世界経済の新皇帝

一つの時代=「the Greenspan era」(A.Blinder, R.Reis、“Understanding Greenspan Standard(pdf)”)が終焉しようとしている。1987年以来約18年間の長きにわたり(この間米国大統領の座はパパブッシュ→クリントン子ブッシュ、の3人が務めあげている)、FRB議長としてアメリカ経済の「繁栄の90年代」(ないしは「素晴らしい10年」 “Fabulous Decade”;A.ブラインダー/J.イェレン著『良い政策 悪い政策−1990年代アメリカの教訓』)を演出したグリーンスパンが明日2月1日をもって議長職を辞するのである。「マエストロ(名指揮者)」グリーンスパンの後を継ぎ、FRB議長として、また「世界経済の新皇帝」として新たな時代の幕を開くその男の名はベン・バーナンキ Ben Bernanke。マサチューセッツ工科大学で経済学博士号を取得後、スタンフォード大学プリンストン大学等で教鞭をとり、2002年にFRB理事、そして2005年には大統領経済諮問委員会(CEA)委員長に就任。アカデミックな世界だけでなく政策の現場でも精力的な活躍を続ける世界を代表する経済学者である。

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バーナンキとは一体何者なのか? 彼は何を考え、我々をどこへ連れて行こうとしているのか? 果たして彼に「世界経済の新皇帝」としての任が務まるのであろうか? これらの疑問に答えるべく、「バーナンキ経済学」の真髄を解き明かすために緊急出版(1カ月半(!!)という短時日で脱稿)されたのが田中秀臣『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』である。

バーナンキといえば「日銀はケチャップでも買え!」、「日銀幹部は一人を除いてジャンクだ!」という刺激的(挑発的?)な発言でよく知られているが、本書では経済学の初歩的な議論からはじめて「バーナンキ経済学」の二本柱「大恐慌研究」/「インフレターゲット研究」の内容を懇切丁寧に解説することで、これらの発言の背後にあるバーナンキの思考枠組みを明快に浮かび上がらせていく。何故デフレが生じるのか? 中央銀行インフレターゲットを設定することで期待される効果は何なのか? 日本経済がデフレ不況に陥ったのはどういった理由からであり、またこの停滞状況から脱するためにはいかなる政策を処方すべきであるのか? バーナンキの足取りを辿りながら、著者はこれらの問いに次々と説得的な回答を寄せていく。バーナンキを語り、理解することは、経済学を、そして現実の経済問題を語り、理解することでもあるのだ、ということを読後しみじみと感じ入った次第である。

バーナンキの研究活動―特に大恐慌研究・インフレターゲット研究―において一貫していることは、同じ過ちを繰り返さないためにも歴史から真摯に学びとる態度の重要性への認識である。大恐慌研究を通じてデフレの弊害・稚拙な金融政策の有害性を学んだ結果が日本銀行の政策運営に対する(過去の教訓を生かしていないものへの)激烈な批判へとつながっているわけであり、またインフレターゲットを設定することの必要性を認識するにいたったのも1970年代のGreat Inflationの経験からの一つの帰結である(「バーナンキは、この70年代のインフレ予想形成の失敗がいかに社会的コスト(失業)を生み出したかを説明し、今後このような失敗をしないためにも、経済主体の予想形成が金融政策の欠かせない要素になる―と力説している」(p182))。 バーナンキはその学究生活を通じて以下のグリーンスパンの言葉を長年にわたり実践してきたわけであり、前任者からFRB議長という(名目的な)ポストばかりではなく、その精神(スピリット)をもしっかと引き継いでいるわけである。

History teaches us that no matter how well intentioned economic policies and decisions may be, policymakers never can possess enough knowledge of the complexities of the economy nor sufficiently foresee changes in the economic environment to avoid error. But history can and does provide examples that can help guide policymakers away from repeating the worst mistakes of the past. Indeed, only through an understanding of historical precedents can we continue to improve our policies.(At a book reception for the publication of volume I of Allan Meltzer's History of the Federal Reserve

歴史をひもとけばわかるように、いかに政策や決定が善意に基づいていたとしても、政策担当者たちが経済の複雑さについて十分な知識を保有することはないし、経済の変化について十分に予見して誤りを避けることができるというわけでもない。けれども政策担当者たちは、歴史を学ぶことで、「過去の最悪の過ちを繰り返す」愚行を避ける手がかりを得ることができる。実際、歴史的先例に学んでこそはじめて、わたしたちは自分たちの政策を改善し続けることができるのだ(若田部昌澄著『経済学者たちの闘い』、p286より)

「おわりに」において著者は次のように語っている。

私のデフレ研究は、バーナンキの論文を最初に読んだ15年前に始まり、そしていま、本書を書き終えることで一山越えたように思える。15年にわたってバーナンキ経済学への関心を維持してきたわけだが、その理由の一つは、不幸なことだが日本がその間ずっと(そしていまもなお)大停滞を継続してきたからにほかならない。その意味で、これからも日本経済はまだまだ彼から豊かなアドバイスを汲み取ることができるだろう。(p213)

「失われた15年」なしには本書と出会う機会はもしかしたらなかったのかもしれない。その意味では「失われた15年」にも効用が存在したといえるのかもしれない。「失われた15年」が与えてくれたプレゼント。拍手をもって迎えてよいものか、まったくもって複雑な心境ではある。