コーエン著「中東和平に向けたロードマップ? 〜公共選択論の観点から〜」

●Tyler Cowen(2004), “A Road Map to Middle Eastern Peace? - A Public Choice Perspective”(Public Choice, Vol. 118, No. 1/2, pp. 1-10)/〔2022年6月23日〕訳を全面的に修正。

イスラエルパレスチナの間で和平がなかなか達成されずにいるのは、なぜなのだろうか? ブッシュ大統領が提案する「中東和平のロードマップ」は和平の達成につながるだろうか?


これらの疑問に答えるにあたり、本論文では、中東問題の細々とした論点からはちょっと距離をとった上で、公共選択論の観点から、戦争や対立(conflict)に関する基本的な問いに思いを巡らせてみようと思う。本論文では、「そもそも戦争が起きるのはなぜなのだろうか?」、「和平交渉に臨む各国がしばしば『取引の利益』(gains from trade)を得られずにいるのはどうしてなのだろうか?」といった基本的な問いに取り組む。中東問題に関するコメントや外交政策に関する議論の多くからは、木を見て森を見ず、といった印象を受ける。本論文においては、歴史家や中東問題の専門家が持ち合わせているであろう制度面に関する専門知識に渡り合うつもりなどない。その代わり、経済学者としての立場から、いくつかの基本的な概念に焦点を絞って議論を進めるであろう。


Trade and the Coase theorem (取引とコースの定理


経済学的な観点からすると、「コースの定理が成り立たないのはなぜなのか?」というのが国家間の対立に関する中心的な問いということになる。国家間の対立の文脈でコースの定理を読み替えると、戦争は起こるはずがないということになろう。対立している国は、戦争に乗り出すよりも、お互いにとって得になる取引機会をめぐって交渉し得たはずである。結局のところ、対立している国は、戦争を回避すれば、より高い生活水準を享受できたはずだし、死者(犠牲者)の数を減らせたはずなのだ*1。軍事面で不利な立場に置かれている国は、戦争に乗り出すよりも降伏を選択すべきなのである*2


この基本線を踏まえた上で、コースの定理が成り立たない理由をいくつか見ていくとしよう。そして、コースの定理が成り立たない理由を国際紛争の文脈の中で検討してみるとしよう。また、対立は、人類の歴史を通じて極めて頻繁に見られる現象であったという事実もしかと記憶しておくとしよう。


Transactions costs (取引費用)


コースの定理に対する古典的な反論は、「取引費用が高いと、コースの定理は成り立たない」というものである。関連する当事者が(取引費用が高いせいで)取引のために一堂に会することができなければ、そもそも交渉を行えない。しかしながら、中東問題に関して言えば、取引費用は本質的な問題であるとは思えない。イスラエルパレスチナも交渉のためにしばしば会合を開いているのである。


Lack of binding enforcement or commitment (拘束力のある契約の履行メカニズムの欠如/コミットメントの欠如)


拘束力のある契約を書くことができなければ、コースの定理は成り立たないことがある。例えば、ポーランドにとって、平和のためにヒットラーを買収するという選択はあり得なかった。というのも、ヒットラーは、ポーランドからお金を受け取った上で、その後何事もなかったかのように約束を破ってポーランドを侵略し得たろうからである*3


この問題はある程度の妥当性を有しているが、イスラエルパレスチナにとってはそこまで核心的な問題であるとは言えない。というのも、イスラエルパレスチナがお互いにとって得になる合意を取り付けることができれば、外部の第三者がその合意の履行を保証することができるかもしれないからである。中東問題に関しては、イスラエルとエジプトからの助力を得るなり、イスラエルとエジプトの両政府に資金援助を提供するなりを通じて*4アメリカが外部の第三者の役割を果たしてきたと言えるだろう――このような裁定者(“arbiter”)的な役割は、超大国(superpower)が小規模な対立に関与することを正当化する論拠となり得るであろう――。また、しっぺ返し戦略(“tit-for-tat”)が形式的な契約の代わりになることがあるので、拘束力のある契約が書けなくても、「取引の利益」を得ることは可能と言われることがある。しかしながら、中東問題の歴史を振り返ってみれば明らかなように、イスラエルパレスチナがしっぺ返し戦略に基づいて協調行動をとっているとは到底言えないだろう*5


Infinite compensating variations?, or not everyone wants peace (無限の補償変分? 全員が平和を望んでいるわけではない)


関係する当事者が限界的なトレードオフに応じる気がないようなら、取引は困難となる。例えば、多くの人々は、どれだけ多額の現金を目の前に積まれようとも、お金と引き換えに、自らの理想や自分の生まれた国、家族、宗教を手放すことはないだろう。ユダヤ人によるヨルダン川西岸への入植の権利、エルサレムの地位、パレスチナ人の帰還権(“right of return”)といったものは、まさしくそういう例にあたるかもしれない。たいていの人は、自分が提示する条件が満たされるようであれば平和を望むかもしれないが、それぞれが有する選好とそれぞれが許容可能と考える取引条件の下では、オファーカーブは交わらない*6かもしれないのだ。


時に補償変分(取引に応じるのと引き換えに支払われるべき補償)が無限である(あるいは、定義不可能である)かのように見えるのは、お金と引き換えに自らの信じる価値を手放すという発想、あるいは、自らの信じる価値と何かを交換する――お金と引き換えにというわけではなく、もっと手の込んだ物々交換のかたちをとるとしても――という発想への嫌悪感のためなのかもしれない。多くのパレスチナ人にとっての帰還権がおそらくその例にあたるだろう。帰還権自体は、彼らにとって文字通り無限の価値があるわけではないかもしれないが――自分の命と引き換えにテロ活動に従事する人々を除けば、大半のパレスチナ人は、帰還権なしに生活を続けているし、帰還できるとは長い間思っていなかった――、自らの生得権(birthright)を売るという発想が嫌われるのと同様に、帰還権を何かと交換に手放そうとはしたくないのかもしれないのである。


取引の対象となる価値それ自体が「交換(取引)」(trade)という発想となじまないこともある。多くの人は、尊敬(respect)を欲するが、その性質上、尊敬は交換(取引)し得ないものである*7。お金で買われた尊敬は、もはや尊敬ではない。このようなケースには、「取引の利益」モデルは適用できないだろう。


以上を踏まえて、中東問題の文脈に話を移そう。無限の補償変分の問題は確かに妥当性を有しているが、和平への本質的な障害になっているようには思えない。その第1の理由は、たとえ一般のイスラエル人やパレスチナ人の多くが無限の価値を込めている対象を持っていたとしても、指導者や意思決定の責任を負う人物は、えてして現実的な(プラグマティックな)発想を持ち合わせていて、柔軟な対応を見せるものだからである。イスラエルパレスチナの政治家の大半は、態度を変更したり前言を撤回している。一度ならず何度も。シャロン首相の最近の発言――「イスラエルによるパレスチナ領土の『占領』("occupation")を容認する」――を思い返してみるといい。彼が「占領」という表現を使おうとは、つい最近までは思いもよらなかったろう*8


この問題が和平への障害にはなっていないと考える第2の理由は、イスラエルパレスチナのどちらの国内にも、沈黙する中間派(“silent middle”)――党派的な目的を追い求めるよりは、何よりも平和を望む人々――がいるからである。この中間派の存在は、指導者のプラグマティズムと相まって、和平への合意に至る可能性を高めることになろう――少数派が対抗手段としてテロに打って出るとしても、沈黙する中間派の平和に対する思いは揺るぎないほど強固だろう――。


第3の理由は、一般の市民は、何が受け入れ可能で何が受け入れ可能ではないかという点に関して、時の経過とともに非常に柔軟な姿勢を見せることがあるからである。ベギン首相とサダト大統領は、それまではラディカルで「考えられない」("unthinkable")と見なされていたことを実現させたが*9、かつては「考えられない」と見なされていたことも今では当たり前の現状として受け入れられるに至っている。パレスチナ人はエルサレムの地位に関して並々ならぬ関心を示しているが、1970年代中頃あたりまではパレスチナ人はエルサレムの帰属に関してそこまで関心を寄せてはいなかった。もっと昔に遡ると、十字軍(Christian crusaders)によるエルサレムの征服は、ムスリムの側からの無関心(Muslim indifference)でもって迎えられたのである(Wasserstein, 2001: 11, 250)。


以上のような理由から、無限の補償変分という問題は、和平への合意を阻む本質的な障害にはなっていないというのが私の考えである。ただし、和平への合意を成り立たせるための他の前提条件が欠けている場合には、この問題は和平への合意をさらに難しくさせる要因として作用することになるかもしれない。


ここまでは、対立が生まれる事実を説明すると思われるいくつかの理由に対して否定的な態度をとってきたが、以下では私なりに見込みがありそうだと考える説明をいくつか見ていくとしよう。


Reputation (評判)


対立する当事者は、タフさを誇示しようとすることがある。その理由は、目の前の争いを超えたもっと広範なゲーム(broader game)を意識しているからである。広範なゲームには、たった今対立している相手との将来におけるバトルが含まれるかもしれないし、別の相手との将来におけるバトルが含まれるかもしれない。関連する当事者が将来のバトルを含んだ広範なゲームに直面していると、目の前の争いでタフさ(意志の固さ、頑固さ)を示すことが取引に応じる――たとえその取引条件が公平なものであったとしても――以上に重要になることがある。


この仮説によると、中東問題の難しさは、多くの結婚生活の難しさと似ているということになろう。次のような問いにどう答えたらいいだろうか? コースの定理が説くところとは裏腹に、離婚率がこんなにも高いのはどうしてなのだろうか? 最終的に離婚という結果に終わるかどうかにかかわらず、多くの結婚生活があんなにもとげとげしいのはどうしてなのだろうか? 親子が些細なことですぐに言い争いになるのはどうしてなのだろうか?


結婚している当事者がとげとげしい言い争いに至る理由の一部は、当事者らが協調(cooperative)行為から得られる将来の成果の分配に関心を持っているためである。例えば、ある問題で言い争いになっている一組の夫妻がいるとしよう。夫が妥協して言い争いを終わらせることは可能ではあるが、しかし、その結果として夫が手にすることのできる取り分はごく僅かでしかないとしよう。すると、夫は、言い争いを続けても今すぐには何も得られないとしても、しぶとく辛抱して言い争いに終始しようとするかもしれない。というのは、すんなりと妥協してごく僅かの取り分で我慢してしまうと、将来似たような状況になった時の交渉力を弱めることになってしまうからである。今すぐに妥協してごく僅かの取り分を得る機会を跳ね付けて、将来もっと大きな取り分を得るチャンスを高めておく方が得策じゃなかろうか? 妻も夫と同じように考えるかもしれない。その結果として、協調行為からの成果を2人で折半するという条件であっても、合意には至らないかもしれない。もしかしたら(50%の取り分でも譲歩しないタフな人間であることを示すことで)明日になって90%の取り分を得ることができるかもしれないのに、どうして今日のうちに50%の取り分で妥協しなくてはならないのか、というわけだ。かくして、この夫妻は、妥協できそうな条件を探して意見の不一致を解消しようとするのではなく、いつまでも言い争いに終始することになるのである。2人が合意に至ることができない理由は、取引費用が高い*10ためではなく、将来取引する機会があるがためなのである――取引費用が高いために将来取引できる可能性が小さくなれば、2人にとってもっといい結果が得られたことだろう――。言い換えれば、将来得られる「取引の利益」が大きいがために、2人にとって望ましくない結果が生じてしまうのである*11


以上のロジックは、中東問題にも当てはまるかもしれない。イスラエルパレスチナは、今すぐにでも合意に至れるのかもしれないし、その合意は履行が保証されているのかもしれない。しかし、両国ともに、将来得ることのできる「取引の利益」のうちで自らの取り分をもっと多く確保しようとして、今のところは合意しないということになっているのかもしれない。合意を先延ばしする結果として、(将来得ることのできる)「取引の利益」それ自体が縮小してしまっているかもしれないのにだ。


通常であれば、このメカニズムがもたらす最悪の結果には、ある程度の制限が課されることになるという点は指摘しておくべきだろう。結婚のアナロジーに戻って、この点を説明しよう。夫も妻もどちらもともに、結婚生活を続けてさえいれば「取引の利益」を得ることができると考えているようなら、相手の側が関係を解消する(離婚する)と言い出さない範囲で強硬な態度に出るようにするだろう。しかしながら、政治的な文脈においては、離婚(関係を解消する)という選択は容易ではない。パレスチナ人かイスラエル人のどちらかが大挙してネブラスカに移動するなんてことは想像できない。両国が関係を解消することで得られるであろう利益――つまりは、威嚇点(threat point)――を定義するのは、結婚の例以上にずっと困難なのだ。両国が関係を解消することが困難になるほど、両国間における協調のレベルは(期待値で見て)高まるのではなく、逆に低くなるだろう。


Nested games入れ子になったゲーム)


結婚のアナロジーは、交渉のゲームに備わる異時点間の選択に目を向けさせてくれるが、イスラエルパレスチナもともに、異時点間にわたるゲームをプレイしているだけにとどまらず、目の前の相手以外の別のプレイヤー*12とのゲームにも直面している。それゆえ、両国にとってタフさを示す必要性は、(他のプレイヤーともゲームをプレイしている分だけ)なお一層大きくなる。イスラエルパレスチナもともに、何度も繰り返し、それも時にあまり友好的ではない条件で、アラブ諸国と取引しなければならない状況にある*13イスラエルパレスチナもともに、眼前の相手以外の存在も意識しながら、タフであるとの評判を確立しなければならないのである。


そもそものところ、イスラエルパレスチナもどちらも一枚岩ではなく、相手側との交渉の進め方をめぐって内部に対立を抱えている。中東問題においては、数多くのゲームが同時に進行していることが見て取れる。例えば、イスラエル vs パレスチナイスラエルの政治家 vs イスラエル有権者イスラエルの穏健派の政治家 vs イスラエルの強硬派の政治家、イスラエルの政治家 vs ヨルダン川西岸の入植者、ハマス vs アラファト議長アッバス首相 vs アラファト議長アッバス首相 vsハマスパレスチナ市民 vs イスラエルパレスチナ両国の指導者、などなど。今列挙したプレイヤーは、それぞれにアメリカを相手にしたゲームもプレイしていることだろう。


複数のミニゲームをその内に含むメタゲームは、あまりにも複雑すぎて、その解を求めることは容易じゃないだろう。さらには、入れ子になったミニゲーム(あるいは、埋め込まれたミニゲーム)は、イスラエルパレスチナの間で行われているメタゲームの解決に向けた動きを邪魔することになるかもしれない。例えば、イスラエルとの和平交渉に積極的なパレスチナ人は、同じパレスチナ人の急進的な党派によって暗殺の標的にされるリスクを負わねばならない。そうだとすると、パレスチナ側の和平交渉の担当者にとっては、和平交渉に臨んで何らかの成果を手にしようと試みるよりも、イスラエルと対立していた方が自らの身の安全を守る上では望ましいということになるかもしれない。同様に、和平交渉でパレスチナ側に有利な条件を提示していると見なされたイスラエルの政治家は、イスラエル有権者から支持を失うことになるかもしれない。つまりは、ミニゲームが埋め込まれているせいで、どのプレイヤーも協調的な戦略に伴うリスクを他のプレイヤーに移転させることが可能となっており、それがためにどのプレイヤーも(イスラエルパレスチナとの)協調から利益を引き出すことができなくなっているかもしれないのである*14


Behavioral economics行動経済学


経済学の標準的なモデルでは、経済主体は合理的であり、利用可能な「取引の利益」をすべて獲得し尽くすと想定されている。しかしながら、そのような想定は、近年になってますます批判にさらされるようになってきている。それらの批判によれば、人々は、多くの状況において、間違うことが多々ある「心理的なモデル」を通じて世界を眺めており、「取引の利益」をみすみす取り逃すことがあるようだ。


例えば、比較的自由な労働市場で非自発的な失業が生じるのはなぜなのかと、経済学者は長いこと不思議に思ってきた。雇主は、従業員を首にするのではなく、賃下げ(賃金の引き下げ)の交渉に乗り出せばいいのに、どうしてそうしないのだろうか? 賃金を引き下げれば、雇主は従業員を雇い続ける余裕が生まれることになるだろうし、従業員としても受け取る賃金は少なくなるものの首をきられるよりはましである。言い換えると、和平問題を解決するために交渉担当者らが「取引の利益」を得ようと試みるように、失業問題を解決するために雇主と従業員は「取引の利益」を得ようとすればいいのに、どうしてそうしないのだろうか?


この疑問をめぐっては色んな議論があるが、賃下げの交渉が行われない理由として説得的なのが少なくとも一つはある。名目賃金が引き下げられると、従業員が仕事中に手を抜くようになる(非協調的な行動をとるようになる)のではないかと雇主が恐れるためというのがそれだ。そのように恐れる雇主は、名目賃金を引き下げてまで従業員を職場においておくよりは、首をきった方がましと判断しているというわけだ*15


以上の議論が、国際紛争とどう関わってくるかは明らかだろう。和平交渉のテーブルで、こちらの期待を裏切る合意案が相手側から提示されたり、こちら側が「当然である」と見なす条件を満たさない合意案が相手側から提示されたりしたら、交渉の担当者は時に強硬な態度で応じることになるだろう。相手側の期待を裏切る条件を提示してしまい、相手側の態度が硬化してしまうことを避けるために、そもそも交渉のテーブルにつかない方が望ましいと判断することもあるだろう。あるいは、交渉の当事者双方が相手側に対する憎しみゆえに合意を拒むこともあるかもしれない。すなわち、パレスチナイスラエルもともに(あるいは、少なくともどちらか一方の側)、交渉の場で実質的に「賃下げ」と変わらない合意案を提示してしまう危険性を侵すよりは、そもそも交渉をしない方が望ましいと考えているのかもしれないのだ。


名目賃金が引き下げられると、多くの従業員は、仕事の手を抜いたり非協調的な行動をとるだけではなく、職場から自発的に去ることもあるだろう。同様に、交渉の担当者(あるいは、彼らを雇っている国民)は、和平交渉の場で相手側から期待外れの条件が提示されると、交渉のテーブルから去ることを選ぶかもしれない。実験経済学の研究結果によると、人は「裏切り者を罰する」("punish cheaters")強い傾向を備えているようだ――そうすることで自己破壊的な帰結がもたらされる(自分にとって得にならない)としても――。人間は、「裏切り者を罰する」*16ことがその時々の状況において合理的なのかどうかにかかわらず、感情的にか生物学的にか、そのように振る舞うようにプログラムされているのかもしれない*17。「裏切り者を罰する」心的傾向に歴史的・宗教的な信念が付け加わると、「裏切り者を罰する」ことの非合理性*18は一層高まることになるだろう。


行動経済学や実験経済学の研究は、上で触れたような破壊的な反応を引き起こす変化や要因を明らかにしようと試みてもいる。例えば、従業員は、実質賃金の引き下げよりは、名目賃金の引き下げのほうを気にかけるようだ。さらには、名目賃金が引き下げられても、そのことが従業員から「公平」("fair")な対応として受け入れられるようであれば、あるいは、関係する当事者すべての報酬が対象になっているようなら、それほど抵抗を受けないようだ。従業員が賃下げにどのくらい抵抗するかは、賃下げがどのようにパッケージされ、賃下げにどのような象徴的価値が伴うかに依存するというわけだが、研究結果の多くは、広く一般的に妥当するというよりは、個別具体的な文脈に依存する面が大きいことを示してもいる。


行動経済学的な(あるいは、心理的な)要因とテロリズムの絡み合いについても指摘しておこう。例えば、イスラエルパレスチナの間で和平合意に向けて何らかの動きが生じたと想定するとしよう。そして、どちらも相手側に対していくらか譲歩するつもりだとしよう。互いに何をどう譲歩できるかについて話し合っているまさにその最中に、テロが発生したとしよう。例えば、パレスチナ人の誰かしらがテルアビブでバスを爆発させたとしよう。すると、イスラエル側が「賃下げ」*19を受け入れるのはより一層難しくなるだろう。テロの犠牲となることで、イスラエル側がこれまで以上に「我々は不当に苦しめられている」という感を強くするだろうからである。そうなることを熟知した上で、テロリストは適当なタイミングを狙って行動に移り、相手側の心の傷をえぐろうと企んでいるかもしれないのである。すべては和平合意に向けた動きを妨害するために*20


ここまで議論してきて、イスラエルパレスチナの関係が、世界中のその他の隣国関係(あるいは、隣人関係)と比べて、こんなにも対立に満ち溢れているのはなぜなのかと疑問に思うかもしれない*21。ここにきて、過去の歴史が持つ役割が明らかになる。イスラエルパレスチナもともに、相手側はこれまでに何度も繰り返しこちら側の権利を侵害してきており、それゆえに相手側を罰するのは当然で、これから先も信頼できないと考えているのかもしれないのである。


Lack of meta-rationality (メタ合理性の欠如)


「メタ合理性」(meta-rationality)という概念がある。自分の可能性や自分の能力に対して当人(本人)がどれだけ現実的な(客観的な)評価を下せているかを指す概念だが、メタ合理的な人物というのは稀なようだ。例えば、大半の人は、他のドライバーよりも自分の方が運転がうまいと考えていて、他の大半の人よりも自分の方が優れた価値の持ち主であると考えている――すべての人が真ん中(メディアン)以上であることなどできない相談なのだが――。また、多くの人は、科学の話題についてその道の専門家の意見に従うことを拒否する。たとえ専門家が優れた訓練を受けていて、高い見識を有しているとしても、そうなのだ。翻って、専門家も専門家で、必ずしもメタ合理的であるとは言えないようだ。多くの専門家は、自分がノーベル賞を獲得する可能性を客観的に判断した場合よりもずっと高めに見積もっているのである。つまり、メタ合理的でない人は、身の回りの現実を客観的に認識するのを拒否しているわけである*22


戦争や対立に関わっている当事者は、どうやらメタ合理的ではない傾向にあるようだ*23。理由はよくわからないが、メタ合理的ではない行動は、特定の領域で特に顕著なようである。例えば、人は、宗教や政治の領域で特に頑固で非合理的な意見を持つ傾向にある。多くの人は、「我こそは、宗教や政治の世界における真実を判断できる世界最高の頭脳の持ち主だ」と考えているのである。その一方で、「我こそは、橋の建設や熱力学の領域における世界最高の頭脳の持ち主だ」という意見を持つ人はほとんどいない。


人がメタ合理的ではない――特に、宗教や政治の領域において――とすると、和平交渉にあたる当事者は、現実についての当方の見方に相手側も同意してくれるだろうと思い込んでしまうかもしれない。つまりは、イスラエル側の担当者もパレスチナ側の担当者も、現実の成り行きを判断する自らの能力を過大評価してしまうかもしれない。多くの人は、「自分の利益になることは、世界全体にとっても利益になる」と見なす傾向にあるのだ(Klein, 1994; Cowen, forthcoming)。しかしながら、イスラエルパレスチナとでは、指導者や市民の歴史的・文化的・政治的・経済的な背景が大きく異なっており、そのことを反映して、現実についての見方も大きく異なっている。両者の間で現実についての見方が共有されていないために、イスラエルパレスチナの交渉担当者は合意に至ることは困難と結論付けるに至るだろう。メタ合理性を欠いている(メタ合理的ではない)のがどちらか一方の側だけであっても、合意に至るのが困難になってしまうのだ。


Summing up, in a nutshell (これまでの要約)


中東和平問題のアウトサイダーに過ぎない経済学者がイスラエルパレスチナの対立について何かを語るとすれば、次のようなゲーム理論風味の「なぜなぜ物語」("just-so story")を口にすることになるかもしれない。イスラエルパレスチナは、異時点間にわたる長期的な交渉ゲームをプレイしており、その過程では権力(power)を求める闘争が繰り広げられることになる。ゲームが入れ子状態になっていたり、行動経済学的な諸要因が介在したりするために、合意に達するために必要となる相互の犠牲(あるいは、譲歩・妥協)を引き出すのが難しくなっている。イスラエルパレスチナもともにメタ合理的ではないために、意見がどうして一致しないのか互いに理解できずにいる。平和を望まない少数派が行動経済学的・心理的な諸要因に働きかけて、交渉の円滑な進展を妨害するためにありとあらゆる手を尽くしている――テロリズムは、和平合意に向けた動きを妨害するために、行動経済学的・心理的な諸要因に働きかける試みと見なすことができる――。報復行動が頻発し、そのために緊張が高まって相手側から譲歩を引き出すことがなおさら難しくなり、和平の達成がますます遠のいてしまっている。


論文の冒頭でも述べたように、この「なぜなぜ物語」を支持する具体的な証拠――それも、歴史家や中東問題の専門家を満足させるような類の証拠――を持ち合わせていると主張するつもりはない。ゲーム理論の訓練を受けた経済学者の目に映る「中東和平問題の核心」のあくまで一つの例がこの「なぜなぜ物語」なのである。日々のニュース記事で目にする出来事を分類するための分析的なカテゴリーを提供してくれるのがこの「なぜなぜ物語」なのである。


さて、それでは、この「なぜなぜ物語」を携えて試しに先に進んでみるとしよう。この「なぜなぜ物語」は、ブッシュ大統領が提案する「ロードマップ」についてどんな示唆を投げ掛けるだろうか?


Bush's "road map"ブッシュ大統領の「ロードマップ」)


・・・(略)・・・


Broader lessons (より広範な教訓)


イスラエルパレスチナの対立について理解を深めるために公共選択論から何かを学べるかどうかはともかくとして、イスラエルパレスチナの対立について理解を深めようと試みる過程で公共選択論の側がそこから何かを学べるのは間違いない。イスラエルパレスチナの対立は、政治が効率的ではない理由だったり、政治の場での交渉がなかなかうまくいかない理由だったりについても示唆を与えているのである。中東問題は、戦争/惨事/不正義をめぐる人類の長い歴史の中の一例に過ぎないということを心に焼き付けておくべきだろう。


世界で一番豊かで、世界で一番自由な国として評判のアメリカにおいてさえも、国内の政治は制度上の深刻な欠陥を抱えている。中東での対立に比べればマシだが、政治の場での交渉を通じて効率的な結果を得られずにいるのは日常茶飯事だ。その理由の多くは、中東での和平交渉で効率的な結果が得られずにいるのと同じだ。住んでいる場所は違っても、誰もが同じ人間なのだ。本論文での分析は、海を隔てた外国に暮らす「他者」にだけ当てはまるわけではないのだ。すなわち、コースの定理を政治に応用できると考えているシカゴ学派は、あまりに楽観的過ぎるのだ。コースの定理は、政治の場での交渉を通じて効率的な結果がなかなか得られない理由を探るための捨て石としては使えても、現実をうまく記述しているとは言えないのだ。コースの定理が説くところとは裏腹に、この世には失業も生じるし、ストライキも起きる。経済政策も改善の余地ありだ。テロも起きる。戦争も起きる。全体主義まで登場する有様なのだ。


逆に言えば、改革の余地が残されていることになる。政治の場での交渉を通じてより良い結果を手にできる可能性が残されているのだ。人間は、洞穴の中での生活を離れて、いくらか賢くなっている。ゲーム理論的な状況ゆえに中東問題が引き起こされているのだとしたら、リーダーシップの質次第で結果も大きく違ってくる可能性がある。ゲーム理論のモデルの多くによると、インセンティブだけでは最終的にどこに行き着くか(ゲームの均衡)は決まってこない。ゲームに参加するプレイヤーの質――そして、おそらくは彼らを取り巻く文化の質――こそが最終的な結果を左右する役割を演じるのだ。ブッシュ大統領が提案する「ロードマップ」の成り行きを見守って、うまくいくように願おうではないか。


<参考文献>


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*1:訳注;ともかくも、戦争を回避した方がお互いにとって得なはず、ということ

*2:原注;コースの定理外交問題とのつながりについて見通しを得るには、Friedman (1977) と Cowen (1990) を参照せよ。戦争の原因に関する一般的な議論としては、Blainey (1988) を参照せよ。

*3:原注;この問題と関連する争点を取り扱っている論文として、Fearon (1995) を参照せよ。

*4:訳注;資金援助を取引材料として

*5:原注;イスラエルパレスチナもどちらもしっぺ返し戦略を採用しているが、どちらが先に協調行動から逸脱したのかについて両者の間で意見が一致しないために、代わる代わる処罰を行う結果になってしまっている、との主張も可能かもしれない。しかしながら、たとえそうであったとしても、どちらか一方が再度協調行動をとるようにすれば、両者がともに協調行動を選ぶ均衡経路に復するはずだが、現実はそうなっていない。あるいは、相手側の逸脱(協調行動からの逸脱)に対して際限なく処罰を加えるトリガー戦略をどちらか一方の側が採用している可能性もあるが、その戦略がもたらす破壊的な結果を考えれば、どうしてその戦略(=トリガー戦略)を採用しているのかを説明する必要があろう。

*6:訳注;関係当事者すべてが納得するような取引条件が見つからない、ということ。

*7:原注;Thomas Friedman (1990) は、パレスチナ人が抱いている「尊敬に対する欲求」(desire for respect)を強調している。

*8:原注;イラン・イラク戦争の停戦をめぐって、ホメイニ師は、サダム・フセインと停戦合意をするくらいなら毒を飲むと語ったと伝えられているが、結局のところは、ホメイニ師イラクとの停戦に合意したのだった。

*9:訳注;キャンプ・デービッド合意に基づくエジプト・イスラエル和平条約を指しているものと思われる

*10:訳注;その結果として、取引ができない

*11:原注;別の言葉で表現すると、将来利得の割引率が低すぎるのかもしれない。また、ゲームが何度も繰り返しプレイされて、プレイヤーが互いのことをよく知っているようなら、対立は悪化する傾向にあるのかもしれない。将来利得の割引率が低かったり、ゲームが何度も繰り返しプレイされたり、プレイヤーが互いのことをよく知っているようなら、プレイヤー間での協調が促進される傾向にあるというのが定説のようになっているが(Axelrod 1984)、そのような楽観的な予測はあまりに早まった判断なのかもしれない。

*12:訳注;イスラエルであれば、パレスチナ以外のプレイヤー。パレスチナであれば、イスラエル以外のプレイヤー

*13:原注;1967年に勃発した第3次中東戦争の前までは、パレスチナが現在領有を主張している領土はアラブ側に属しており、パレスチナ国家を建設するためにアラブ側から自発的にその領土がパレスチナ側に引き渡されることはなかったという事実を想起されたい。

*14:原注;入れ子になったゲームの一般的な分析としては、Tsebelis (1990) を参照せよ。

*15:原注;経済学者たちは、この種の行動が合理的かどうかをめぐって長々と議論をたたかわせている。合理的かどうかにかかわらず、この種の行動が現実に観察されることは確かなようだ。具体的な証拠としては、Blinder (1998) や Bewley (1999) を参照せよ。また、「憎悪の経済学」(" economics of enmity ")に関する一般的な議論および「憎悪の経済学」とコースの定理とのつながりについては、Farnsworth (2002) を参照せよ。

*16:訳注;今の文脈では、「裏切り者」=こちら側の期待を裏切る相手という意味。

*17:原注;この点については、Glaeser (2002, pp.10-11) を参照のこと。例えば、最後通牒ゲーム( "ultimatum" games)の実験結果によると、人々は「公平な分け前」よりも多い取り分を確保しようとするプレイヤー(裏切り者)に対して、執念深く処罰を下そうとするようだ。処罰を行うことで自らの取り分が減ってしまうようであっても、人々は裏切り者に処罰を下すのである。

*18:訳注;この文脈では、「非合理性」=個人が自己利益に反する行動をすること

*19:訳注;この文脈では、賃下げ=相手側に対する譲歩

*20:原注;多くのテロリストが生計の資を得ることができて、資金を調達することができるのは、対立が存在しているからこそだという事実には注意しておこう。Congleton (2002) は、「自爆テロの経済学」について検討している。

*21:原注;異時点間にわたる評判の確立という要因だけでは、この事実を説明することはできない。対立が起きるのは、関係当事者が異時点間にわたる評判を確立しようとするせいなのだとすれば、アメリカとカナダ、あるいは、EU各国も常時対立していないとおかしいことになろう。

*22:原注;この話題に関する証拠については、Cowen and Hanson (2002) を参照せよ。メタ合理性を欠いている(メタ合理的でない)と弊害しか伴わないかというと、そうとは限らない点は注意しておこう。心理学の方面における証拠によれば、メタ合理的な人は、幸せであるよりは、意気消沈していて憂鬱になりがちであることが報告されている (Taylor 1989)

*23:原注;Fearon (1995), Gartzke (1999), Wagner (2000) では、私的な情報(private information)が存在するために、対立が起こる可能性が論じられている。しかし、関連する当事者がメタ合理的であるようなら、私的な情報が存在するゆえに引き起こされる問題は、情報の共有や契約の締結を通じて解決されることになるだろう。