最後のIS-LM論

IS-LM分析の生みの親として名高い(悪名高い?)ヒックス。彼がIS-LMを主題として論じたのは生涯で4回(私が知っている範囲内では)と意外と少ない。“Mr. Keynes and the Classics”/“The Classics again”(この二つの論文はともに『貨幣理論』(Critical Essays in Monetary Theory)に所収)、『景気循環論』第11・12章、そして“IS-LM -an Explanation(Journal of Post Keynesian Economics (Winter 1980-1))”。今回取り上げるのはヒックスによる最後のIS-LM論、“IS-LM -an Explanation”です。

The IS-LM diagram, which is widely, though not universally, accepted as a convenient synopsis of Keynesian theory, is a thing for which I cannot deny that I have some responsibility.・・・I have, however, not concealed that, as time has gone on, I have myself become dissatisfied with it.‘That diagram’, I said in 1975, ‘is now much less popular with me than I think it still is with many other people’.・・・But I have not explained the reasons for this change of opinion, of or attitude. Here I shall try to do so.(p318;論文集でのページ表記)         

IS-LMケインズ『一般理論』の本質を簡潔に要約したものとして広く受け入れられた(or現在でも受け入れられている)けれども、時が経つにつれますます私(Hicks)はIS-LMに不満足な感情を抱くようになってきた。他の人間にとっちゃ今でもIS-LMは(マクロ)経済問題を語る際には欠かせない貴重な道具立ての一つなんだろうけど・・・。これまでも機会を見つけてはあれこれIS-LMに対して文句をつけてきたけれども、今日はなぜ私がIS-LMに愛想を尽かすに至ったのかその理由を詳らかにしたいとこう考えるわけです。前置きはこれくらいにして早速始めましょうか。

『価値と資本』とケインズ『一般理論』(とそれを解釈したIS-LM)の違いはどこにあるか。IS-LM批判という文脈からは一見無関係に思われるこの問題設定のもとでヒックスはIS-LMの再解釈(再構築)(IS-LMワルラスモデルの違いを乗り越えようとする試み、とした方が適用か)に乗り出す。二者の経済モデルの間には二つの明らかな違いが存在する。まず一つ目は、前者は価格が伸縮的(flexprice model)であり(『価値と資本』は完全競争の仮定を採用しており、そのため完全雇用が実現される)、後者は価格が固定的(fixprice model)である(名目賃金が外生的に決定されており、非自発的失業が存在する)という点である(ヒックスにとっては昔(1936年当時)も今もこの違いはそれほど重大なものではないとのこと。“I may as well note・・・that I do not think it matters much. I did not think, even in 1936, that it mattered much.”)。二つ目の違い(fundamental difference)は、前者が超短期(ultara-short-period;「週」)のモデルであり、後者が短期(short-period)のモデルであるという点、つまりはモデルが扱う時間の長さ(length of the period)の相違に求めることができる(こちらの違いについてはまた別の機会に論じます)。

二者のモデルの違いをヨリ具体的に考察するために、A、B、C、X(ニュメレール)の4つの財が存在する経済を考えることにしよう(『価値と資本』第4・5章のモデル−交換経済の一般均衡モデル−の論理に則って考える)。

価格p(A)、p(B)、p(C)はニュメレールp(X)=1として評価づけられたものであり、財ABCの需要供給関数はこの3つの価格の関数である(例えばS(A)=S(p(A)、p(B)、p(C));予算制約下における効用最大化が背後に存在)。価格は3財の市場が均衡する水準(S(A)=D(A)、S(B)=D(B)、S(C)=D(C))に決定される(p(A)はS(A)=D(A)となる水準に調整される。以下同じ)。非ニュメレール財(ABC)の売りまたは買いはニュメレール財(X)の買いまたは売りを伴うので、

Xの需要−Xの供給=他の諸財の販売からの収入−他の諸財の購入への支出=〔p(A)S(A)+p(B)S(B)+p(C)S(C)〕−〔p(A)D(A)+p(B)D(B)+p(C)D(C)〕

となる(詳しくは『価値と資本?』p83〜86(私の手元にあるのは岩波現代叢書のバージョンです)を参照)。価格調整の結果として非ニュメレール財市場は需給が均衡しているのでXの超過需要は常にゼロとなる。よって、独立な方程式(非ニュメレール財の需給均等式)と未知数(非ニュメレール財の価格)の数は一致(3つ)しており解は確定する。

ここまでの説明は価格が伸縮的であるワルラス的な経済世界(flexprice model)を前提したものである。価格が固定的であると仮定した時、一体ワルラスモデルはどのような変化を被ることになるだろうか。

p(A)が固定的である時(p(A)=p*(A))、もはやD(A)=S(A)が満たされる必然性はない。A財の価格がp*(A)で固定されている時、D(A)>S(A)あるいはD(A)<S(A)となり実際に取引される量はヨリ小さい数量である。p*(A)水準でD’(A)<S(A)となる、つまりは超過供給が存在する時には実際の取引量は需要量D’(A)となる。Xの超過需要方程式においてS(A)、D(A)に実際に取引された量D’(A)を代入すると(S(A)=D(A)=D’(A))、p*(A){S(A)-D(A)}=0となる。よって、この経済体系において伸縮的な価格p(B)、p(C)は以下の3つの方程式の解として求めることができる。

S(B)=D(B)

S(C)=D(C)

p(B){S(B)−D(B)}+p(C){S(C)−D(C)}=0

独立な方程式は二つ、未知数も二つ(p(B)、p(C)はそれぞれの財市場の需給を均衡させるように調節される)。よって解の存在が保証される。めでたしめでたし。・・・とするにはまだ不十分である。未知数がもう一つ存在するからである。未知数=D’(A)である。

We have so far been making demands and supplies depend only on prices,・・・But as soon as a fixprice market is introduced, it ceases to be acceptable. It must be supposed that the demands and supplies for B and C will be affected by what happens in the market for A.That can no longer be represented by the price, so it must be represented by the quantity sold.・・・So demands and supplies for B and C will be function of p(B), p(C) and D’(A).(p322)

各財市場の需給状況は他市場の変数の変化から影響を受ける。p(B)の価格上昇はB財市場だけでなくA財市場にもC財市場にも影響を及ぼす。それゆえ、伸縮価格経済であるワルラスモデルにおいてS(A)=S(p(A)、p(B)、p(C))となるのである。ワルラスが経済学史上にその名を残すことになったのは、経済が全体として相互依存の関係にあることを発見し、それを定式化した功績からであることは改めていうまでもないだろう。価格が固定的な財が考慮に入れられるや変数はp(B)、p(C)、D’(A)となり、各財の需給関数は例えばS(B or C)=S(p(B)、p(C)、D’(A))というように、価格のみならず数量の関数ともなる(D’(A)はp(B)、p(C)の関数)。
本経済体系は、

D’(A)=D(p(B)、p(C))

S(B)=D(B)

S(C)=D(C)

p(B){S(B)−D(B)}+p(C){S(C)−D(C)}=0

の4つの方程式(独立な方程式は3つ)によって定式化されることになる。未知数はp(B)、p(C)、D’(A)の3つなので解は確定する。

欲張ってもう一つ固定価格の財を導入すると(p(B)=p*(B))、未知数はD’(A)、D’(B)、p(C)の3つとなる(p(C)はC財市場の需給を均衡させる水準に決定される;AB両財市場で超過供給が存在する時)。任意のp(C)水準において(擬制的に固定させると)、D’(A)はD’(B)の、D’(B)はD’(A)の関数となり、縦軸にD’(A)を、横軸にD’(B)をとった二次元の図上に傾きの異なる右上がりの二つの曲線D’(A)=D’(D’(B))とD’(B)=D’(D’(A))が描かれることになる(『価値と資本』p97やp101の図の縦軸と横軸の表記をともに価格から数量に変える)。二曲線の接するところで経済は全体として均衡に至る。

二つの固定価格市場と一つの伸縮価格市場(ニュメレール財としてもう一つ)。このモデルは実はケインズのモデル(IS−LM+労働市場)を定式化したものと読み替えることが可能である。IS−LMは最終財市場、債券市場、貨幣市場の3つの財市場から構成されており、これに労働市場を加えると全部で財市場は4つになる。最終財をA財市場、労働市場をB財市場、債券市場をC財市場、貨幣市場をX財市場と考えれば、・・・面白い展開である。最終財需要(有効需要)は労働需要量に依存し、労働需要量は最終財需要に依存することになる・・・。

さて。問題はなぜ最終財(A財)の価格と名目賃金(B財の価格)が固定的となるか、である。一応ヒックスはその答えを持っている(最終財価格が固定的になる理由についてはこちらに簡単な説明が。また、伸縮的過ぎる賃金変化は社会の公正観念に合致しないため容認されない(『ケインズ経済学の危機』第3章などを参照))。固定価格市場と伸縮価格市場(債券市場はヒックスの言葉では「組織化された伸縮価格市場」である)をともに含みこんだこの再定式化されたIS−LM(+労働市場)は、単にIS−LMをワルラス一般均衡モデルによって基礎付けたというにとどまらず、ヒックスの市場構造認識(固定価格/伸縮価格)を十全に汲み取ったモデルであるとも言いうるわけである。