「ジェームズ・ブキャナンよ、永遠に」


公共選択論(Public Choice)ならびに立憲的政治経済学(Constitutional Political Economy)の開拓者の一人であり、「経済的・政治的な意思決定の理論に対する契約的・立憲的な基礎付けを発展させた」(“for his development of the contractual and constitutional bases for the theory of economic and political decision-making”)業績を称えて1986年にノーベル経済学賞を授与されたジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)が先日の水曜日にこの世を去りました。93歳でした。ブキャナンがその発展に貢献した公共選択論の概要についてはWSJのこの記事が端的にまとまっています。

With Gordon Tullock, Buchanan developed what became known as "public choice theory." Buchanan described it as the application of the profit motive to government: "It presupposes that if there is value to be gained through politics, persons will invest resources in efforts to capture this value."
ジェームズ・ブキャナンは、ゴードン・タロックとともに、今日「公共選択論」として知られる理論の発展に貢献した。公共選択論は政府に対しても利潤動機を応用したものだ(政府の行動を人々の利潤動機から説明しようとする)、とブキャナンは語っている。「公共選択論の立場では、もしも政治の場を通じて得られるような価値があるならば、人々はその価値の獲得を目指して資源を投資するだろう、と仮定する。」)

This may seem obvious after the special-interest tax bonanza that Washington doled out last week while raising taxes on millions of other Americans. But in the early 1960s, the notion that politicians were anything but unselfish public servants was, well, under-appreciated. Public choice, he wrote, was nothing new but "incorporates an understanding of human nature" that prevailed in the 18th century.
(先週ワシントンを舞台に繰り広げられた騒動−何百万もの一般の人々の税金を引き上げる一方で、一部の利害関係者に対する税の施しを認める決定−を知る人間にとっては、このような見方は当たり前で自明のことのように思えるかもしれない。しかしながら、1960年代初頭においては、政治家を「無私の公僕」以外の存在として捉える見方は過小評価されていたのである。公共選択論は何ら新しいものではなく、18世紀に広く受け入れられていた「人間本性に関する理解をその中に組み込んだものである」、とブキャナンは語っている。)

In our own times "market failures were set against an idealized politics," Buchanan wrote in 2003. Public choice provided "a set of theories of governmental failures," or as Buchanan called it, "politics without romance."
(2003年にブキャナンはこう書いている。現代においては「「市場の失敗」は「理想化された政治」と比較される傾向にある」が、公共選択論は「「政府の失敗」に関する一連の理論」を提供することで「ロマンスなき政治」の立場に立つものである。)

So, for example, he could explain why bureaucracies had an incentive to expand their turf in order to increase their financial resources and power. Or why politicians keep tax rates high so they can dole out special credits and exemptions for those who would reward those same politicians. Or why pork-barrel politics is the abiding concern of legislators.
(そのような見方に立つことで、例えば、どうして官僚は自らの縄張りを広げようとするインセンティブを持つのかを説明することができ(金銭的な資源(予算等)や政治的な権力を増大させるため)、政治家が税率を高止まりさせたままにしておく理由(自分に投票してくれる有権者に対して税制上の優遇措置(給付や控除など)を見返りとして与えることのできる余地を残しておくため)も国会議員がバラマキ政治(あるいは利益誘導)に明け暮れる理由(自分の選挙区で公共事業等のプロジェクトを実施することで選挙区の住民から次回の選挙で一票でも多くの票を投じてもらうため)も説明できることになる。)

ちなみに、英語ではあるものの、ブキャナンの著書の多くはこちらで読むことが可能です。主著の大半も邦訳されているので、興味がある向きは是非一度手にとってみていただけたらと思います。
昨年2012年はブキャナン=タロック著『合意の計算』(『The Calculus of Consent』;邦訳『公共選択の理論−合意の経済論理』)の出版50年目にあたるということでPublic Choice誌で特集が組まれています。また2年前のJournal of Economic Behavior & Organization誌ではブキャナンの業績を巡って特集が組まれています。さらに、近々Springer社から『Public Choice, Past and Present−The Legacy of James M. Buchanan and Gordon Tullock』(Dwight R. Lee 編集)が出版予定とのこと。

ブキャナン教授のご冥福をお祈りいたします。


以下、私の目についた範囲で追悼リンク集をまとめておきます。

●Robert Higgs, “James M. Buchanan (October 3, 1919 – January 9, 2013)”(The Beacon, January 9, 2013)
●Randall Holcombe, “James M. Buchanan: 1919-2013”(The Beacon, January 9, 2013)
●Steve Horwitz, “RIP: James M. Buchanan (1919 – 2013)”(Bleeding Heart Libertarians, January 9, 2013)
●Alex Tabarrok, “James Buchanan (1919-2013), Appreciations”(Marginal Revolution, January 10, 2013)
●Dave Giles, “James Buchanan”(Econometrics Beat, January 9, 2013)
●Angus, “James Buchanan: a personal remembrance”(Kids Prefer Cheese, January 9, 2013)
●Tyler Cowen, “A few James Buchanan reminiscences”(Marginal Revolution, January 11, 2013)
●Tyler Cowen, “What made Buchanan special as an economist?”(Marginal Revolution, January 13, 2013)
●Timothy Taylor, “Some Thoughts on James Buchanan”(Conversable Economist, January 14, 2013)
●Richard McKenzie, “Richard McKenzie writes a tribute to James Buchanan”(Marginal Revolution, January 14, 2013)

ブキャナンの業績の概要や人柄を知りたい方は以上のリンクを参照してください。


●Wayne Leighton, “In Memoriam: James M. Buchanan”(Madmen, Intellectuals, & Academic Scribblers Blog, January 9, 2013)
●Edward Lopez, “James M. Buchanan: Complete Scholar”(Madmen, Intellectuals, & Academic Scribblers Blog, January 10, 2013)

つい最近この2人の共著である『Madmen, Intellectuals, & Academic Scribblers』という本が出版されました。アレックス・タバロックはこの本を指して(ブキャナンの「ロマンスなき政治」をもじって)「ロマンスなき革命」(“revolution without romance”)の立場に立つものと形容しています。公共選択論の枠組みに依りつつ、政治・経済制度の転換過程が分析されています(といっても私は未読)。特にこれまで公共選択論では軽視されがちであった「アイデア」が(政治・経済制度の転換過程において)果たす役割に着目しているとのことです。著書の概要についてはこちらこちらなどを参照してください。


●Lars Christensen, “The last brick – RIP James M. Buchanan”(The Market Monetarist, January 9, 2013)
●Bill Woolsey, “James M. Buchanan 1919-2013”(Monetary Freedom, January 10, 2013)

いわゆる「マーケット・マネタリスト」の立場に立つ論者の2人ですが(Christensenは「マーケット・マネタリスト」の名付け親です。詳しくはsacred_starさんによるこちらこちらの邦訳を参照してください)、ブキャナンのマネタリー・コンスティテューション(monetary constitution)を巡る研究に触れています(ビル・ウールジーに関しては“Index Futures Convertibility: A Constitutional Approach”や“James Buchanan on Constitutional Monetary Reform”も参照)。マネタリー・コンスティテューションというのは簡単に言うと貨幣制度を特徴づける(あるいは基礎づける)ルールということになりますが、「レジーム転換」の話題と無縁ではないかもしれません。マネタリー・コンスティテューションの観点から「レジーム転換」を捉える、という方向性もあるのかもしれません。マネタリー・コンスティテューションの話題に対するブキャナンの見解について詳しくはCato JournalのVol.6(2)でのPeter Bernholzとのやり取りやhimaginaryさんのブログエントリー「はだかの経済学者」等を参照してください(私自身はまだ手が回っていないのですが、マネタリー・コンスティテューションが主題となっている本に、L.B.Yeager(ed.)(1962)『In Search of a Monetary Constitution』(Cambridge, Mass., Harvard University Press)があります。ブキャナンの論文(“Predictability: The Criterion for a Monetary Constitution”)も収録されています。このブキャナン論文については、Peter J. Boettke and Daniel J. Smith, “Robust Political Economy and the Federal Reserve(pdf)”で概要が説明されています。)


●Mario Rizzo, “James M. Buchanan: A Preliminary Appreciation”(ThinkMarkets, January 9, 2013)
●Don Boudreaux, “Jim Buchanan: An Economist’s Economist”(Cafe Hayek, January 9, 2013)

この2人はオーストリア学派を自任する論者ですが、オーストリア学派と公共選択論との間には強いつながりがあります。この点について詳しくは以下のリ−ソン=ベッキー論文を参照してください。

●Peter T. Leeson and Peter J. Boettke(2003), “An ‘Austrian’ Perspective on Public Choice”(ENCYCLOPEDIA OF PUBLIC CHOICE, Charles Rowley, ed., Kluwer Academic Publishers, 2003)


●Arnold Kling, “James Buchanan and the Ideological Divide”(askblog, January 9, 2013)

このクリングのエントリーではブキャナンの著書『Cost and Choice』から個人的に強い影響を受けたことが語られています(この本に言及しているのはクリングだけに限られませんが)。以下に『Cost and Choice』の序文のさわりだけを訳しておくことにしましょう(この本には邦訳が存在する(山田太門訳『選択のコスト―経済学的探究』)ので興味がある方は邦訳書にあたってください)。

あなたは今選択に直面している。この序文をこのまま読み続けるべきか、それとも別の本を読むべきか、物思いにふけるべきか、何かものを書くべきか、を決定しなければならない。「序文を読み続ける」という選択肢以外の一連の選択肢の中であなたが最も魅力を感じる選択肢に対してあなた自身が置く価値がこの序文を読み続けるためにあなたが支払わねばならないコストである。そのコストはまったく主観的なものであり、またそう(主観的なもの)でしかあり得ない−というのも、そのコストは(「序文を読み続ける」という選択肢以外の)他の機会がもたらすであろうと今現在あなた自身が考える価値だからである−。この序文を読むと決めた時点で、(「序文を読み続ける」という選択肢以外の)他の選択肢が現実のものとなるチャンス、ひいてはその他の選択肢が有する(あなたにとっての)価値を測るチャンスは永遠に失われてしまうことになる。他の機会がもたらすコスト(あるいは価値)が人の行動を変え得るのは、(この序文をこのまま読み続けるべきか、それとも別の本を読むべきか、物思いにふけるべきか、何かものを書くべきか、という一連の選択肢を前にした)選択の瞬間においてしかないのである。

「ポーゼン、日本経済の行方について語る」を語る


恒例の(?)あの友人とランチ。今年も相変わらず元気な様子で・・・今年も色んな意味で長い一年になりそうだ。

中央銀行の独立性」については去年一緒にランチした際に話したけれど、直近のhimaginaryさんのブログでも独立性の話題が取り上げられているよね。

●「中央銀行の独立性は政府支出を増加させる」(himaginaryの日記, 2013年1月9日)
●「スティグリッツ「中央銀行の独立なんかいらない」」(himaginaryの日記, 2013年1月10日)


そういえばアダム・ポーゼン(Adam Posen)の年末のインタビューでも中銀の独立性について触れられていたよね。「目標の独立性」と「手段の独立性」とをちゃっかりと区別した上で、政府が中央銀行に対して特定の手段の行使を強制するのは「手段の独立性」の侵害だけれど、政府が中央銀行の政策に文句を述べたり注文をつけるのは独立性(「手段の独立性」)の侵害でも何でもないって語ってたよね。政府が中銀のパフォーマンスを評価して何が悪いの? アメリカ政府がFBIとかその他の「独立した」政府機関のパフォーマンスに口を出すのと同じでしょ?ってね。そして、国民の代表たる政府のトップが中央銀行の目標を定める(このことをポーゼンは「目標の依存性」(goal dependence)と表現しているけれど)のは「中央銀行の独立性」に何ら反するものではない、と語っているよね。

ちょっと待ってだよね。そのスピーチ探すからね。・・・あら、トランスクリプト(インタビューの文字起こし)もきてるよね。

●“A New Direction for Japan? Part I: Interview with Adam Posen”(Peterson Perspectives Interviews on Current Topics, December 31, 2012)

このインタビューは面白いよね。かつて君がブログで取り上げていたスピーチでも語っていたけれど、過去の日本で量的緩和がそれほど効果を持たなかったのは、日銀が自ら効果を持たないような方向にもっていってたんだから別に驚くことでもないよ。満期が短い国債を買ったり、中銀当局自ら「おそらくデフレは避けることのできない現象で・・・」とか政策効果を否定するような発言を繰り返してたらそりゃ効かないよ、と日銀に対して実に手厳しいよね。

その代わりに、インフレ目標の引き上げ+「おそらくデフレは避けることのできない現象で・・・」とか政策効果を否定するような発言をしない+購入対象資産の範囲を(長期国債社債、外国の(アメリカとかヨーロッパの国々の)国債などにまで)広げる、といった一連の政策の組み合わせに乗り出すべきだ、と語っているよね。

以上の政策は、どうやら安倍政権が推進するつもりらしいし、伊藤隆敏・岩田一政・浜田宏一といった日本の経済学者が提唱している政策でもあり、私(ポーゼン)も支持する政策だ、と語っているよね。

日本ではリーダーシップの変更に伴って時にラディカルな政策転換が行われることがある。日銀総裁の交代が間近に迫っているけれど、日銀総裁の交代に伴って金融政策の面でもラディカルな変更があるかもしれないよ、とも指摘しているよね。

インタビューのパートⅡでは現在の日本において財政政策を使うことに対して懐疑的な見解を表明しているよね。

●“A New Direction for Japan? Part II: Interview with Adam Posen”(Peterson Perspectives Interviews on Current Topics, December 31, 2012) 

“I strongly disagree on fiscal policy”って語っているよね。15年前であれば財政政策を使うのもグッドアイデアだったろうけど、現在の状況で(津波で被害を受けた設備等を補修する目的を超えて)財政政策を発動することに関しては疑問だよ、とね。

というのも、現在日本が抱える問題は総需要不足一般というよりはデフレと行き過ぎた円高にあり−そのため大規模な金融緩和は理にかなっている−、この15年の間にかなり政府債務も積み上がってきてるから、という理屈みたいだね。

“So, I think the monetary impetus is right, but I think that a fiscal stimulus right now for Japan―it’s always context specific when it works and when it doesn’t― I don’t think it’s productive.”

「そういうわけで、一層の金融緩和の発動は正しいけれど、今現在日本が置かれている文脈においては財政政策の発動は生産的ではないと思う−財政政策が効くかどうかは常に文脈に依存するものなのだ−。」

もう時間がなくて行かなきゃいけないけれど、トランスクリプトも準備してくれてることだし、時間に余裕があればインタビュー全部に目を通すことをお勧めするよね(今日は一切触れることができなかったけれど、インタビューでは日本と中国との緊張関係とそれが持つ意味についても触れられているよね)。それじゃまた、だよね。

・・・そうそうだよね。昨年のジャクソンホールシンポジウムで発表されたウッドフォードの論文は各地で評判になったけれど、ウッドフォードの討論相手を務めたのが誰であろう・・・そう、ポーゼンだよね。どうせ今日のこの会話もブログにまとめるんだろうから、ポーゼンのコメントのリンクもついでに貼っておいてだよね。

●Adam Posen, “Comments on “Methods of Policy Accommodation at the Interest-Rate Lower Bound” by Michael Woodford(pdf)”