済政策の政治経済学―取引費用政治学アプローチ

経済政策の政治経済学―取引費用政治学アプローチ

Essays on Economics and Economists

Essays on Economics and Economists

中国共産党と資本主義

中国共産党と資本主義


(追記)以下では、私の目についた範囲でではありますが、コース逝去に関する海外のブログエントリーをまとめていきます。

●Paul Walker, “An intellectual giant has fallen”(Anti-Dismal, September 3, 2013)

For me the most important thing in Coase’s work is that we see most of the main issues of the modern theory of the firm being raised together for the first time. He sets out to “discover why a firm emerges at all in a specialized exchange” − a question about the existence of the firm; he also sets out to “study the forces which determine the size of the firm” − an issue to do with the boundaries of the firm; and he inquires into the reasons for “diminishing returns to management” − issues to do with the internal organisation of the firm. It was the efforts to answer these questions that initiated the charge from seeing the theory of the firm as just part of price theory to seeing it as an important topic in its own right. Coase also provides one of the main building block for answers to these issues, the “costs of using the price mechanism” or transaction costs.


●Peter Klein, “Ronald Coase (1910-2013)”(Organizations and Markets, September 3, 2013)

He changed the way economists thought about the business firm, and the way they thought about property rights and liability. He largely introduced the concepts of transaction costs, comparative institutional analysis, and government failure. Not all economist have agreed with his arguments and conceptual frameworks, but they radically changed the terms of debate in the economics of law, welfare, industry, and more. He is the key figure in the “new institutional economics” (and co-founder, and first president, of the International Society for New Institutional Economics).


●Edward Lopez, “Ronald Coase (1910-2013): He kept his hands dirty”(Political Entrepreneurs, September 3, 2013)

He is most famous for the “Coase Theorem,” which is fairly easy to grasp at a superficial level but is quite rich and nuanced at deeper levels. For this reason, the idea is often misunderstood. In my view, Deirdre McCloskey’s short article, “The So-Called Coase Theorem(pdf)” is required reading for getting into that depth and nuance. It is also quite polarizing, in characteristic McCloskey form.

His deeper legacy, in my view, will be his method. He always encouraged economists (actually, social scientists more broadly) to “get their hands dirty.” By this he meant that true understanding of human affairs requires getting into the nitty-gritty of human affairs. Put in a different way, Coase understood that people find ways of getting along with each other when it’s worthwhile to do so (which is more often the case than not), and when it’s not worthwhile then a messy, imperfect world is the understandable state of things. It’s those ways of getting along that should be the social scientist’s primary focus–not the elegant solutions of mathematical models that are too often several steps removed from reality. Nirvana is not an option.


●Geoffrey Manne, “Truth on the Market on Coase”(Truth on the Market, September 2, 2013)

Probably my favorite, and certainly most frequently quoted, of Coase’s many wise words is this(pdf):

One important result of this preoccupation with the monopoly problem is that if an economist finds something―a business practice of one sort or other―that he does not understand, he looks for a monopoly explanation. And as in this field we are very ignorant, the number of ununderstandable practices tends to be rather large, and the reliance on a monopoly explanation, frequent.

Of course this, a more generalized statement of the above from The Problem of Social Cost(pdf), is the essence of his work:

All solutions have costs, and there is no reason to suppose that governmental regulation is called for simply because the problem is not well handled by the market or the firm. Satisfactory views on policy can only come from a patient study of how, in practice, the market, firms and governments handle the problem of harmful effects…. It is my belief that economists, and policy-makers generally, have tended to over-estimate the advantages which come from governmental regulation. But this belief, even if justified, does not do more than suggest that government regulation should be curtailed. It does not tell us where the boundary line should be drawn. This, it seems to me, has to come from a detailed investigation of the actual results of handling the problem in different ways.


●Laurence Arnold, “Ronald Coase, Nobel Winner Who Studied Corporations, Dies at 102”(Bloomberg, September 3, 2013)

●Kevin Bryan, “On Coase's Two Famous Theorems”(A Fine Theorem, September 3, 2013)

●Richard Epstein, “Ronald Coase: One of a Kind”(Ricochet, September 2, 2013)

●Peter Boettke, “Ronald Coase and Comparative Institutional Analysis”(Coordination Problem, September 3, 2013)

●John B. Taylor, “Teaching about Ronald Coase and Private Remedies in Economics 1”(Economics One, September 3, 2013)

●Sandeep Baliga, “Ronald Coase”(Cheap Talk, September 3, 2013)

●Jonathan H. Adler, “Coase on Externalities”(The Volokh Conspiracy, September 2, 2013)

●Larry Downes, “Remembering Ronald Coase”(HBR Blog Network, September 3, 2013)

●Jacob Goldstein, “The Nobel Laureate Who Figured Out How To Deal With Annoying People”(Planet Money, September 3, 2013)

●John Cassidy, “Ronald Coase and the Misuse of Economics”(Rational Irrationality, September 3, 2013)

●Mike Konczal, “How Ronald Coase Demolished Current Libertarian Ideas About Property”(Rortybomb, September 3, 2013)

●Dylan Matthews, “Ronald Coase is dead. Here are five of his papers you need to read.”(Wonkblog, September 3, 2013)

●David Henderson, “The Man Who Resisted 'Blackboard Economics'”(Wall Street Journal, September 4, 2013;拙訳はこちら


(追々記)注3で触れた「アイデア市場」論文に関するインタビューの該当箇所を以下に翻訳しておこう。

Reason:次に1974年にAmerican Economic Reviewに掲載された論文「財の市場とアイデアの市場」(“The Market for Goods and the Market for Ideas”)について伺いたいと思います。この論文は発表当時かなりの騒動を巻き起こすことになり、この件でタイムマガジンからインタビューを受けることになりましたね。この論文ではどのようなことが語られているのでしょうか? どうしてあそこまで物議を醸すことになったのでしょうか?

コース:あの論文が物議を醸すことになった理由は、財市場に対する規制(政府の介入)を肯定すべきかどうかという問題とアイデア市場に対する規制(政府の介入)を肯定すべきかどうかという問題との間には何らの違いもない、と語ったからでしょうね。 加えて、消費者の無知の程度を勘案すると、財市場に対するよりもアイデア市場に対する規制を肯定すべき一層の理由がある、と語ったのも騒動のきっかけとなったのでしょう。消費者にとってはアイデアの善し悪しを判断するよりもモモの缶詰の(品質の)善し悪しを判断する方がおそらくは簡単でしょうからね(訳注;アイデア市場におけるよりも財市場における方が消費者の無知の程度が軽い、という意味)。

Reason:そこであなたはこう述べたわけですね。財市場における消費者が無知なために政府の規制によって保護されるべきだとすれば、政府はアイデア市場にも介入して学者や政治家、専門家の言論を監視すべき(アイデア市場における無知な消費者を彼らの言論から保護すべき)と考えねばならない、と。

コース:その通りです。政府が一方の市場(財市場)に介入するだけの能力を備えていると想定するのであれば、政府にはもう一方の市場(アイデア市場)にも同様に介入するだけの能力があると想定する必要があります(訳注;そのように想定しないと首尾一貫していない)。

Reason:そこで言論の監視を行う連邦哲学委員会(federal philosophy commission)を設置すべきだ、という論の運びになるわけですね。

コース:そうです。その話を聞いてメディアはゾッとしたのでしょう。モモの缶詰の生産に規制を課すべきか、報道を規制すべきかを同じ理由に基づいて判断するとすれば(訳注;政府が万能であると想定した場合に、規制を通じて無知な消費者を保護しようとするのであれば)、報道に対する規制を実施すべきだとの結論になるだろうと私は語ったわけです。

Reason:帰謬法に訴えたわけですね。

コース:メディアで発言する人々は財市場に対する規制はすべてよいもの(訳注;財市場に介入する政府は万能)と想定していたわけですが、それとは逆の想定(訳注;財市場に介入する政府の能力には限りがある)にはまったく思いも及ばなかったわけです。

*1:『企業・市場・法』に収録されている他の論文のうちで個人的にお勧めなのは「経済学における灯台」(“The Lighthouse in Economics(pdf)”)です。この論文では、灯台(のサービス)という「公共財」が歴史上いかにして私的に供給されていたかが分析されており、新制度派経済学の観点からする経済史研究の模範と言えるでしょう。

*2:といっても、コース自身がそのように命名したわけではなく、スティグラーが命名したものです。コース自身は単純化された(=取引費用がゼロの場合に成り立つ)「コースの定理」には不満を抱いていました。この点については、『企業・市場・法』の冒頭に収められている論文「企業、市場、そして法」を参照してください。

*3:「アイデア市場」論文を発表した当時はメディアでもちょっとした話題になったようです。この件についてはReason誌とのインタビュー(“Looking For Results:Nobel laureate Ronald Coase on rights, resources, and regulation”)を参照してください。

*4:個人的にはアダム・スミスに関する論文(“Adam Smith's View of Man(pdf)”)がお勧めです。

*5:エッセンスはこちらの論説を読めば掴めるかもしれません。Ronald Coase and Ning Wang, “How China Became Capitalist”(CATO Policy Report, January/February 2013)

『経済学101』


この度、以下のサイトの翻訳陣の一人に名を連ねさせていただくことになりました。

●「経済学101−経済学的思考を一般に広めることを目的とした非営利団体です


この「経済学101」(のうち翻訳部門)は、私自身もこれまで微力ながらも翻訳の協力をさせていただいておりました「道草」の後継サイトという位置づけになります。「道草」との一番の大きな違いは、元記事の著者から翻訳の正式な許可を得ているところにあります(「道草」で翻訳されている記事は基本的にはゲリラ訳(原著者の許可を得ることなく勝手に翻訳)であり、正直なところ著作権的に問題を抱えていたと言わねばなりません)。現在のところ翻訳許可が得られているサイトの一覧はこちらをご覧いただきたいと思いますが、他の著者とも翻訳権の取得に向けて目下交渉中とのことであり、心置きなく(=著作権侵害を恐れることなく)翻訳できるサイトの数は今後一層増えるものと思われます。また、「道草」ではマクロ経済の話題が主となっていましたが(そういう決まりが特段あったわけでもないのですが)、「経済学101」ではマクロ経済に限らず経済学の話題であれば何でも訳して構わない(むしろそのような方向性が望ましい)とのことのようです。
「自分も『経済学101』に翻訳記事を投稿したい」「このサイト(あるいはこの著者)の翻訳許可を是非とも取得してもらいたい(そして訳してもらいたい)」といった要望やサイトの運営方針に関するご質問等がございましたら、代表理事である青木理音氏night_in_tunisia氏までその旨ご相談いただければと思います。

コーエンの新訳が近々出版されるらしいよ


◎タイラー・コーエン著/石垣尚志*1訳 『アメリカはアートをどのように支援してきたか−芸術文化支援の創造的成功』(ミネルヴァ書房、2013年07月刊行予定)

以下、出版元であるミネルヴァ書房のHPより引用。

芸術文化の振興に関して、対立するふたつの立場がある。ひとつは芸術文化への助成を否定し、市場に任すべしとする立場、もうひとつが芸術文化は素晴らしいものであり公的に助成すべきだとする立場である。両者はたいてい相手の存在を無視して自分たちの主張を繰り返すばかりである。本書は、アメリカにおけるそれぞれの立場の主張内容と意義そして可能性と限界を整理し、望ましい芸術文化支援のあり方を探る。(原著=Tyler Cowen, Good & Plenty: The Creative Successes of American Arts Funding, Princeton University Press, 2006.)

[ここがポイント]
◎ 原著者タイラー・コーエンは2011年にイギリス「エコノミスト」誌によって「世界に最も影響力をもつ経済学者の一人」に選ばれた人物。
◎ これからの日本の文化政策を考えるうえで比較対象となるアメリカの事例が取り上げられている。


原著は2006年に出版された『Good and Plenty: The Creative Successes of American Arts Funding』(Princeton University PressのHPで第1章(pdf)を読むことができる。また、コーエンのHPで第1章の草稿(pdf)を読むこともできたり)。

以下はリッチモンド連銀発行のRegion Focusに掲載されたコーエンのインタビュー。原著である『Good and Plenty』が出版される直前に行われたものであり、『Good and Plenty』の内容についても話題に上っている。

●“Interview−Tyler Cowen(pdf)”(Region Focus, FRB of Richmond, Winter 2006


Good & Plenty: The Creative Successes of American Arts Funding

Good & Plenty: The Creative Successes of American Arts Funding


ちなみに、本書はコーエンによる文化経済学方面の著書としては2冊目の邦訳。1冊目の邦訳は以下。

創造的破壊――グローバル文化経済学とコンテンツ産業

創造的破壊――グローバル文化経済学とコンテンツ産業


翻訳を手に取る前に原著を再度読み直しておきたいところだけれど、それにしても夏場に額に汗しつつコーエンの文化経済学と向き合う機会が多いような気がするのは気のせいだろうか。

ついでながら、9月にコーエンの新著(『Average Is Over: Powering America Beyond the Age of the Great Stagnation』)が出版される予定とのこと。『The Great Stagnation』(邦訳『大停滞』)の続編という位置づけのようだ。

The Great Stagnation: How America Ate All the Low-Hanging Fruit of Modern History, Got Sick, and Will( Eventually) Feel Better

The Great Stagnation: How America Ate All the Low-Hanging Fruit of Modern History, Got Sick, and Will( Eventually) Feel Better

大停滞

大停滞

*1:訳者である石垣氏のブログはこちら

水準目標の利点とは?


以下、高橋洋一(監訳・解説)『リフレが正しい。FRB議長ベン・バーナンキの言葉』(「第7章 日本の金融政策、私はこう考える」)より引用。

「物価水準目標」の具体的な形態としてここで私が想定しているのは、「過去5年間を通じて、デフレではなく、たとえば年率1%といった緩やかなインフレが起こっていたと仮定した場合」に到達していたはずの水準にまで、物価水準(物価水準は生鮮食料品を除いた消費者物価指数のような、標準的な物価指数によって測定されることになるでしょう)を回復させる意志(あるいは意図)を、日本銀行が宣言するという方法です。

・・・(省略)・・・

ここでご注意いただきたいのは、私が提案している「物価水準目標」においては、目標が絶えず変動し続けるということです。すなわち、2003年時点で目標にすべき物価水準は、1998年の実際の物価よりも約5%高いことになりますが、2003年以降に関しては目標となる物価水準は年率1%のペースで上昇することになるのです。

デフレは物価水準の下落を意味しますが、デフレが生じている間も目標とすべき物価水準は上昇を続ける(現在のケースでは年率1%で上昇する)ことになります。となりますと、デフレの克服に失敗すると私が言うところの「物価水準ギャップ」(Bernanke, 2000)が拡大する結果となります。物価水準ギャップというのは、「実際の物価水準」と、「デフレが避けられ、物価安定の目標が常時達成され続けたと仮定した場合に到達していたであろう物価水準」との差のことです。(pp.212〜213)

物価水準ギャップを埋めるための試みは、次のように2つの段階を踏むことになるでしょう。

まず第1段階では、物価水準ギャップを埋め合わせ、それまでのデフレの影響を打ち消すことが目指されることになります。そのため、第1段階においては、インフレ率は長期的な目標インフレ率(現在のケースでは1%のインフレ率)を上回ることになるでしょう。この第1段階は「リフレーション段階」と呼ぶことができるでしょう。

物価水準ギャップが完全に埋め合わされ、現実の物価が目標となる物価水準に達すると―あるいは現実の物価が目標となる物価水準の目前にまで接近すると―、第2段階に移行することになります。この第2段階では、通常のインフレ目標あるいは通常の物価水準目標に則って政策が運営されることになり、長期的な目標インフレ率(現在のケースでは1%のインフレ率)の達成が目指されることになります。(pp.213〜214)

エガートソンとウッドフォード(2003)は、ゼロ下限制約下における金融政策の問題を取り扱った最近の重要な論文の中で、日本が物価水準目標を採用すべき別の理由を提示しています。

彼らは(他の多くの専門家と同様に)、「名目金利がゼロあるいはほとんどゼロのときには、中央銀行は、国民の間でインフレ期待を喚起することによってのみ、実質利子率を引き下げることが可能である」と指摘しています。

また、エガートソンとウッドフォードは、これまで私が語ってきたようなタイプの「物価水準目標」のほうが、「インフレ目標」よりも短期的な予想インフレ率の上昇につながりやすいと主張しています。

なぜそう言えるのかを理解するためには、次のポイントをおさえておけばよいかもしれません。すなわち、「『物価水準目標』の下では、「現実の物価水準」と「目標となる物価水準」との差が広がれば広がるほど(中央銀行が目標の達成に失敗すればするほど)、中央銀行はその後の期間において、より一層積極的な行動に打って出る必要に迫られることになる」ということです。

・・・(省略)・・・

・・・目標となる物価水準が年率一定の割合で上昇する「物価水準目標」の下では、デフレが続く限り、「物価水準ギャップ」は時とともに拡大を続けることになります。

そのため、「物価水準目標」の下では、中央銀行が目標の達成に失敗した場合、国民は「将来的に中央銀行は一層積極的な行動(例えば、公開市場での資産購入額の拡大)に打って出るに違いない」と期待することになりますし、そのように要求することにもなります。

ですから、仮に中央銀行が目標の達成期限を設けることには消極的だとしても、「物価水準目標」という政策枠組みは、デフレの克服に向けたこれまでの試みが不首尾に終わった場合に「脱デフレに向けた努力を今後一層強化すること」にコミットする方法を中央銀行の手に授けてくれることになるわけです。

エガートソンとウッドフォードが示しているように、「物価水準ギャップが拡大するにつれて、中央銀行は一層積極的な試みに打って出るに違いない」との期待が生み出されるとすれば、国民は最終的にはインフレがデフレに取って代わると信じることになるでしょう。その結果、実質金利の低下がもたらされ、目標の達成に向けた中央銀行の努力への後押しとなると考えられるのです。(pp.216〜219)