追加的な財政刺激をプッシュして絶望させられる僕


●Paul Krugman, “More Stimulus Despair”(Paul Krugman Blog, July 18, 2010)

今日はちょっと率直に語らせてもらおうと思う。この1年半ぐらいの間、財政刺激策をめぐって議論してきたけど、その過程において僕は経済学の現状にすっかり絶望させられることになった。例えばあなたが財政刺激策はダメダメなアイデア(bad idea)だと信じているとして、それはそれでまあよろしい。でも、議論におけるマナーとして、意見を異にする相手がこちらが何を語っているかについてほんのちょっとだけでも耳を傾けてくれるだろうってことくらいは最低限期待してもいいものでしょう? 特に、財政刺激策を擁護する主張は、いつも明らかに条件付きの主張として語られてきたもんだ。財政刺激策は以下の2つの条件が満たされる時に限って実施すべし、ってね。1つ目の条件っていうのは、経済が高失業下にあるケースで、それゆえにデフレーションのリスクが目前に迫っているようなケース。そして2つ目の条件は、名目金利がゼロ%にまで下落しているために金融政策にできることが制約されているケース(金融政策が名目金利の非負制約に直面しているケース)。

今の話を理解するのはそんなに難しいことじゃないように思うでしょ? でも、財政刺激策に反対する人々は、先の2つの条件が満たされないような状況で試みられた政府支出拡大の例を持ち出してきて、あたかも何事かを証明したかのように言い募るんだ。それも何度も何度も繰り返し。

一番最近の例はタイラー・コーエンのこの記事だ(訳者注;night_in_tunisiaさんの邦訳を参照。以下の引用部分ではnight_in_tunisiaさんの訳を利用させていただいた)。

ドイツでの近年の財政刺激策は明らかにポジティブなものではなかった。1990年の再統合以来、ドイツ政府は旧東ドイツの再建と旧東ドイツ住民の生活水準を西ドイツレベルに高めるための巨額の財政支出を債務でまかなってきた。何百万ものあらたな消費者が経済に加わった。

これらの政策はドイツを政治的に統合したが、経済的な統合にはあまり成功しなかった。初期のブームの後には生産と雇用の不満足な年が続いた。

この抜粋部分を読んで、僕は自分の目に鉛筆を突っ込みたい衝動に駆られたもんだ(This passage makes me want to stick a pencil in my eye)。 ともかく、一つ一つ検討していくことにしよう。

1.コーエンが持ち出している例は財政刺激策じゃない。この例は、需要に働きかける政策じゃなくて供給に働きかける政策だ。ドイツ政府は総需要を刺激しようと試みていたんじゃなくて、実のところは、東ドイツの生産性を高めるためにインフラの再建に臨んでいたんだ。

2. 当時西ドイツは高失業に悩まされていたわけじゃない。その反対だ。当時の西ドイツでは景気が過熱気味で、中央銀行であるブンデスバンクはインフレーションを恐れていたんだ。

3. 当時、名目金利の非負制約は関心事ではなかった。実際には、ブンデスバンクはインフレのリスクを回避しようとして金利を引き上げている最中だった。1989年のはじめの段階で4%だった公定歩合(discount rate)は1992年の夏には8.75%にまで上昇した。この金利引き上げは、部分的には、東ドイツ向けの政府支出によって刺激された総需要を抑制しようとの意図に支えられていた。この赤字財政と金融引き締めとのポリシーミックスは、1992〜1993年の欧州通貨危機を招いた元凶として広く叱責されたもんだ。


つまりは、僕らが今現在直面しているような状況の下での財政刺激策の効果について何らかの示唆を得るにあたり、このドイツの例ほど不向きな例を想像することは難しいということだ。そして、現下の問題について優れた見識を備えているはずのコメンテーターの一人が、財政刺激策をめぐる過去1年半の議論を経た後においてもなお、この点をまったく理解していないという事実を前にして、もう何というか、・・・冒頭でも語ったように、僕はすっかり絶望させられているんだ。

公的債務についてドイツが知っていること


●Tyler Cowen, “What Germany knows about debt”(Marginal Revolution, July 18, 2010)

NYTに寄稿された記事への補足。night_in_tunisiaさんによる邦訳も参照のこと。NYTの記事からの引用部分の訳については、night_in_tunisiaさんの訳を利用させていただいた。

以下は、つい最近私がニューヨークタイムズに寄稿した記事の抜粋である。

アメリカンケインジアンはこの社会民主主義モデルを許容する気は全くなく、内需と公的債務ではなく輸出に大きく頼った姿勢を批判している。しかし、ドイツの再興をサポートしているのはユーロの下落だけではない。

他のユーロ諸国のほとんどは適切な投資と改革を怠ってきたためドイツに匹敵するような成功を収めていない。さらに言えば、ユーロは2001年以来の平均価値よりも依然として高く、これは近年のドイツの成功が通貨の減価に帰属させることが出来ないことを意味する。

いずれにせよ、ドイツ人達は質の高い機械や技術(金ピカの自動車だけでなく)を輸出していて、それらは他の国の回復を助けるような製品なのだ。相対的に生産性の高い国家が不況を理由に成功している政策の変更を求められるというのは奇妙な状態だと言える。


この記事に対する補足として何点か言及しておこう。

1.私が解せないのは、なぜアメリカの左翼(left)がほぼ一枚岩になってケインジアンの政策提案(訳者注;財政刺激策)を支持しているのかという点である(この点に関して、ジェフリー・サックスだけは例外だが)。政府の運営方法をめぐっては他にも様々な社会民主主義モデルがあるにもかかわらず―ドイツがその例の一つである―、ここアメリカにおいては、財政政策に対するアプローチは、良くも悪くも、アメリカ特有の「やればできる」精神に覆われているようである。ポール・クルーグマンに対してコメンテーターらが様々な批判を加えているが、彼の議論に見られる規範的な側面は脇に置いておくにしても、アメリカ的な性質を濃厚に備えた思想家という点で彼クルーグマンは際立っている。この点については彼の著書『The Conscience of a Liberal』を参照してみればよかろう。アメリカの左翼がほぼ全員一致でケインジアン的な財政政策を支持している理由について−それもクルーグマンを歴史的な文脈の中に適当に位置付けながら−そのうち誰かが詳細な(それも規範的な観点に立つものではない)エッセイを書くべきだろう。

2.以下のような主張を耳にしたことがあるかもしれない。「すべての国が同時に経常黒字を生み出すことはできない」、「すべての国が貿易の拡大を通じて景気回復を実現することができるだろうか?」。2番目の質問を次のように言い換えてみよう。「個々人が取引を拡大させることを通じてヨリ高い所得水準に達することができるだろうか?」。この質問にどう答える? 個人にとっても一国経済にとっても、真に重要であるのは、生産性の上昇によって牽引された輸出(あるいは取引)の拡大なのである。生産性の上昇に支えられた輸出拡大は世界経済全体の安定化につながることだろう。

3.実際のところは、(需要サイドばかりではなく)供給サイドにも乗数が存在しており、さらにはこの乗数は持続可能なものでもある。

4.「財政緊縮」(fiscal austerity)というフレーズはミスリーディングであるかもしれない。この文章の第2パラグラフで述べられていることとは反対に、大半の「財政緊縮論者」(”austerity advocates”)でさえも、現時点においては、主要各国経済は大規模な財政赤字を継続すべきであると考えている(ドイツも、金融危機直後においては、一時的にヨリ積極的な財政刺激策を実施した)。「財政緊縮論者」が考えていることは、財政赤字の水準をさらに高めたところでうまくいくことはないだろうということにすぎない。

5.アメリカ経済と比べれば、EU流動性の罠に陥る可能性は小さい。とはいえ、どのような手段を通じてマネーサプライを増加させたらよいか、追加的な金融緩和によって増加したマネーサプライをEU各国間にどのように配分したらよいか、という問題は、EUにとっては厄介な政治問題となることだろう。格付けの低い(low quality)政府債券の買い取りは経済的な観点から見れば好ましい結果を生むだろうが、一方で、モラルハザードや(EU各国の人々が感じている)公平性の感覚等の問題を悪化させることになるだろう。後者の問題に対してもっと注意が向けられるべきである。