Antonio Fatás 「過小評価された財政乗数」


●Antonio Fatás, “Underestimating Fiscal Policy Multipliers”(Antonio Fatas and Ilian Mihov on the Global Economy, October 8, 2012)

この度発表されたばかりのIMFの世界経済見通し(IMF World Economic Outlook)では世界経済の回復を鈍化させるリスクの高まりに対して強い警戒が示されているが(報告書はIMFのウェブサイトで閲覧することができる)、その第1章ではこれまでの成長予測において財政乗数の大きさが過小評価されていた可能性をめぐって優れた分析がなされている。以下は第1章からの引用である。

多くの国々が財政再建に乗り出す中、財政乗数の大きさをめぐって激しい議論が繰り広げられることになった。財政乗数の値が小さければ小さいほど、それに応じて財政再建に伴うコストは小さくなる。実際のパフォーマンスに目を移すと、財政再建に着手した国々の経済活動は期待を裏切るものであった。そこで当然次のような質問が問われることになる。財政乗数の大きさは過小評価されていたのではないか? そのために財政削減に伴う短期的なマイナス効果が予想を上回る結果となってしまったのではないか?

その答えは「イエス」(財政乗数は過小評価されていた)である。
ここで財政乗数をめぐるこれまでの論争の経過を私なりに振り返ってみることにしよう。11年ほど前に行われた一連のアカデミックな研究では、財政乗数の値は1〜1.5の範囲のどこかにある、との推計結果が得られた。言い換えると、政府支出の1%の増加はGDPの1〜1.5%程度の増加につながる、ということである。これは私自身が2001年に行った共同研究で達した結論であり(その研究の結果をまとめた論文こちら(pdf))、またほぼ同じ時期に執筆されたオリヴィエ・ブランシャール(Oliver Blanchard)とロベルト・ペロッティ(Roberto Perotti)による共著論文でも同様の結論が得られている(その論文はこちら(pdf))。この問題に関する研究はその後も活発に続けられ、先の推計結果*1を確証する数多くの論文とともにそれに疑問を投げ掛ける論文も生み出されることになった。特に、戦争のようなイベントに基づいて財政乗数の推計を試みた論文では乗数は1〜1.5といった値よりも小さな値をとる傾向にあった。話題が話題だけに(財政政策という政治が絡んでくる問題ということもあって)、財政乗数をめぐる論争はとどまることを知らず、乗数はゼロに近いまたはマイナスでさえある(政府支出が増加するとそれと同じ規模だけ民間支出が減少する)と信じる研究者も現れるほどであった。

このように論争は続いたものの、これまでの研究成果を私なりに検討すると、乗数はおおよそ1あるいは1を少し上回る程度、という線でかなりのコンセンサスが得られていたと見ていいのではないかと思う。

2008年に危機が勃発するや、財政乗数をめぐる論争はアカデミックな世界から緊急を要する政策論争の場へとその舞台を移すことになった。財政刺激策のインパクトはどの程度だと予想されるだろうか? オバマ政権は財政刺激策の必要性を正当化するために財政乗数は1.5程度であると提起した報告書(執筆者の一人はクリスティーナ・ローマー(Christina Romer)である)を発表したが、この報告書に対しては「深刻な危機の中にあっても総需要管理策の余地などない」と信じる人々から批判が加えられることになった。財政乗数をめぐる論争は次第にアカデミックな議論の応酬というよりはイデオロギー闘争に近い様相を呈するになっていったが、その一方で、我々が現在置かれている特殊な状況(金融政策がゼロ下限制約に直面しており、デレバレッジの圧力に伴う民間需要の低迷によって深刻な景気後退がもたらされている状況)のために乗数の値は当初(11年前)の推計よりも大きい可能性を示す一連のアカデミックな研究成果がちらほらと表れるようになった。

しかし、そういった新しい(そして昔の)アカデミックな研究成果は2008〜2009年の財政刺激策を受けて繰り広げられることになったイデオロギー色の濃い論争の中で埋没していくことになった。その論争の結果として導かれた結論が、2008年以降の財政刺激策は効果がなく、今必要な処置は一層の財政緊縮である、というものであった。過去2年間を通じて多くの政府が財政緊縮に向かうことになったが、そのような状況の中で行われたGDP成長率の将来予測の作業においては乗数が大きな値をとる可能性に対して考慮が払われることはなかったのである。

以上の話はこの度の世界経済見通しでIMFが示唆しているポイントであり、同時に(IMFによる)自己批判という意味合いも含まれている。この度の世界経済見通しでIMFは自らが最近行った世界経済の成長予測を再検討したうえで、財政再建インパクトを計測するにあたって暗黙のうちに採用されている乗数の値が0.5程度であることを明らかにしている。これまでにGDP成長率の将来予測が過大評価であった*2事実を受けて、乗数は0.5を上回るのではないかとIMFは疑いを強くしている。世界経済見通しの分析では乗数は0.9〜1.7の範囲内にある可能性が示唆されているが、この数字はかつての(11年前の)推計結果とほぼ完全に一致しており、つい最近のアカデミックな研究結果によっても支持されているところである。また、現在のような状況を前提とした場合に大半の経済モデルから予測される数字とそれほどかけ離れてもいない。

*1:訳注;財政乗数の値は1〜1.5の範囲にある、との推計結果

*2:訳注;成長率予測の下方修正を余儀なくされた

「デレバレッジ・ショックと財政乗数」


●Paul Krugman, “Deleveraging Shocks and the Multiplier (Sort of Wonkish)”(The Conscience of a Liberal, October 9, 2012)

ジョナサン・ポルテス(Jonathan Portes)−来週ロンドンで行われる予定の財政政策に関する討論の場では私と彼とは共同戦線を張ることになるだろう−が財政乗数の推計をめぐるIMFの懺悔にコメントを寄せている。彼(+IMF)の指摘によると、これまで世界中の多くの政策当局者は財政引き締めの乗数は1を大きく下回るとの前提に立って行動してきたが、実際の経験に照らすと現時点において財政乗数は1より大きい値をとることが示唆されている、とのこと。

財政乗数が大きくなるロジックと危機の発生をめぐるロジックとの間には非常に密接なつながりがある、という点はここで指摘しておく価値があるかもしれない。つまりは、信用バブル後の時期においてこそ財政乗数が大きくなると予想されるのである。また、それだからこそバブル(崩壊)後のあきらめ*1―もっとまずいことには、財政緊縮の要求―はひどく破壊的な結果をもたらすことになるとも考えられるのである。

現在我々が置かれている混乱状況を説明するシンプルだが概して正しいストーリーは次のようになるだろう。レバレッジに関する過度に強気な(自信満々な)態度がしばらく続いたかと思うと突然その態度に終止符が打たれる。過度に強気な態度に支えられて家計債務が急速に膨れ上がり、(その強気な態度の終焉に伴って)突如として債務水準が過剰であると認識されるに至る*2


マクロ経済的な観点からして重要なポイントは、レバレッジとデレバレッジ(債務の圧縮)はその(景気あるいは総需要に対する)効果の面で非対称的な性質を持つ、という事実である。レバレッジの上昇(債務の増加)―他の事情が一定とすれば―は総需要の高まりをもたらすが、この総需要の高まりは中央銀行によって相殺可能であるし実際にも相殺される傾向にある−中央銀行はいつでも金利を引き上げることができる−。一方で、デレバレッジ(が経済を冷え込ませる効果)はレバレッジ(が経済を刺激する効果)ほどには容易に相殺することはできない。確かに中央銀行による金利の引き下げによってデレバレッジの効果を相殺することはできるが、金利はゼロ%までにしか引き下げることができず、また非伝統的な金融政策に関しては多くの論争があり、その効果も不確かな面がある(ただし、だからといって非伝統的な金融政策には手を出すべきではないと言っているわけではない)。

つまりは、急速なレバレッジから急速なデレバレッジへのサイクルが生じるケースにおいては通常の金融政策によっては解決し得ない総需要の持続的な不足−私が「不況の経済学(depression economics)」と呼ぶ状況−が発生する可能性があるわけである。

さて、ここで注意を要するポイントだが、デレバレッジへの対処を困難とする要因が通常の状況においてよりも財政乗数を大きくする要因としても働くことになる。通常の状況であれば、拡張的な財政政策は金融引き締め(金利の引き上げ)によって相殺される一方で、緊縮的な財政政策は金融緩和(金利の引き下げ)によって相殺されることになる。過去の経験(通常の状況にある経済の経験)に基づいて導き出された財政乗数の予測が小さい値をとるのもそのためである。しかし、デレバレッジの圧力のために経済が流動性の罠に追いやられるや、財政政策の効果を相殺するものは何もない状況となる。

それでは、そういった(デレバレッジの圧力のために経済が流動性の罠に陥っているような)状況において財政乗数はどの程度の大きさになると予想されるだろうか? 答. 1より大きい。

どうしてそう言えるのだろうか? その理由を探るために、まずはじめに摩擦のない世界ではどういうことになるか考えてみることにしよう。つまり、消費者は将来のことを完全に見通すことが可能であり(完全予見の仮定)、資本市場に誰でも自由に(同じ条件で)アクセスできるとしよう(資本市場の完全性)。この場合、財政乗数は1ということになるはずである−政府支出が変化しても消費需要は増えも減りもせず、政府支出の変化は同規模のGDPの変化をもたらすことになる−。というのも、政府支出の増加は現在所得を増加させることになるが、同時に将来における税負担の増加も意味することになり、これら2つの効果*3は完全に相殺し合うことになる*4だろうからである。

ここで話を現実に近付けるために摩擦を加えてみることにしよう。家計は流動性制約下に置かれている(資本市場の不完全性)とともに/あるいは家計は現在の所得に依存して消費水準を決定するように経験則(rules of thumb)に従って振る舞うものしよう(ところで、エッガートソン(Gauti Eggertsson)との共著論文でも指摘したことだが、債務/デレバレッジモデルを使用するということは実質的に多くの家計が流動性制約下にあると想定していることになる)。こういった摩擦が存在する場合、財政政策の実施に伴って現在所得が変動すればそれと同じ方向に消費も幾ばくかの変化を見せることになるだろう*5。つまり、財政乗数は1より大きくなるのである。

「ところで、信頼(confidence)の問題はどうした」との声があるかもしれない。確かに、現在の政府支出の変化が将来における(政府支出の)もっと大きな変化の前兆であると人々が信じるとすれば、先の結論はひっくり返されることになるだろう。しかし、財政刺激策に関して人々がそのように信じるという理由は一切ないし−これまでのところ財政刺激策は一時的なものであったことがはっきりとしている−、財政パニックに応じるかたちで急ごしらえで実施された財政引き締めに関しても人々がそのように信じるかどうか疑わしいと言えよう。

そういったわけで、財政乗数が大きいとしても驚くべき理由などないのである。財政乗数が大きくなる*6というのは我々が現在置かれているような危機の下では予測可能な事態であったのであり、小さな*7財政乗数という正当化し得ない想定を受け入れたことで世界各国の政策当局者は危機の深刻化に手を貸すことになったのである。

*1:訳注;金融危機の後には長くて深刻な景気後退が到来するのが必然的な流れ(変えることのできない運命)なのだから何をやっても無駄である、とあきらめの態度をとること

*2:訳注;その結果として多くの家計が一斉にデレバレッジに向けて動き出すことになる。

*3:訳注;現在所得の増加と将来における税負担の増加

*4:訳注;つまりは、政府支出が増加しても現在の消費は変化しない

*5:訳注;現在所得の増加(減少)→現在消費の増加(減少)

*6:訳注;1を上回る

*7:訳注;1を下回る