IS-LMの使用法
根井雅弘著『「ケインズ革命」の群像』ではIS-LMに対する2つの批判(IS-LMがケインズの重要な側面を捨象している点を問題視するもの)が取り上げられている。第一はパシネッティによるもので、IS-LMでは変数間の関係が相互依存的なものとして捉えられており、変数間の因果関係の吟味といった(ケインズが本来有していたはずの)視角が忘却されてしまっているという批判である。IS-LMでは所得(Y)と利子率(i)がIS曲線とLM曲線が接する点で同時決定される。変数間の依存関係は視野に入っているけれども因果関係ははっきりしない。本来ケインズは流動性選好が原因となって所得や雇用量が規定されるという明確な因果の連鎖(「原因から結果へと因果順序がはっきりしている型」としてのケインズ体系)を想定していたはずである。つまりは、流動性選好によって利子率が決定される→資本の限界効率と利子率比較により設備投資量が決定される→総需要量/雇用量の決定、というように。
「ケインズは、限界主義的経済理論家に広くみられる、『すべてのものは他のすべてのものに依存している』とする姿勢に反対し、どの変数同士が、連立方程式体系で表わすのが最も適切であると判断されるほど互いに十分緊密に相互依存しているか、そして、互いに相互依存関係にある二つの変数の間でも、どちらの方向の因果関係が圧倒的に強いか(そしてどちらの方向の因果関係がずっと弱いか)ということの識別に基づいて、どの一方方向の因果関係だけを定式化することが最も適切であるかということを確定することが、経済理論家としての自分の任務である、と考えるのである」(パシネッティ『経済成長と所得分配』、p50)(根井、p140からの孫引き)
第二の批判はシャックルによるものである。「失業の理論は、現実の人間の状況につきまとう不確実な期待や冒険的な意思決定(シャックルは、これを‘enterprise’と呼ぶ)を取り扱わなければならないという意味で、必然的に無秩序の理論となる」のであり、「『一般理論』の核心は、それが「無秩序の経済学」(Economics of Disorder)を理論化したもの」であるはずにもかかわらず、IS-LMでは「‘enterprise’が占めるべき正当な場所が全くない」(根井、p136)。「‘enterprise’とはリスクであり、リスクとは無知なのに対して、均衡とは無知の事実上の追放」を意味するわけで、均衡という枠組みに基礎付けられたIS-LMは「無知の事実上の追放」の上に成り立っていることになる。簡単に言えば将来の不確実性(とそれ故の期待の不確定性)を無視したIS-LMの罪を咎めているわけです。
第二の批判に関して(シャックルに直接返答するというかたちをとっているわけではないが)ヒックスは面白いことを語っている。
The relation which is expressed in the IS curve is a flow relation, which・・・must refer to a period, such as the year・・・. But the relation expressed in the LM curve is, or should be, a stock relation, a balance-sheet relation. It must therefore refer to a point of time, not to a period. How are the two to be fitted together? (“IS-LM−an Explanation”、p328)
IS関係は貯蓄-投資の均等化というフロー均衡(関係)を記述しており、LM関係は貨幣(債券)需給の均等化というストック均衡(関係)を記述している。フロー(期間)とストック(時点)という異なる時間の次元に属しているものを同時に取り扱うためにはどうしたらよいだろうか? 一つの解決策はLM関係をIS関係に適合させる、つまりは期間にわたる(あるいは期間を通じた)ストック均衡(ある一時点においてストック均衡が実現されているというにとどまらずフロー均衡(I=S)が実現されている期間の間においても同時にストック均衡が実現されている(ストック均衡が維持されている maintenance of stock equilibrium))という概念を持ち込むことである。
わたくしは前に、時間をつうじての均衡はストック均衡の持続を必要とすると述べた。これはたんに期首と期末においてストック均衡があるばかりでなく、またその期の進行中も引きつづきストック均衡があるという意味に解釈してよいであろう。たとえばわれわれが「長」期を「短」期の系列と考えるとき、この「長」期は、それに含まれるそれぞれの「短」期が時間をつうじての均衡にある場合のみ、同時に時間をつうじての均衡にあるのである。予想は相互に抵触しないものと考えられているから、ある「短」期とつぎのそれとのつなぎ目で予想の改訂が行われることはない。体系はこれらのつなぎ目のどれにおいてもストック均衡にあり、またこれらの相抵触しない予想に関してもストック均衡にある。これは予想―その「長」期のなかで生じてくる需要に関する―が正しい場合のみ可能である。時間をつうじての均衡は、このようにその期間内の予想の、現実との一致を必要条件としており、任意であってよいのは一そう遠い将来に関する予想だけである。(『資本と成長?』、p166〜167)
時間(期間)を通じてのストック均衡が維持されるのは予想(期待)と現実の食い違い(期待の錯誤)がない場合のみである。同じ時間軸上でISとLMがそれぞれ均衡にあると想定するためには、期待が確実に実現するという非現実的な仮定を必要とする。そもそもLiquidity(流動性;LMの“L”)の存在理由は将来の不確実性にあるのではないか。将来に関する期待が不確実であり物事が期待通りにすすまない(期待が現実に裏切られる)からこそ流動性が保有されるのではなかったか。IS-LMを厳密な形で定式化する(時間の次元を揃える)こと(時間を通じてのストック均衡の維持を想定すること)は将来の不確実性を無視することと同値なのである。
ヒックスのこの議論はシャックルの批判に対する完全な敗北を認めることになるのだろうか。将来の不確実性を取り扱えない(取り扱おうとしない)IS-LMには何らの価値も存在しないということになるのだろうか。答えは使用法に依存してYesともNoともなりうる。将来を予測するためではなく過去を説明するためであればIS-LMは依然として有用である。使い方さえ間違えなければ(将来予測のために利用するという欲さえ持たなければ)、IS-LMは今後も十分価値あるモデルとして生き続けていくことができる。
When one turns to questions of policy, looking towards the future instead of the past, the use of equilibrium methods is still more suspect. For one cannot prescribe policy without considering at least the possibility that policy may be changed. There can be no change of policy if everything is to go on as expected-if the economy is to remain in what (however approximately) may be regarded as its existing equilibrium. It may be hoped that, after the change in policy, the economy will somehow, at some time in the future, settle into what may be regarded, in the same sense, as a new equilibrium; but there must necessarily be a stage before that equilibrium is reached.(“IS-LM〜”、p331)
政策変更がどういった影響を及ぼすのかということを考察することは将来の経済状況を予測することである。政策の変更は将来の経済環境に対する経済主体の認識を変化させ、期待の有り様を変容させる(結果として政策実施前後で行動も変化する)。新たな期待形成の元で新しい均衡がやがては実現するけれども、政策変更前の古い均衡からその新しい均衡に到達するまでには調整過程を要する。ある長さを持った期間(period)において均衡が実現されると考えるIS-LMではその調整過程を説明できない。時間を通じたストック均衡(LM均衡)が維持されるためにはある期間(period)において期待の改訂が行われないと想定する必要があり、IS-LMを用いて政策変更の将来効果を説明することは政策変更が経済主体の期待形成に何らの影響を及ぼさないと見なすことを意味することになる。モデル形成(現実の抽象化)の過程で現実のある側面を捨象することは致し方ない面があるけれども、政策変更による期待の変容あるいは将来の不確実性に基づく期待形成の改訂の可能性を無視することが妥当な抽象化といえるかどうか。将来の不確実性(政策変更も含めて)に直面している現実経済において各経済主体は将来に対する期待を形成し、それに基づいて意思決定を行っているわけであり、現実経済の今後の展開を予測する上で期待に基づく意思決定(加えて期待形成の変更の可能性)を無視すること(未知の将来をモデル内に組み込まないこと)は致命的な欠陥と言えるのではないだろうか。
期待の改訂が行われるのは将来が未知であり、(事前に)何が起こるか完全には予測できないからである。これから起こることを予測するためには将来環境(に関する認識)の変化による期待の改訂の可能性を無視することはできないないが、すでに起こってしまったことを説明するためには期待改訂の可能性を考慮する必要はない。予測すべき将来が過去のものとなっておりすでに意思決定は済んでいるからである。既に起こってしまったことに関して期待の改訂が行われるはずはない。
We have, then, facts before us; we know or can find out what・・・did actually happen in some past year. In order to explain what happened, we must confront these facts with what we think would have happened if something (some alleged cause) had been different. About that, since it did not happen, we can have no factual information; we can only deduce it with the aid of a thory, or model. And since the theory is to tell us what would have happened, the variables in the model must be determined. And that would seem to mean that the model, in some sense, must be in equilibrium.(同上、p327)
IS-LMの交点(均衡所得/利子率)は過去(のある年)に実際に起こったことを示している。IS曲線の中でLM曲線と交差する点のみが実際に起こったことであり、LM曲線との交点以外のIS曲線上の点は利子率が現実とは違う水準にあったならばどうなっていただろうかということを理論的に推測したものである。現実には起こっていないのであるから、均衡利子率水準以外のIS曲線上の点が(それぞれの利子率水準における)フロー均衡を正確に描写しているかどうかは知り得ないけれども、あたかも均衡にあったかのように取り扱うとしても過去を説明するという目的からすれば許される単純化であろう(It is sufficient to treat the economy, as it actually was in the year question, as if it were in equilibrium.・・・it is permissible to regard the departures from equilibrium, which we admit to have existed, as being random.)。
過去を説明するため、過去において実際とは違う状況であったらどうなっていただろうかという思考実験のため、にその使用を限定するならばIS-LMもまだまだ捨てたものではないということです。将来の不確実性を取り扱っていないという批判はIS-LMに対する過剰な期待の裏返しともいえるもので、IS-LMは過去(加えて可能性としての過去)を描写するものと禁欲的に考えればよいのではないでしょうか。
We are to confine attention to the problem of explaining the past, a less exacting application than prediction of what will happen or prescription of what should happen, but surely one that comes first. If we are unable to explain the past, what right have to attempt to predict the future? I find that concentration on explanation of the past is quite illuminating.(同上、p327)
過去を説明することしかできないからといって落胆する必要はない。過去を説明することができずにどうして将来を予測することなどできようものか(将来を予測しようなどと大それたことを言えるものか)。経済のメカニズムについての知識を蓄積し、もって将来予測の手助けとするためにも過去を説明する手段(モデル)の存在は大変貴重なものなのである。
『資本と成長』のリンク先を探してたら見つけた(『資本と成長』はAmazonでもbk1でも紀伊國屋でも「現在取り扱いしておりません」だと)。相変わらず勉強になるな〜。