マンキュー著「ニューケインジアンのマクロ経済学をざっと一望してみる」


●N. Gregory Mankiw, “New Keynesian Economics”(The Concise Encyclopedia of Economics, Library of Economics and Liberty)

ニューケインジアンマクロ経済学(New Keynesian economics)は、ジョン・メイナード・ケインズの思想を引き継ぐ現代マクロ経済学の一学派である。ケインズは1930年代に『雇用、利子および貨幣の一般理論』を出版したが、ケインズの影響力は、1960年代を通じて、経済学者や政策当局者の間で高まっていくことになった。しかしながら、1970年代に入ると、R. ルーカスやT. サージェント、R. バローらを代表とする新しい古典派(New Classical)のマクロ経済学者が、ケインズ革命がもたらした多くの教訓に疑問を投げかけることになった。1980年代に入って、新しい古典派からの批判にさらされたケインズ経済学の教義の立て直しを図ろうと登場してきたのが「ニューケインジアン」を自称する一連の経済学者らであった。
新しい古典派とニューケインジアンとの間における主要な意見の不一致は、名目賃金や名目価格の調整速度(名目賃金や名目価格がどれだけ素早く調整されるか)に関する想定の違いに基づいている。新しい古典派は、名目賃金や名目価格は伸縮的であるとの仮定の下に理論を構築しており、価格は市場を清算するように−需要と供給とが等しくなるように−素早く調整されると想定しているのである。一方で、ニューケインジアンは、(新しい古典派が想定するような)市場均衡モデルは短期的な景気変動を説明することはできないと考え、短期的な景気変動を説明するためには、名目賃金や名目価格は粘着的(“sticky”)であるとの仮定の下に理論を構築するべきだ、と主張する。ニューケインジアンは、名目賃金と名目価格の粘着性に基づいて、非自発的失業が存在する理由や金融政策が経済活動に強い影響を及ぼし得る理由を説明しようとするのである。
ケインズ経済学とマネタリズムとの両者のパースペクティブをともに含む)マクロ経済学における長い伝統(A long tradition in macroeconomics)においては、金融政策が短期的に雇用量や生産量に影響を与えることができるのは、マネーサプライの変化に対する名目価格の調整が緩やかであるからだ、とみなされている。この伝統的な見解によれば、マネーサプライの変化は以下のようなメカニズムを通じて生産や雇用に影響を与えることになると考えられている。例えば、マネーサプライが減少すると、人々はお金の支出を減らし、その結果財に対する需要が減少することになるが、名目価格や名目賃金の調整は緩やかであり、それゆえ名目価格や名目賃金は需要の減少に応じて即座には下落しないために、(マネーサプライの減少に端を発する)需要の減少は生産の落ち込みと労働者の首切りをもたらすことになるだろう、と。新しい古典派はこの伝統的な見解を批判する。緩やかな価格調整という仮定は理論的に首尾一貫した説明を欠くアドホックな仮定だ、というのである。ニューケインジアンの研究の多くは、マクロ経済学における長い伝統に含まれているこの欠陥を修正すること、つまりは、緩やかな価格調整という仮定に対して理論的に首尾一貫したミクロ的基礎を提供することに向けられたのである。


Menu Costs and Aggregate-Demand Externalities (メニューコストと総需要外部性)

名目価格が市場を均衡させるように素早く調整されない理由の一つは、価格調整にコストがかかるからである。価格(値付け)の変更に伴って企業は顧客に対して新たなカタログを送付しなければならないかもしれず、商品の販売スタッフに対して新たな値付けのリストを配布しなければならないかもしれない。また、レストランでは新たなメニューを作り直さなければならないかもしれない。このような価格調整に伴うコスト−「メニューコスト」と呼ばれる−が存在するために、企業は需要の変化に応じてその都度柔軟に価格を変更する代わりに断続的なかたちで価格を変更することを選ぶのである。
メニューコストの存在が短期的な景気変動を説明する助けとなるかどうかという点に関しては経済学者の間で意見の不一致がある。(メニューコストの存在によっては短期的な景気変動を説明できないとの立場に立つ)懐疑的な経済学者は、メニューコストは大体において極めて小さいものであり、そのように小さなメニューコストが景気後退のような社会的に大きなコストを生み出す現象を説明することはできないのではないか、と主張する。一方で擁護の立場に立つ経済学者は、「小さい」("small")ということは「とるに足らない(重要でない)」("inconsequential")ということと同じではない、と反論する。メニューコストは個々の企業にとっては小さなものであったとしても、経済全体に対しては大きな効果を持ちうるかもしれない、というのである。
メニューコストの存在に基づいて短期的な景気変動を説明することができると考える経済学者は以下のように議論を展開する。価格がなぜ緩やかにしか変化しないのかを理解するためには、ある特定企業による価格の変更は外部性−当該の(自社製品の価格を変更しようとしている)企業や顧客以外にも効果が及ぶこと−を有していることを認識しなければならない。例えば、ある企業による製品価格の引き下げは次のように他の企業に対しても便益をもたらすことになる。ある企業が価格を引き下げると、同時に経済全体の平均価格も若干ではあるが下落することになり、その結果経済全体の実質所得は増加することになる(名目所得はマネーサプライの量によって決定される)。この実質所得の増加はすべての企業の製品に対する需要の増加というかたちをとることになるだろう。一企業の価格調整が他のすべての企業の製品に対する需要に及ぼすこのマクロ経済的な効果は「総需要外部性」(“aggregate-demand externality”)と呼ばれている。
総需要外部性が存在する状況下では、個々の企業の製品価格を粘着的にする小さなメニューコストは社会全体に対して大きなコストをもたらすことになる。例えば、GMがある新車の価格を発表した直後にFRBがマネーサプライを減少させたとしよう。FRBのこの行動を受けて、GMは発表したばかりの新車の価格を引き下げるべきかどうかを決定しなければならない。もしGMが価格を引き下げたとすれば、車の購入者の実質所得は増加することになり、車の購入者は他の企業の製品を(GMの新車価格が引き下げられなかった場合と比べると)より多く購入することになるだろう。しかし、新車の価格を引き下げるべきかどうか思案しているGMは自車の価格引き下げが他の企業にどのような便益を及ぼすことになるかを考慮に入れることはない。それゆえ、場合によっては、GMは、価格を引き下げることが社会的に見て望ましいとしても、メニューコストの存在により価格引き下げを断念する*1ということもあり得るだろう。このGMの例が示しているように、粘着的な価格(価格を据え置くこと)が個々の企業にとっては合理的である(最適である)としても、経済全体で見ると非合理的な(望ましくない)結果につながることがあり得るのである。


The Staggering of Prices (価格設定の時間的ズレ)


ニューケインジアンが価格の粘着性を説明しようと試みる際には、すべての企業が同時に価格を設定するわけではなく、その代わりに、企業ごとの価格設定には時間的なズレが存在する点が強調されることもある。それぞれの企業が価格を設定するタイミングにズレが存在するとなると、個別企業による価格設定は複雑な様相を呈することになる。というのも、企業ごとの価格設定に時間的なズレがあると、各企業は価格設定をする際に自社製品の価格と他社製品の価格との相対的な関係(=相対価格)にも注意を払わなければならなくなるからである。企業ごとの価格設定に時間的なズレが存在する場合には、個々の企業が頻繁に価格を改定したとしても、経済全体の物価水準は緩やかにしか変化しないことになる。
以下例を用いてこの点を説明してみよう。まずは、すべての企業が同時に価格設定を行う場合について考えてみることにしよう。すべての企業は月初めごとに価格設定を行うものとする。もし5月10日にマネーサプライが増やされ、その結果として総需要が増加したとすれば、5月10日から6月1日にかけて生産量は(マネーサプライが増やされなかった場合と比べて)増加することになるだろう。というのも、5月10日から6月1日にかけては(仮定により価格の変更は月初めにのみ行われるので)価格が変更されることはないからである。しかし、6月1日になれば、すべての企業は需要の増加に応じて各々の製品価格を引き上げることになるだろう。こうして(5月10日から6月1日にかけての)3週間にわたるブームは終了することになる。
次に、価格設定には企業ごとに時間的なズレがある場合について考えてみよう。経済全体の半数の企業は月初めごとに価格設定を行い、残る半数の企業は月の真中である毎月の15日に価格設定を行うものとする。もし5月10日にマネーサプライが増やされたとすれば、経済全体の半数の企業は5月15日に自社製品の価格を引き上げることが可能である。しかし、残る半数の(月初めごとに価格設定を行う)企業は5月15日に価格を変更することはないので、5月15日に価格を引き上げるとその企業の製品の相対価格は上昇することになり、(価格が据え置かれた製品(月初めごとに価格設定を行う企業の製品)に顧客が流れてしまうことで)結果として顧客を失ってしまうかもしれない(この事例とは対照的に、もしすべての企業が同時に価格を設定するとすれば、すべての企業が各々の製品価格を同時に引き上げるために相対価格は変化しない可能性がある)。(顧客を失うことを恐れて)5月15日に価格設定を行う企業は(価格を引き上げるとしても)おそらくそこまで製品価格を引き上げることないだろう。もし5月15日に価格設定を行う企業が価格を据え置く判断をすれば、月初めに価格設定を行う企業も6月1日には自社製品の価格を据え置く判断をするだろう。というのも、 6月1日に価格を引き上げるべきかどうか思案している企業もまた相対価格を変化させたくないと考えるからである。6月1日以降もこれと同様のロジックが働くことだろう。こうして月初めと毎月15日において個々の製品価格は徐々にしか上昇せず、そのために経済全体の物価水準も緩やかにしか上昇しないということになるだろう。どの企業も他の企業の製品と比べて自らの製品の価格が上昇することを望まないがために、価格設定に時間的なズレがあることで経済全体の物価水準は緩やかにしか変化しないということになるのである。


Coordination Failure (調整の失敗)

ニューケインジアンの中には、景気後退は調整の失敗(コーディネーションの失敗)にその原因がある、と主張する経済学者もいる。コーディネーションの問題は、経済主体が互いに他の経済主体による価格設定に関する意思決定を予想し合うような状況においても生じ得ると考えられる。賃金交渉に臨む労働組合のトップは他の労働組合が使用者側から勝ち取る譲歩に関心を有するだろうし、新たな価格設定に臨む企業は他の企業による価格設定に注意を寄せることだろう。
景気後退がいかにして調整の失敗の結果として生じるかを理解するために、以下の「お話」を見てみることにしよう。経済は2つの企業から構成されているとしよう。中央銀行がマネーサプライを減少させたことを受けて、それぞれの企業は自社製品の価格を引き下げるべきかどうかを思案している。どちらの企業もともに利潤の最大化を目指しているが、利潤は自社製品の価格設定に依存するばかりではなく、相手の企業による価格設定にも依存しているとしよう。
もしどちらの企業もともに製品価格を引き下げなければ、実質貨幣量(マネーサプライを物価水準で割ったもの)は低水準に落ち込み、それを受けて経済は景気後退に陥ることになる。この時両企業はそれぞれ15ドルの利潤しか得られないとしよう。
もしどちらの企業もともに製品価格を引き下げれば、実質貨幣量は高水準に維持され、経済は景気後退を回避することが可能となる。この時両企業はそれぞれ30ドルの利潤を得るとしよう。両企業ともに景気後退を回避することを望んでいるが、自らの行動(自社製品の価格設定)だけでは景気後退を回避することはできない、つまりは、一方の企業だけが製品価格を引き下げ、もう一方の企業は製品価格を据え置くとすれば、景気後退が生じることになるとしよう。この時製品価格を引き下げた企業は5ドルの利潤しか獲得することができず、製品価格を据え置いた企業は15ドルの利潤を獲得することになるとしよう。
この「お話」のポイントは、一方の企業の意思決定は他方の企業が利用可能な結果(機会)に影響を与えるということである。一方の企業(企業A)が製品価格を引き下げれば、他方の企業(企業B)が利用可能な機会は改善することになる。なぜなら、企業Bは自らの製品価格を引き下げることで景気後退を回避することができるようになるからである。企業Aによる製品価格の引き下げが企業Bが直面する利潤機会を改善することになるのは、総需要外部性が働く結果であると考えることができるだろう。
この経済は最終的にはどのような結果に落ち着くことになるであろうか? 一つの可能性は、どちらの企業もともに相手側が製品価格を引き下げると予想し、その結果両企業ともに実際にも製品価格を引き下げるということになるかもしれない。この時、経済は景気後退を回避し、両企業ともに30ドルずつの利潤を獲得することになる。もう一つの可能性は、どちらの企業もともに相手側が製品価格を据え置くと予想し、その結果両企業ともに実際にも製品価格を据え置くということになるかもしれない。この時、経済は景気後退に陥り、両企業ともに15ドルずつの利潤を獲得することになる。これら2つの可能性のどちらもともに実現可能である。つまりは、この経済は複数均衡を有する経済なのである。
どちらの企業もともに15ドルずつの利潤を獲得する(景気後退を伴う)劣位な均衡は調整の失敗の一例となっている。両企業が行動をコーディネートすることが可能であれば、両企業ともに製品価格を引き下げて(景気後退を回避する)優位な均衡を実現することができたであろう。この「お話」とは異なり、価格設定の意思決定に臨んでいる企業の数がもっと多い現実の世界においては、経済主体間のコーディネーションを達成することはしばしば困難となる。以上の「お話」の教訓は、誰一人として粘着的な価格に利害を有していないとしても、ただ単に各々の価格設定者の間で「価格は粘着的になるだろう」との予想が共有されるだけでも実際に価格が粘着的になり得る、ということである。


Efficiency Wages (効率賃金)

ニューケインジアンマクロ経済学が発展させた重要な理論として失業の理論も見逃すことはできない。持続する失業の存在は経済理論にとって一つのパズルである。通常の経済分析が予測するところでは、労働の超過供給は賃金に対する低下圧力となり、賃金の下落は労働需要の喚起を通じて失業を減少させることになる、ということになるだろう。つまりは、通常の経済理論によれば、失業は自己矯正的な問題*2なのである。
ニューケインジアンの経済学者は、失業を解消する自己矯正的なメカニズムが機能しない理由を説明するためにしばしば効率賃金仮説と呼ばれる理論を持ち出す。効率賃金仮説によれば、高賃金は労働者の生産性を高めることになると考えられている。労働の超過供給が存在するにもかかわらず、企業が賃金のカットに乗り出さない理由は、賃金が労働者の効率性に影響を与える可能性があるからかもしれない。賃金をカットすることで企業は人件費を節約することができるかもしれないが、効率賃金仮説が正しいとすれば、賃金のカットは(人件費の節約につながると)同時に労働者の生産性を低下させることで逆に企業の利潤を減らす結果となってしまうかもしれないのである。
賃金が労働者の効率性に影響を与える理由としてはいくつかの説明が提示されている。第一の説明では、高賃金の支払いが労働者の転職を抑制することを通じて労働者の効率性に影響を与える可能性に着目する。労働者は様々な理由に基づいて現在の職を離れることになるだろう。他の企業においてもっと魅力的な職を見つけたり、あるいはキャリアの変更を考えたり、あるいは居住地の変更に伴ってなどなど様々な理由に基づいて、労働者は現在の職を離れることになる。しかしながら、労働者が現在の職場にとどまろうとするインセンティブは、企業が労働者に支払う賃金水準が高ければ高いほど、大きくなると考えられる。高賃金を支払うことによって、企業は労働者の転職を抑制し、その結果として新規に労働者を募集したり、新規労働者に訓練を施したりするための時間や手間といった諸々のコストを節約することが可能となるかもしれない。
第二の説明では、賃金が職場における労働者の平均的な能力の質に影響を及ぼす可能性に注目が寄せられる。企業が賃金をカットすると、おそらくは能力のある(生産性の高い)労働者から先に(他に機会を求めて)職場を離れていくことになるだろう。そして、職場には他に行くあてのない能力の劣る(生産性の低い)労働者が残る、ということになるだろう。均衡賃金(労働市場で需給が一致する賃金の水準)を上回る賃金を支払うことにより、企業は以上の逆選択(adverse selection)メカニズムが働くことを回避し、職場における労働者の平均的な能力の質を改善することができるかもしれない。職場における労働者の平均的な能力の質が改善されれば、企業全体の生産性は向上することになるであろう。
第三の説明では、高賃金が労働者の努力水準を高める可能性に注目する。労働者がどれだけ努力しているかを完璧にモニターすることができない場合には、労働者がどれだけ努力するかはある程度労働者自身の裁量に任されることになるだろう。労働者は一生懸命努力して仕事に励むこともできるし、上司に発見されれば首を切られるかもしれないとの危険を負いながらも手を抜いて仕事に臨むことも可能である。この時、企業は高賃金を支払うことによって労働者の努力水準を高めることができる。というのも、支払われる賃金が高ければ高いほど、労働者にとって首を切られることのコストはそれだけ大きくなるからである。高賃金を支払うことによって、企業は労働者が手抜きすることを抑制し、その結果労働者の生産性を高めることが可能となるかもしれない。


A New Synthesis (新しい総合)

1990年代に入ると、新しい古典派とニューケインジアンとの論争は「新しい総合」(new synthesis)の出現を促すこととなった。つまりは、短期的な景気変動を説明するための最善の方法や金融政策/財政政策の役割といった話題に関してマクロ経済学者の間で「新しい総合」に向けた可能性が探られることになったのである。この「新しい総合」は、対立するそれぞれの学派の長所を取り入れることを通じて学派間の総合を図ろうと試みている。「新しい総合」は、新しい古典派陣営から、家計や企業の異時点間にわたる意思決定に関するモデル構築上の様々なツールを取り入れるとともに、ニューケインジアン陣営からは価格硬直性のモデルを取り入れることを通じて短期的な貨幣の非中立性*3を説明しようと試みている。「新しい総合」に共通したアプローチの特徴は、独占的競争モデル−独占的競争下にある企業(各企業は市場支配力を持ってはいるものの他企業との競争にも直面している)は、市場の動向に応じて頻繁に価格を変更することはなく、間隔をおいて断続的に価格の改定を行う−を採用しているところにある。
「新しい総合」の核心は、経済を動学的な一般均衡システム(dynamic general equilibrium system)として捉える見方、それも価格粘着性やそれ以外の様々な市場の不完全性(market imperfections)のために短期的には効率的な資源配分の状況から逸脱することもあり得る動学的な一般均衡システムとして捉える見方にある。今やこの「新しい総合」は、多くの面において、FRBやその他の中央銀行の金融政策を分析する際の知的な基礎(intellectual foundation)を提供するに至っている。


Policy Implications (政策的なインプリケーション)

ニューケインジアンマクロ経済学はあくまでもマクロ経済「理論」における一学派であり、それゆえ、ニューケインジアンを自称する経済学者間で経済「政策」に関して共有された単一の見解があるわけでは必ずしもない。大まかに言うと、ニューケインジアンマクロ経済学においては、新しい古典派のいくつかの理論とは対照的に、景気後退=市場が効率的に機能するような通常時から逸脱した状態、と見なされている。ニューケインジアンマクロ経済学の構成要素−メニューコストや価格設定における時間的なズレ、調整の失敗、効率賃金−は、古典派経済学が立脚している様々な仮定−経済学者が自由放任(レッセフェール)を正当化する際の知的根拠となるもの−からの大きな逸脱を示すものである。ニューケインジアンの理論においては、景気後退はマクロ経済レベルでの市場の失敗によって引き起こされるわけであり、それゆえ、ニューケインジアンマクロ経済学は市場への政府介入−金融政策や財政政策を通じた経済の安定化−に対して「理論」的な根拠を提供しているとみなすことができるであろうし、ニューケインジアンマクロ経済学におけるこの側面は先に述べた「新しい総合」の中にも組み込まれている。しかしながら、政府が実際にも市場に介入すべきかどうかという問題は、経済的な判断だけではなく政治的な判断も伴うものであり、「理論」的な結論をそのまま「実践」に移すことができるほど簡単な問題ではないのである。

*1:価格引き下げによる車の売り上げの増加が価格引き下げに伴うメニューコストを下回る場合には、GMにとっては価格を据え置くことが(できるだけ多くの利潤を確保する上では)合理的となる。

*2:価格(名目賃金)の調整を通じて市場が自動的に解決する問題

*3:金融政策は短期的には生産量や雇用量といった実質変数に影響を与えることができる、ということ。

マンキュー=D. ローマー著「ニューケインジアンのマクロ経済学」


●N. Gregory Mankiw and David Romer(1991), “Introduction” (in N. Mankiw and David Romer (eds.) New Keynesian Economics Vol.1, MIT Press, pp.1〜3)

出だしの所をちょっとばかり訳してみた。

ケインズ経済学の誕生は1930年代の経済危機に遡る。1930年代の大不況(Great Depression)は、多くの経済学者に対して、市場についてのそれまでの見解―自由放任の市場(unfettered markets)の効率性を強調する見解―を真剣に考え直す機会を提供することとなった。おそらく通常であれば(市場の)見えざる手は経済を首尾よく誘導するのであろうが、見えざる手は機能麻痺に陥りやすい側面も持っている。大不況のような出来事は従来とは異なる理論、それも広範にわたる市場の失敗(market failure on a grand scale)を説明できるような理論を必要としたのである。
ケインズ経済学の隆盛は、1960年代のケインジアンコンセンサス(Keynesian consensus)の時代においてその頂点に達した。当時のマクロ経済学者の多くは、些細な詳細を除いて、マクロ経済の理解はほぼ完璧な水準にまで達したと信じていた。マクロ経済全体の総需要を説明する理論を提供したのはIS-LMモデルであった。一方で総供給を説明する理論は依然として未発達であったが、名目賃金や名目価格の時系列的な変化を説明する有用な分析道具としてフィリップス曲線が広く受け入れられることになった。ケインジアンコンセンサスの決定的な仮定は、名目賃金や名目価格は総需要の変化に対して緩やかに調整されるとの仮定であった。
1970年代に入ると新しい古典派のマクロ経済学(new classical macroeconomics)が台頭してくることになり、ケインジアンコンセンサスは動揺を見せることになった。新しい古典派のマクロ経済学は、説得的なかたちで、ケインズ経済学には理論的に不備な面があること、マクロ経済学は厳密なミクロ的基礎の上に構築されるべきであること、を主張した。また、新しい古典派のマクロ経済学は―先ほどの主張ほど説得的とは思えないが―、ケインズ経済学は新しいマクロ経済理論―市場は常に均衡しており、また経済主体は常に行動の最適化を達成している、との仮定に立脚するマクロ経済理論―に取って代わられるべきであることを主張した。1980年代に入ると、新しい古典派のマクロ経済学を特徴づける以上のような研究プログラムは実物的景気循環理論(リアルビジネスサイクル理論)によって受け継がれることになった。実物的景気循環理論はワルラス流の一般均衡理論に他ならず、それゆえ実物的景気循環理論は、見えざる手は常に資源の効率的な配分を実現するとの立場に立つことになる。
ケインズ派経済学は(実物的景気循環理論と同じく)1980年代にその姿をあらわすことになった。新ケインズ派経済学は、新しい古典派によるケインズ経済学への攻撃―特にケインズ経済学が抱える理論的に不備な点への攻撃―に応じるかたちで登場してきた。新ケインズ派経済学の研究の多くは、ケインズ経済学の中心的な要素に対する厳密なミクロ的基礎を提供することに向けられた。ケインズ経済学の中心的な要素は、名目賃金と名目価格の硬直性(rigidities)という仮定にあると見なされており、それゆえ、新ケインズ派経済学の研究の多くは、名目賃金や名目価格の硬直性に対してミクロ的基礎を提供すること―個々の(ミクロレベルの)経済主体(企業や雇用主、労働者)による賃金・価格設定行動に基づいて名目賃金や名目価格の硬直性を説明すること―に向けられた。


What is New Keynesian Economics? (新ケインズ派経済学とは何か?)

さまざまな景気循環理論は以下の2つの質問にどのように答えるかに応じて区別することができるであろう。

1.その理論は古典派の2分法(classical dichotomy)を否定しているか? その理論によれば、マネーサプライのような名目変数の変化が生産量や雇用量のような実質変数の変化をもたらすことになるか?

2.その理論は、景気循環の理解にとって、市場の不完全性(real market imperfection)を考慮することが重要であると見なしているか? 不完全競争や不完全情報、相対価格の硬直性といった市場の不完全性が理論の中心的な要素として組み込まれているか?

ケインズ派経済学(ニューケインジアンマクロ経済学)はどちらの質問に対しても強い調子で「はい(yes)」との返答を寄せることになる。新ケインズ派経済学によれば、古典派の2分法が成立しないのは諸価格が粘着的(sticky)であるためである。また、新ケインズ派経済学によれば、市場の不完全性が重要であるのは、不完全競争や相対価格の硬直性といった要因(=市場の不完全性)が諸価格の粘着性を説明する主要な理由を提供することになるからである。
様々な景気循環理論の中でも、以上の2つの質問のどちらに対しても肯定的に「はい」と答えるのは新ケインズ派経済学だけである。実物的景気循環理論は技術的ショック(technology disturbances)と完全市場を強調する立場であるので、どちらの質問に対しても否定的に「いいえ」と答えることだろう。古典派の2分法の受け入れを拒絶している景気循環理論は多いが、その議論の中で市場の不完全性を強調している理論はほとんどない。例えば、1970年代のケインズ経済学の多くは、ワルラス流の一般均衡理論を土台としてその上に名目賃金と名目価格の硬直性を外生的に導入するというアプローチをとっている。名目価格(と名目賃金)の粘着性と市場の不完全性とを結びつけて論じる点こそ、新ケインズ派経済学が有する独特な特徴といえるだろう。
ここまでは「新ケインズ派経済学とは何か」という点を論じてきたが、次に「新ケインズ派経済学とは何でないか」という点にも触れておくべきであろう。ケインズの『一般理論』が出版されてからというもの、マクロ経済理論やマクロ経済政策に関しての議論は非常に幅広い話題をカバーするに至っており、それゆえ「ケインジアン」という語で意味するものが人によって異なるということも十分考えられるところである。それゆえ、ケインズ経済学の見解とされるものの中にも新ケインズ派経済学によっては必ずしも受け入れられていない見解が多くあるかもしれない。特に、新ケインズ派経済学をかつてのマネタリストケインジアン論争の枠組みの中で捉えるべきではない、という点は指摘しておかねばならない*1。その理由は以下の2点による。
第一に、ニューケインジアンは金融政策と財政政策との相対的な有効性に関して単一の立場に立つものではない。総需要を管理する手段として金融政策と財政政策とのどちらが有効であるかという点をめぐる論争*2は、ニューケインジアンの総供給の理論とはほとんど関係がない*3。また、1人の経済学者がマネタリストであると同時にニューケインジアンであることも可能である。つまりは、マネーサプライの変化こそが総需要の変化の主要な要因であると理解しているという意味でマネタリスト的な立場を採りながら、同時に(ミクロ的な)市場の不完全性こそがマクロ経済的な名目価格の硬直性の原因であると理解しているという意味でニューケインジアン的な立場を採ることは可能なのである。実際のところ、マネタリストはマネーサプライの変化が(生産量や雇用量といった)実質変数の変化を招くという立場を採りながら名目価格の硬直性を説明することなしに事実として受け入れていたにすぎないのだから、(名目価格の硬直性に対するミクロ的基礎を提供することによって、マネーサプライの変化が実質変数の変化を招くというマネタリストの議論に支持を与える)新ケインズ派経済学は新マネタリズム(new monetarist economics)とも呼び得るのである。
第二に、ニューケインジアンは必ずしも政府の積極的な政策介入を望ましいものとは見なさない。本書における理論の多くは市場の不完全性を強調しているので、その理論の多くからは自由に放任された市場は非効率的な均衡に陥るとの含意が導かれることになるであろう。それゆえ、理論的な観点からは、政府による政策介入は潜在的には資源配分を改善し得るということになるであろう。しかしながら、政府が実際にも市場に介入すべきかどうかという問題は、経済的な判断だけではなく政治的な判断も含むものであり、理論的な結論をそのまま実践に移すことができるほど簡単な問題ではない。また、ニューケインジアンの議論によって説得されたとしても、同時に、政府による積極的な安定化政策(stabilization policy)に対する従来からの反対意見の多く―政策が効果を表すまでにはラグ(時間的な遅れ)があること、また政策の効果が表れるまでのラグは状況に応じて変わりうること―も依然として妥当であると考えて、ニューケインジアンでありながら同時に政府による積極的な安定化政策に懐疑的な立場を採る、ということも可能なのである。


New Keynesian Economics: Imperfect Competition and Sticky Prices (Readings in Economics)

New Keynesian Economics: Imperfect Competition and Sticky Prices (Readings in Economics)

*1:訳者注;ニューケインジアンマネタリストなのかケインジアンなのか、という問いはニューケインジアンの特徴を理解するにあたって適当な問いの立て方ではない、というような意味だろう。

*2:訳者注;マネタリストケインジアン論争で焦点となった問題

*3:訳者注;新ケインズ派経済学は総需要の理論だけではなく総供給の理論もその中に含むものであり、新ケインズ派経済学はマネタリストケインジアン論争においては問われなかった問題も視野に含んでいる。それゆえ、(マネタリストケインジアン論争で問題とされていなかった話題も研究対象に含む)ニューケインジアンケインジアンマネタリストかという尺度で明瞭に分類することはできない、というようなことを言いたいのだろう。