プチ・西部翁ブーム

すべてはここから始まった。

あとこちらの書籍はイプシロン出版から刊行されていますが、この出版社から再刊された西部邁氏の「ケインズ」(再刊済)、「ソシオエコノミックス」(近刊)も興味深いですね。大学の時に訳も分からない状態で読んでいたのですが、再読するとまた感想も違ったものになるのかなと思っています。

余談ですが、西部氏の「大衆への反逆」、「サンチョキホーテの眼」、「批評する精神」とかは懐かしいなぁ〜。熱に魘されるように読んでましたね。経済学批判全開の思潮が流行っていた時でしたが、自分の中では経済学批判の中で経済学を勉強するという矛盾した状況というのを楽しんでいたような気がします。(日々一考米倉茂氏「落日の肖像−ケインズ−」)

econ-economeさんと不肖hicksianの西部翁を巡るやり取り(懐古話か?)は某mixiに舞台を移してその後も続行。本棚に眠る西部本を漁り出すecon-economeさんと不肖hicksian。西部翁の自伝・回想は面白い、との意見で一致をみる。「近年の西部翁の書かれたものは個人的にあまり読む気がしないのですが、『友情』は名著だと思います。」との梶ピエール先生の言葉に『友情 ある半チョッパリとの四十五年』購入の決意を固めるhicksian(『友情』買おうかな、と話を振ったのは不肖hicksian)。『ソシオ・エコノミックス』を廉価で購入できてほくほく顔のhicksian。大枚(=福沢諭吉先生一枚)を投じて西部本の大人買いに乗り出したecon-economeさんは、その後怒濤の如く押し寄せた大量の西部本の置き場に頭を悩ませることになる。プチ・西部ブームはこのあたりで打ち止め・・・になるはずであった。

実は韓リフ先生も『ソシオ・エコノミックス』を購入し直されたばかり(稲葉振一郎先生らの新刊『マルクスの使いみち』の参考文献に『ソシオ・エコノミックス』が挙げられていたことも購入の契機となった模様)。以後、韓リフ先生と梶ピエール先生、econ-economeさんとの間で西部翁を巡っての(西部翁を取っ掛かりとして、とした方が適当か)濃密なコメントのやり取りが展開される。舞台は不肖hicksianのmixi日記コメント欄(敬称は略)。

西部邁『ソシオ・エコノミックス』について。西部邁高田保馬の類似性について語られる。高田―西部(―村上泰亮)ラインの限界(平成不況の原因の取り違い=結果を原因と誤認する傾向)についても論じられている。

韓流好きなリフレ派  いま『ソシオ』を読んだけど、やはり誰でも時代の申し子でその一結晶みたいな本ですね。先に西部オリジナルかというとそうではなく、本人が意識しているいないにかかわらず、明白に高田保馬の勢力理論でしょう。そしてこの高田ー森嶋というラインの存在も西部とは切り離して認知しておく必要があると思います。『ソシオ』の議論の社会ー経済学的核心は、労働、資本、消費それぞれの固定性にあると思えます。そして労働と資本の固定性が相互依存関係(補完性)をみたしていることも指摘されています。この固定性自体は消費の固定性をみれば明白なように個人と共同体の間でイメージの分裂が起きる可能性が示されていて、それを統合する可能性として経済政策に役割が振られています。こういった労働、資本、消費そして相互の補完関係で戦前の長期持続停滞を説明したのが高田の勢力理論です。これについてはすでに僕も10年前に論文を書いたのでよくわかる議論です(引用者;田中先生の高田保馬論についてはこちら(Economics Lovers Live公平賃金仮説リターンズ)も参考になるかと)。で、こういった共同体的利益と個・社会のイメージの分裂と統一という観点から経済論を敷衍したものは、当時は奥村宏の法人資本主義(これに対する森嶋の大シンパシーを忘れないように)、野口・榊原w論文、そしてなによりも村上泰亮の新中間大衆論、そしてやがてこれらの総合的な体系としての村上反古典派経済学=開発主義経済学、そして小室『危機の構造』などがすべて系脈としてでてきますね。

で、簡単にいうと資本の固定性というのは西部の理解ではほぼザモデル案のベース(不良債権処理の正当化としてのb.F2.4節、歪曲された構造改革www)でしかないわけで、あとの労働の固定性、消費の固定性(こちらは現代版は松原?w)などで今日の長期停滞を説明はできない、せいぜいすべて補助要因や偽装された原因(実は真因がもたらした結果)である、というのがリフレ派の説明ですね。この種の問題へのリフレ派の核心は、もちろんクルーグマンでもいいわけですが、よりわかりやすい形では『論争日本の経済危機』の岡田・飯田論説のどうみてみ岡田さんの書いたところwに明白に書かれています。

僕も偉そうに書いているけれども現状のリフレ派的な見地からすれば、例えば『日本型サラリーマン』の時代はやはり高田理論がベースで、でもそれでは解決できない問題があるそれでインタゲを出す、といういささか分裂気味な議論をあそこではまだ展開してまして、それが自分なりに方向性を自覚できるようになったのは、昭和恐慌研究会での議論を通してすこしづつでるかね。その意味で、西部氏の理論は個人的にはよくわかります。でもこの議論は行き止まりです。長期持続停滞を結局は説明できないもの。上のすべての固定性は長期停滞のメカニズムの前には擬似的不均衡にすぎないから。

「制度」を語る経済学者の「金融政策」を語らぬ傾向。その理由は?

梶ピエール  ↑いやあ、大変興味深いです。このテーマで一冊の本になりそうですね。個人的には西部ー村上ラインと都留重人のようなマルクス主義的な制度派経済学の関わりも気になるところです。それにしても、英米の経済学者はヒックスやスティグリッツのように「制度」を重視する議論をしながら金融政策のエキスパートでもあるという学者が珍しくないのに、日本で「制度」を語る学者というとここにあがった名前以外に青木昌彦といい、金子勝といい、どうしてそろいもそろって金融政策をスルーしちゃうのでしょうか?

韓流好きなリフレ派  梶ピエールさん、実はこれが今度の本(今度っても本当に今度かなあw)のテーマです、ネタあまりもってないのでつかいまわし(^^;。
西部ー村上ラインとブログの方でとりあげた都留たちの制度学派も当然に考えております(引用者;田中秀臣の「ノーガード経済論戦」都留重人氏とは誰だったのか都留重人氏とは誰だったのかⅡ)。金融政策スルーはやはり日銀(一昔前は大蔵日銀)の経済政策の基本理念が真正手形割引説 爆にしかすぎなかった時代がず〜っと継続し、また政府の経済政策理念で一番体系化していたのが産業政策であったり、あとは大蔵省の実弾=角栄政治 だったわけで、政策の中で裁量にせよルール型にせよ金融政策が日本の政治経済の経済政策体系の中で歪んだあり方をとりつづけてきたことがあるのかもしれません。

梶ピエール  なるほど。制度派だけにwそのへんの「経路依存効果」による説明が説得的かも知れませんね。金融政策軽視という「罠にはまった」のは左翼だけではないと。

econ-econome  >金融政策が経済政策の中で歪んだ云々
よく分からないのですが、こちらは過去日銀の金融政策が為替レート管理のような体裁をとっていたことも関係してるのでしょうか? 

韓流好きなリフレ派  変動為替相場制移行後を考えるとやはり日銀の真正割引手形学説的金融政策=受動的金融政策は経済の不安定化に貢献してきたといえると思います。で、受動的すぎてw金融政策の重要性を認知した人というのは目立った事件(石油ショックなど)をみてもほとんどおらず、だいたいは日本型システム=構造的対応の勝利(石油ショックであれば労使協調でコストプッシュ型インフレを抑制とか)に軍配をあげてきて、この軍配の当否自体に関心がいくというのがいままでの論壇の論調ではないでしょうか。むしろ真のプレイやーは他にいるのに。とはいえ最近は金融政策についても注目はかなり集まってますよね。 

梶ピエール  ・・・ただ、後者(一般に「新制度学派」と区別して「現代制度学派」と言ったりしますが)においてもホジソンなんかはケインズ的なマクロ経済学との関わりが結構深いので(http://reflation.bblog.jp/entry/266635/参照。未読だがミンスキーなんかも同じような感じでは?)、どうも「制度」的要因を重視する論者がマクロ問題、特に金融政策一般に冷たい、というのは日本特殊な現象ではないかと思えてきました。上の田中先生のコメントを呼んでその思いはますます強くなりつつあります。

僕などはマクロ政策の重要性が相対的に低い(と思われている)国の経済をずっとやってきたのでもともと制度分析に対する関心は高いのですが、こういう「制度・構造好き」=「マクロ・金融政策嫌い」というこれまで日本の経済学界にみられた「疑似的」対立の構図はやはり問題だなと思うようになりました。というわけで個人的には田中先生の次回作を大変楽しみにさせていただきたいと思います。 

梶ピエール  あと例えばカール・ポランニーの経済人類学というと日本では栗本慎一郎などがもちあげたこともあって「反経済学」の代表みたいになってしまいましたが、ポランニーの『大転換』のペーパーバック版の序文は実はスティグリッツが書いているんですよね。これなんかも象徴的な事例ではないでしょうか。 

韓流好きなリフレ派  アメリカ制度学派の例えばコモンズなんか金融政策中心のリフレを大恐慌のときに率先して主張しましたし、制度学派vsリフレ派という構図にはほど遠いでしょうね。ワルラスの時代でいえば確かに梶谷さんの指摘の通りですが、もともと土木事業の官吏養成の技術のひとつとして経済学はフランスで発生してますんでもうその段階でばら撒き行政=リフレの手先です。ま、これはもちろん冗談いれてますがw
ホジソンはそうですね、それを訳した日本の方々は八木さん含めてアンチリフレですけどw ちなみに八木さんと共著がある僕ってww
ミンスキーはこれは藪下さんと読んだことがありますが、そのときは「ミンスキーのいってることはトービンがすでにきれいに説明している」終りみたいなw。それとついでにアナリティカルマルクス主義的な系譜にも近いダンカン・フォーリーという人がいるのですがこの人のグッドウィン流の非線形動学モデルのデフレ版がありますが、これも「そんな陳腐なモデルの説明まだしたい、ジー」と見つめられてこれまた終りみたいなw
考えてみるといろんな経済学者に手を出しては喜怒哀楽を体験してきたもんですw 

「制度」を語る経済学者は「金融政策」を語らない、というわけではなくて、「制度」を語る日本の経済学者は「金融政策」を語らない、ということのようですね。「日銀理論」が「制度」を語りつつも「金融政策」を語らぬ日本の経済学者を育んだ・・・。

現在も議論進行中の模様?ですので途中報告ということで。続報を待て!!