David Henderson 「ロナルド・コース 〜「黒板経済学」に異を唱えた男〜」


●David R. Henderson, “The Man Who Resisted ‘Blackboard Economics'”(Wall Street Journal, September 4, 2013)

つい先日のレイバーデー(Labor Day)に102歳でこの世を去ったロナルド・コース(Ronald Coase)は20世紀に活躍した経済学者の中でも最も稀有な人物の一人であった。取引費用が現実の経済に対してどのような影響を及ぼすかをめぐって鋭い分析を展開し、その洞察に対して1991年にノーベル経済学賞を授与されている。75年の学者人生を通じて彼が執筆した重要な論文は1ダース程度しかなく、彼が論文で数学を利用することはほとんどあるいはまったくなかった。しかしながら、彼がもたらした影響は深遠なものであった。

20代前半の若かりし頃のコースは社会主義者だったが、彼は他の大半の社会主義者にはないある特徴を持ち合わせていた。それは、現実の経済の働きに対する好奇心である。1931年から1932年にかけて故郷のイギリスからアメリカに旅行に出掛けた際、コースはノーマン・トーマス(Norman Thomas)−トーマスは社会主義の政党から大統領選挙に立候補した泡沫候補の一人であった−のもとをひょっこり訪ねるだけではなく、フォードやゼネラルモーターズの工場にも立ち寄った。そうする中で彼は次のような疑問を抱くことになった。レーニンはロシア経済を一つの大きな工場のように運営することは可能だと考えているが、アメリカで幾つかの大企業が好成績を収めているように見える中で果たして経済学者はレーニンのそのような考えは間違いだと言い得るだろうか? 

この疑問に対するコースの回答が1937年に執筆されその後数多く引用されることになる論文 “The Nature of the Firm”(「企業の本質」)である。企業は(中央)計画経済と似た存在であるのは確かだが、計画経済と違って企業は人々の自発的な選択の結果として形成されるものである。そこで問題となるのは、どうして人々はそのような選択を行うのだろうか?、ということである。その理由は、「市場を利用することに伴うコスト」("marketing costs")が存在するためだ−あるいは現在経済学者が用いる表現では「取引費用」("transaction costs")が存在するためだ−というのがコースの回答であった。市場を利用することに何のコストもかからないとすれば、企業を設立したところで何の意味もないだろう。その場合人々は互いに個々の独立した存在として市場を通じて取引を行うことだろう。しかしながら、市場を利用することにコストがかかる場合には、企業の内部において生産(取引)を組織化することが最も効率的となる可能性が生まれることになる。「なぜ企業は存在するのか?」という疑問に対して1937年の論文でコースが与えた説明はその後大きな発展を見せることになる研究領域を生み出すきっかけとなったのであった*1

その後大きな発展を見せることになる研究領域を生み出すきっかけとなったと言えば、コースが1960年に執筆した論文 “The Problem of Social Cost”(「社会的費用の問題」)もまたそうであり、この論文をきっかけとして「法と経済学」("law and economics")と呼ばれる分野が形成されることになった。コースがこの論文を執筆する以前の段階においては、大半の経済学者は「外部性」の問題に関してアーサー・ピグー(Arthur Pigou)の考えを受け入れていた。例えば、ある牧場で飼われている牛が隣接する農家に入り込んでその作物を踏み荒らしているとしよう。この問題にどのように対処したらよいだろうか? ピグー流の考えでは、政府が牧場主に対して牛の自由な放牧を禁ずるか、牛の放牧に対して税金を課すべきだ、ということになる。そうでもしないと、牧場主には牛が隣の農地を荒らさないように防ぐインセンティブが無いために、農作物はいつまでたっても牛に荒らされ続ける結果となるだろう、というのである。

コースはそのような考えに挑戦した。彼は語る。牧場主はある重要な機会を見逃している可能性がある、と。その機会というのは、牛が農作物を荒らさないように手配することと引き換えに、農家から幾ばくかの金銭的な支払いを受ける可能性である。仮に取引費用がゼロであるとすれば−ここで注意しておくが、コース自身は「取引費用がゼロ」という想定が現実に成り立つとは考えてはいなかった−、農家と牧場主は互いに利益をもたらす合意に達することができるだろう。

例えば、牧場主が飼育する牛からネットで見て(飼育に要する費用を差し引いた上で)20ドルだけのリターン(金銭的な便益)を得られる場合、(農家から牧場主に対して)20ドルを超える支払いがなされるならばその牧場主は追加的に牛を飼育しないとの取り決めに同意するだろう。一方で、牛が農作物に及ぼす被害が30ドルであるとすれば、「これ以上追加的に牛を飼いません」との同意を牧場主から引き出すために農家は30ドルまでであれば喜んで支払いを行うことだろう*2。牛の放牧に対してピグー税を課すべきだとの議論の妥当性がもはやそれほど明らかではなくなるわけである。

ジョージ・スティグラー(George Stigler)−彼もまた1982年にノーベル経済学賞を受賞している−は、1960年の論文におけるコースの洞察の中でも特に刺激的な部分は「取引費用がゼロ」の場合に成り立つ結論であると考え、それに「コースの定理」("Coase Theorem")という名前を冠した。「コースの定理」によると、取引費用がゼロである場合には、(たとえ外部性が存在するとしても)政府が介入する必要は一切ない、というわけだ。

一方で、イリノイ州立大学シカゴ校に籍を置く経済学者であるディアドラ・マクロスキー(Deirdre McCloskey)は、「取引費用がゼロ」の場合に成り立つ議論は取るに足りないものと考えた。マクロスキー女史の考えでは、1960年の論文におけるコースの洞察の中でも特に興味深い部分は「取引費用がプラス」である現実の世界において成り立つ帰結を巡るものであった。取引費用がプラスである場合には、裁判所が賠償責任(liability)をどの主体に割り当てるかが重要な意味を持つことになる。例えば、先に用いた牧場主と農家の例において仮に裁判所が牧場主に賠償責任を求めた場合(そして先の例のように、飼い牛に対する牧場主の評価額が(飼い牛がもたらす)農作物の損害額を下回る場合)、取引費用の存在のために効率的な解決策を見出すことができない可能性が生まれることになるのである*3

コース自身はピグーの考えだけではなく(「取引費用がゼロ」のケースを重要なケースと見なす)スティグラーの考えも拒否し、両者の考えをあざけって「黒板経済学」と呼んだのであった*4

コースが1974年に執筆した論文 “The Lighthouse in Economics”(「経済学における灯台」)も有名である。経済学者は時に灯台を「公共財」−政府だけしか供給することのできない財−の例として持ち出すが、この論文でコースは19世紀イギリスの事例を詳細に検討し、当時のイギリスでは灯台は私的に供給されており、港に立ち寄った船から(灯台のサービスを享受したことに対する)代金が徴収されていた事実を示したのであった。港に立ち寄らずにそのまま通り過ぎる船も中にはあったものの、灯台の運営・管理が商売として成り立つに十分なだけの数の船が港に立ち寄り代金を支払っていたのである。

コースによるこの発見は経済学者がそれまで抱いていた見解、すなわち、フリーライダー(ただ乗り)問題のために灯台を私的に運営・管理することはできないだろうとの見解に打撃を食らわすことになった。また、この論文は、経済学者は黒板の上で問題を解くことに満足するのではなく、現実の経済(市場)を研究する必要がある、との彼の持論を裏付ける格好ともなっている。

また、コースは1959年に執筆した論文で、連邦通信委員会(Federal Communications Commission)は不要だ、と主張した。電磁スペクトルは市場で自由に売り買いしたらよい、というのである。周波数が稀少だからといって周波数を特別視する理由は何もない。あらゆる経済財は稀少なのだから、という理屈である。このような見解は当時は馬鹿にされたものの、現在では経済学者の間でほぼ標準的な見解となっている。

コースは1964年から1982年にかけてJournal of Law and Economicsの編集者を務めたが、その間ジャーナルには政府による規制に批判的な論文が数多く掲載された。コース自身強調していることだが、政府による規制は機能し得ない*5というわけではなく、そのジャーナルに掲載された論文で検討されているほぼすべてのケースにおいて政府による規制は実際のところ機能していなかった*6のである。政府による規制はカルテルの形成やその他のネガティブな効果をもたらす格好となっていたのである。

コースは政府による規制に信頼を置く知識人に対して次のような指摘を行うことで彼らの多くを不快な気持ちにさせた。「仮にあなた方が暗黙のうちに想定しているように政府による規制が財の市場においてそれほどうまく機能するとすれば、政府による規制はアイデアの市場においてはなお一層うまく機能するに違いない」、と。

なぜか? 1997年にReason誌から受けたインタビュー*7で彼は次のように語っている。「消費者にとってはアイデアの善し悪しを判断するよりもモモの缶詰の(品質の)善し悪しを判断する方がおそらくは簡単でしょう。」 多くの知識人はコースのこの主張をアイデア市場における規制の強化を求めるもの*8と受け取ったようである。しかし、彼の意図するところはそうではなかった。コースの真意は、財の市場に対する政府の規制を支持する根拠が不十分である(弱い)ことを(政府による規制に無批判に信頼を置く)知識人に対して気付かせることにあったのである。

*1:訳注;具体的には、企業理論(や新制度学派経済学・取引費用経済学)のこと。この点については、Sandeep Baliga, “Ronald Coase”(Cheap Talk, September 3, 2013)を参照のこと。

*2:訳注;例えば、農家が牧場主に対して25ドルを支払うことと引き換えに、牧場主がこれ以上牛を飼わないことに同意した(+同意を取り付けるための交渉や同意の執行に一切コストがかからない(=取引費用がゼロである))場合、牧場主も農家もともに5ドルだけの便益を手にすることになる。牧場主は追加的な牛の飼育をあきらめることで20ドルのリターンを得る機会を逸することになるが、それと引き換えに農家から25ドルの支払いを受けることになるため、この取り決めから差し引きして5ドル(=25−20)の便益を得ることになる。一方で、農家は25ドルの支払いをコストとして負担することになるが、それと引き換えに30ドル分の農作物の被害を抑えることが可能となるために、この取り決めから差し引きして5ドル(=30−25)の便益を得ることになる。

*3:訳注:コースの論文「社会的費用の問題」の解説とその意義については、コース逝去の報を受けて書かれたものではないものの、個人的にはデイビッド・フリードマンの次の論説が優れていると感じた。興味がある向きはあわせて参照あれ。David Friedman, “The World According to Coase

*4:訳注;「黒板経済学」については、コース著『企業・市場・法』の冒頭に収録されている論文「企業、市場、そして法」やディアドラ・マクロスキー著『ノーベル賞経済学者の大罪』、himaginaryさんのブログエントリー「コース経済学こそ本来の経済学」(2011年1月15日)などを参照のこと。

*5:訳注;政府による規制を通じては問題をうまく解決することはできない

*6:訳注:問題の解決につながっていなかった

*7:訳注;インタビューの該当箇所はこちらのエントリーの(追々記)で拙訳を試みている。興味がある向きは参照あれ。

*8:訳注;言論の自由に対する政府の介入を是とするもの