アダム・スミスのCSR論


●Clive Crook, “Adam Smith on CSR”(FT.com, August 8, 2008)

Smith believed that most people are self-interested, sympathetic, and wish to be well thought of. Successful commercial societies, he argued, are built on these traits. The question is, how can they best be combined? In modern terms, how can institutions and incentives shape, channel, and balance these sometimes conflicting instincts to promote greater peace and prosperity? This is the subject of both books.
(大抵の人は利己的であり、また他者への思いやりをも有しており(利他的でもあり)、周囲からよく見られたいと望んでいるものだ、とスミスは考えていた。スミスは、栄えた商業社会はこういった人間の諸性質に基づいて成り立つものであると主張した。問題は、これら人間の諸性質がどのようにしてうまく結び付けられるであろうか、ということである。現代的な表現で言い換えるならば、制度とインセンティブの作用を通じていかにして時にぶつかり合うこれら人間本能を平和で繁栄した社会の実現に向けて誘導・調和させることができるであろうか、ということである。スミスが『国富論』と『道徳情操論』とで問題としたのはこのことなのである。)

In Wealth of Nations, addressed to rulers, Smith exalts competition as the way to keep self-interest in check, and to subordinate producers to consumers. That is why the book is so opposed to protected monopolies and, above all, barriers to trade. In Moral Sentiments, he puts less weight on public policy and more on the wellsprings of virtue. He underlines the need for the approval of others, not just as an end in itself but also as a requirement for flourishing in commercial society. In short, competition disciplines producers (Wealth of Nations); commercial interaction nurtures propriety and prudence (Moral Sentiments). These are different perspectives, but by no means contradictory.
(支配者に向けて書かれた国富論では、スミスは利己心にチェックをかけるための手段として、また生産者を消費者の意向に従わせるための手段として競争の役割を重視した(褒め称えた)。そのために国富論は規制に守られた独占者ととりわけ自由な取引への阻害者とに不人気であったのである。道徳情操論では、スミスは公共政策の問題にはあまり重点を置かず、徳の源泉は何かという点にヨリ重点を置いて議論を行っている。道徳情操論の中でスミスは、他者から是認を得ることの必要性をそれ自身が目的であるというだけではなく、商業社会において成功するための必須要件としても強調した。つまり、競争が生産者を律し(国富論での議論)、商業上の取引が礼儀正しさと慎重さを育む(道徳情操論での議論)、というわけである。これら2つの書物での議論はそれぞれ異なった観点からなされた議論ではあるけれども、決して矛盾しているわけではない。)

As a relentless advocate of ethical conduct, he might say that managers are trustees, and owe their first duty to the owners of the assets under their control. In that case, doing good works at the expense of profits to seek “recognition” (as Bill advocates) would be straightforwardly unethical. On the other hand, he might observe that modern shareholders are not really “owners” at all: they have limited liability and accept little or no responsibility for the firm’s conduct. Managers carry that burden, and their concerns for “stakeholders” (over and above what maximum profits require) are therefore, arguably, ethically legitimate.
(スミスは、倫理的な行為の熱心な主張者として、経営者は所有者(ex.株主)の受託者であり、彼ら(=経営者)のコントロール下にある資産の所有者(=owner)に対して第一義的な義務を負っていると述べるかもしれない。その場合には、経営者が社会から「認知」を得るために利潤を犠牲にして良い仕事を行うことはスミスの目にはまさに(所有者に対する第一義的な義務に反した行為という意味で)非倫理的な行為と映ずるであろう。他方で、スミスは現代の株主は所有者と呼べるような立場には実質上ないと述べるかもしれない―株主は会社の債務に対して有限の責任を負担するのみであり、会社の事業活動に対してほとんどあるいはまったく責任を負わない―。この場合には、現代の株式会社においては経営者が所有者であることに伴う責任を(株主が負担しないために)負っており(=経営者が実質上会社の所有者であり)、それゆえ経営者が利潤の最大化という目的に加えてステークホルダーの立場を気にかけることは倫理的に正当化できるとスミスは判断するかもしれない。)

The debate over the rights and wrongs of CSR is usually cast as a question about the duties of the corporation. But a lot of our disagreement, I think, boils down to a narrower question: what are, or should be, the duties of managers with respect to shareholders? Do we prosper best if we oblige managers to act strictly as agents, or if we indulge their desire to act as owners? I say the first. I don’t know what Smith would say.
(企業の社会的責任の是非に関する論争はたいていは企業(株式会社)の義務とは何だろうか、という疑問をめぐっての論争のかたちをとる。しかしながら、私が考えるに、我々の間における多くの意見の不一致はもっと焦点を絞った疑問への回答の不一致に還元できると思う。その疑問とは、経営者の株主に対する義務とは何であり、また何であるべきか? 我々の社会が最も繁栄しうるのは、経営者を株主の厳密な代理人として行動させることによってであるのか、それとも経営者が所有者として行動することを認めることによってであるのか? ということである。私なら経営者は株主の代理人としての責務を負っており、経営者が株主の代理人として行動したほうが社会はヨリ繁栄するであろうと答えるけれども、スミスがこの疑問に対してどのように答えるかは私にはわからない。)


Undercover Economist経由。

ハーフォード(Tim Harford)も上のブログで述べているけれども、今日のコーポレートガバナンスの問題に対してスミスからあまりに多くの結論を引き出さないよう注意する態度(=著者が想定していない(あるいは時代の制約から想定しえなかった)問題に無理やり答えさせないこと!)は重要であると思う。この点と関連するけれども、アダムスミス(あるいは古典派)とウェブレン、ケインズの企業論を取り上げた面白い本として間宮陽介著『法人企業と現代資本主義』という本がある。この本では、Crook氏が論じているように「Who knows what Smith would have thought of 21st century corporate governance? The modern corporation is a form he could barely have envisaged.(21世紀のコーポレートガバナンスの問題についてアダムスミスがどう考えたか、一体誰が知っているであろうか? 現代の企業(株式会社)はスミスがかろうじて想像しえたような形態なのである。)」という点(=スミス(18世紀に生きた経済学者)とウェブレン・ケインズ(20世紀に生きた経済学者)とでは想定している企業の形態に違いがある(←時代の変遷とともに支配的な企業の形態に移り変わりがあることの反映でもある)ということ)を認識することの重要性が明確に説かれている。・・・と言いつつも、この本を読んだのはかなり前のことで実のところ内容の詳細については記憶が薄れてきている。機会を見つけて再読したいところだ。


法人企業と現代資本主義 (シリーズ現代の経済)

法人企業と現代資本主義 (シリーズ現代の経済)