プチ・西部翁ブーム<続報>

続報ですよ。ただ乗り企画第二弾ですよ。韓リフ先生、梶ピエール先生、econ-economeさん諸氏の心温まるご協力(?)に感謝でありますm()m。

不肖hicksianのmixi日記より。

『経済倫理学序説』 読みました。観念と事実の、ミュートスとロゴスの、日常(=パン)と非日常(=サーカスあるいは遊び)の、自由と計画の、エトセトラエトセトラ・・・一見すると背反する価値の間に平衡を保つ(単に折衷するというのではなくて)ことの必要性(あるいはその困難なさま)がケインズとウェブレンの著作・生涯を参照しつつ論じたてられております。読み進めている途上で間宮陽介著『ケインズハイエク』を思い出しましたね〜。ヤコブソンの言語障害の議論は確か『大衆への反逆』に所収されてましたよね。これも読んでおこうっと。

興味深く読んだ部分を少しだけまとめ。ハーヴェイロードの既定観念(=イギリス帝国の安定を所与の前提と考えること、知的貴族の説得と指導の必要性の認識)がケインズをとらえて放さなかった諸要因について。

1.ケインズの個人的な気質としてのエリート意識

2.“上流階級の社会主義”に多少とも染まっていたため(=社会的公正を追及する態度が備わっていた=公共善の実現のために奔走することを当然のことと考えていた)

「単なるエリート意識だけではケインズにおけるような賢人支配の傾きは出てこない。エリート意識は孤高の隠遁者という形においても満たされうるからである。公共善もしくは共同善の存在をナイーブに肯定する態度がつけ加ったとき、エリート意識は指導者意識に転化する」(p55)

3.活動主義の思想

以下、上掲の内容のない日記とはうってかわって怒濤の、かつ濃密なコメントの嵐(若干1名除く)。前回以上に責任無編集な姿勢(=責任を持って可能な限りコメントに手を加えない姿勢)を貫きたいと思います。

田中版西部理論が産声をあげる。

韓流好きなリフレ派  ケインズ』と『知性の構造』を読了w ←このwは何?。
生きるとは意味の葛藤、価値の葛藤という異なれる二項の葛藤の「平衡」と見つけたり、だそうです。
「平衡」としての「慣習」。「慣習」の中には正気も狂気も、そして合理も非合理な要素もあるがそれらを「平衡」しているのがまさに「慣習」たるゆえん。ケインズの経済学の一番面白いところと西部が思っているのは、ケインズからの次の引用ではないでしょうか。

完全雇用を備えるのに十分なほどの高水準の有効需要を維持するに当たっての諸困難は、慣習的でかなり安定的な長期利子率が気まぐれで高度に不安定な資本の限界効率と結びとくことから生じる、このことは読者にはいまや明白なはずである」。

資本の限界効率へのマイナスのショックは不確実性ゆえで、このような不確実性への対処として慣習が存在するゆえに、不確実性を「慣習化」(これは田中の表現ね)してしまうことに有効需要不足の長期的持続の根源がある、といえる。もちろんこのような不確実性への「慣習」の対応は社会をさらなる不確実性に招くために「慣習」自体の「平衡」作用は著しく損なわれてしまう。だが「慣習」自体がそもそも西部にあっては社会の合理的側面と非合理的側面の「綱渡り」的な性格を有するためにそのような事態が起きても不思議ではない。そのような「慣習」の非平衡化を防ぐために、ケインズは投資と貯蓄の社会的調整=つまりは「慣習」の政策的平衡化を説いたとみなされるだろう。
例えば『知の構造』ではこのケインズ解釈とは違う局面(精神の局面)で、次のように平衡化が説かれている。

「漸進主義とは、深刻な心理的葛藤に直面したとき、それらを平衡あるいは総合させるべく慎重な態度をとることから必然的に要請されるものだ」。

コンサバで日和見 違)。つまりケインズの貯蓄と投資の社会的調整を精神の場でも漸進主義(葛藤の調整)として表現しているわけである。ケインズ主義が漸進主義ともいわれる所以ともいえるかもしれない。 

韓流好きなリフレ派  つまり西部の『ケインズ』が面白いのは、不確実性による資本の限界効率へのマイナスのショック が、「慣習」を通じて長期利子率に反映されて、(西部は書いていないが)流動性の罠に陥るような有効需要の長期持続の可能性を暗示しえたこと。
この「慣習」として西部はもちろん「貨幣」をとりあげているわけで、不確実性ショックが貨幣という「慣習」によって調整され、それが社会そのものの平衡をかえってあやうくするような形として再「慣習」化されてしまう(つまり貨幣バブル=デフレの長期持続)。この貨幣バブルを平衡化させるには、政策的で漸進的な調整が必要である、というふうに西部理論を田中風に解釈できる。
さらに付け加えるならばそのような政府の貨幣バブルを正す再平衡化はファインチューニングともいえ、さらに市場の「慣習」と交渉・コミュニケーションをしながら平衡化への改善を図るという意味では、現在のインタゲも田中版西部理論(笑)も有効性を主張できるだろう。
流動性の罠の脱出や中銀の金融政策全般における市場とのコミュニケーション(市場とともに慣習を漸進的に形成すること)の有効性を説いた専門論文としては以下を参照。

Central-Bank Communication and Policy Effectiveness(pdf)” [Publication draft of paper presented at FRB Kansas City Symposium on “The Greenspan Era: Lessons for the Future,” Jackson Hole, Wyoming, August 25-27, 2005]

岩井克人先生(第3弾のもう一人の主役?)の登場です(ヒックスもちょっとだけ顔を出します)。

econ-econome  西部理論の核は動態的側面に内在する不確実性のリスクを克服する要素としての「慣習」の必要性、相互の信頼関係の醸成の必要性の主張ですよね。彼に倣って述べれば「生者の資本主義」ではなく「死者の資本主義」、そして過去の歴史から得られる反省からもっと学ぶべきかもしれません。

岩井克人氏の「21世紀の資本主義論」でも、貨幣の持つ不安定性、国際化による「差異」の消失が市場経済の不安定要因となりうる事などが述べられていて、西部理論が浮かび上がらせる「貨幣の不安定さ」の認識は同一だと感じました。ただ、岩井氏の場合はそこからハイパーインフレの危険性に話が飛んでいく訳ですがw

岩井理論に基づけば、基軸通貨国である米国の貨幣に対する信認が失われる事(ハイパーインフレ)こそ危機だと書かれていますが、現状は安心といった所でしょうか。

韓流好きなリフレ派  岩井氏の『不均衡動学の理論』というのがありますが、あれは何度挑戦しても途中で根負けしてしまうのでこれを機会に読もうかしら。
西部はあと知識人論をいくつか読もうかと思います。例の東大教養学部騒動に関連して、村上泰亮なんかも書いてますよね。 

hicksian  前回は完全なる傍観者でしたので今回はちょっとだけでも(自らの非力を省みずに)発言者として参加いたしたい所存。まずは引用(『経済倫理学序説』より)。

ケインズはこうした事柄(いくつかの経済変数に硬直性あるいは粘着性があるということ;引用者)を、市場のマージナルな機能障害として捉えたのではなく、むしろ市場機構の存立条件とみなしたのだ、と私は思う。換言すれば、経済の秩序は、それを取巻く社会心理や社会制度の慣習的な安定性によって、保たれるということである。」(p78)

経済外的な要因(=貨幣賃金の硬直性)によってこそ貨幣経済はその不安定性(累積的インフレ・デフレ)から救われるのである、との岩井不均衡動学論の主張と似てなくもない。しかしながら、先の引用のすぐあとで

「この秩序は、しかし、根本的な矛盾をはらんだままの秩序である。なぜなら、社会の慣習的な圧力によって市場価格の変動域がせばめられれば、需給一致の均衡価格が成立しないかもしれない。たとえば、賃金が硬直的なら失業が発生するかもしれない。反対に、均衡価格が易々と成立するとすれば、それは社会の慣習が弱まったことの結果なのかもしれない。・・・社会的慣習と経済的競争のあいだには、互いを異物として排除し合う可能性があるのである。」(p78〜79)

と述べられているわけですが。

西部翁の小泉構造改革路線への反発は、構造改革(西部的に言うとアメリカ流の個人的自由主義と技術的合理主義を推し進めることを目的とした徹底的な規制緩和路線)は慣習の非平衡化を促進するものであるとの認識からきているのでしょうかね。

「クリエイティブ・デストラクション(創造的破壊)の概念はあきらかに誤用されている。その概念は、破壊のなかから創造が生まれる、というバクーニンもどきのことをいっているのではない。新たな創造への活力というものが人々のうちにまずあって、その創造的活力が具体的に発揮されることにより、古い制度が破壊されていく、それが創造的破壊ということなのだ。それにもかかわらず、たとえば我が国の「失われた90年代」では、まず旧弊を破壊せよ、そうすれば新規の創造が生まれると囃されている。」(『保守思想のための39章』(手元にある西部翁コレクションの中で一番新しい本です)、p175)

econ-econome  恐れをしらずにコメントをw
ふむふむ・・西部理論は社会的慣習と経済的競争の間の関係を異物として排除しあうものではないか、という認識なのですね。経済的効率性を追求すればそれは慣習が弱まっている事を示唆しているかもしれない・・と。

経済的競争と社会的慣習との力関係の度合いによって成立する均衡(不均衡)をどのように評価すればよいのかといった話を考えていくと、中々興味深いですね。新古典派総合っぽい話になるんでしょうか。もしくは田中先生が先にコメントされた経済政策の話に繋がっていくんでしょうかね。

韓流好きなリフレ派  外的なショックに対して、岩井氏のようにうまく社会的慣習がショックを吸収して社会の平衡化をもたらす場合もあれば、ケインズや西部氏の指摘したように短期的なショックへの社会的慣習の対応そのものがかえって非平衡化をもたらすということもあるのでしょう。

西部氏の議論を読んでいると奇しくも 笑 私が去年(構想したのはもう10年前)、経済学史学会という物好きな(でも面白い)学会で報告した三木清笠信太郎の議論に極めて似ているな、と思いました。

自作自演のようですがw以下がそのときのファイルです。
http://society.cpm.ehime-u.ac.jp/shet/conference/69th/69paper/226tanaka.PDF

この論説の4ページ目の図表1の解説にもなりますが、このレジュメの「制度」は上の西部の議論を流用して「資本の限界効率へのマイナスのショック」と読み替えて、「組織」は「社会的慣習」と読み替えてみます。三木では「組織」(西部の「社会的慣習」)は、合理的なものと非合理的なものの統一、またはロゴスとパトスの統一として表れています。西部的な二項対立の坩堝としてあるわけです。で、資本の限界効率へのマイナスのショックという環境に応じて、この「組織」=「社会的慣習」は適応していくわけですが、上の岩井と西部の比較のように成功すれば「成果」をあげるのですが、失敗すれば「不安の増産」をもたらします。この場合、この成否は人間論的な次元(西部の『知性の構造』のレベル)で、適応への成功=「平衡化」すれば、その適応の担い手たる主体は「全人的テクノクラート」としてあらわれ、失敗すれば「小人的テクノクラート」としてあらわれます。この環境の変化への組織=「社会的慣習」の適応の成否を握るのは、「社会的慣習」の一部である「技術」がうまく実行されるかどうかです。技術の担い手なのでテクノクラートですが、実際のイメージですと「官僚」(日銀マンw)でしょうか。

いささか単純なシェーマ化ですが、こうみると西部氏は戦前の「近代の超克」路線たる三木や笠の後継としての位置にいるようにも思われますね。

小泉の構造改革を西部氏は批判していますが、実はその手法そのものは開発主義的な発想、産業政策的な発想にきわめて近い位置にあるのかもしれません。三木や笠がそうだったように。

あと西部氏の強調する知識人の役割ですが、まさに上の三木・笠の図式での「全人的テクノクラート」か「小人的テクノクラート」か、という論点と密接になっているのかもしれません。少なくともすでに多くの著作を読んだ村上泰亮はそうみなしてもいいでしょう。西部はいかに? それはこれから読みますが。 

梶ピエール  西部翁とはちょっと離れますが、岩井克人の資本主義論や『不均衡動学』の話が出てきましたので、それに関して少し。
岩井氏の資本主義論、特に最近の会社論はシュンペーターの影響が濃厚なわけですが、それについてはhicksianさんの以下のエントリがここでの話にも関係しており、参考になるかと思います。
http://econ.cocolog-nifty.com/irregular_economist/2005/07/hicksian_50b6_1.html

で、『不均衡動学』ですが、僕も学部時代に読もうとして挫折していますがw、後で考えるとヴィクセルをきちんと理解しないであの本を読もうとするのはやはり無理だったのではないかと。それくらいケインズというよりもむしろヴィクセルが理論の基礎になっている本ではなかったかと思います。
で、そのヴィクセルの累積過程が「不均衡過程」でもあることの丁寧な説明を行っているのがほかならぬヒックスだったりします(『経済学の思考法』第?章「貨幣的な経験と貨幣理論」2ヴィクセル)。もちろん、hicksianさんがこれを見逃すはずもなく、以下のエントリがもろその辺のことを扱っており、これも大変参考になります。
http://hicksian.cocolog-nifty.com/irregular_economist/2006/04/rise_and_rise_a_a14f.html

ただ、ここで紹介されているのは金利の変化に対する資本財市場と消費財市場の反応の差から生じる「不均衡過程」ですが、ヒックスの本でそのすぐ前に出てくる、期待インフレ率の調整に一定の時間がかかることからやはりおなじようなメカニズムが生じるという「不均衡過程」の説明も大変興味深いものに思えます。
もし今度岩井氏の本を読むときには、この辺の議論を頭に入れつつ読んでいくと多分理解できるんではないか…との甘い期待を抱いているわけですが、どんなもんでしょうか。 

梶ピエール  あと西部氏の著作で今僕が読んでみたいのは彼のアメリカ滞在記である『蜃気楼の中へ』ですね。自分が今住んでいて感じることですが、アメリカの中でもバークレーという街ほど西部氏に似合わないところはないような気がします。「伝統」とか「保守」という言葉をとにかく毛嫌いする風潮が強いところですからね。なんでわざわざこんなところを留学先に選んだんだろう?個人的には西部氏の反・経済学的傾向が加速したのはこのときの経験が大いに関係しているのではないかとにらんでいます。

…というわけで早速「復刊ドットコム」に一票投じてきました。
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=30212 

hicksian  >『不均衡動学の理論』
実は私も途中で挫折w。古本市場にもなかなか出回っていないようでして、挫折して以降今日まで通読する機会を得ておりません・・・orz。コールズ研究所のHPより関連論文がダウンロード可能ではあるようですが。http://cowles.econ.yale.edu/P/au/d_ij.htm#Iwai,%20Katsuhito(追記;Katsuhito Iwai、“Disequilibrium Dynamics; A Theoretical Analysis of Inflation and Unemployment”の全文がダウンロード可能!ですってよ。http://cowles.econ.yale.edu/P/cm/m27/index.htm

>期待インフレ率の調整に一定の時間がかかることからやはりおなじようなメカニズムが生じるという「不均衡過程」の説明
「擬似的な自然利子率」と「真の自然利子率」の乖離の議論でしょうかね(p85〜90、特にp85〜86)。この議論の面白いところは金融政策を一時的/持続的なものに分別したうえで、「擬似的な自然利子率」が「真の自然利子率」に一致するためには将来の価格期待を変更させるほどに金融政策が持続的である必要あり(将来価格の上昇を保証するほど金融緩和政策が将来にわたって続く)、と読み替え可能であるという点です。例えば金融緩和が一時的なものとして理解されていれば、将来の期待価格が不変である一方現在の価格は上昇するために「擬似的な自然利子率」は「真の自然利子率」を下回ることになる。「真の自然利子率」>市場利子率ではあっても、「擬似的な自然利子率」=市場利子率である限り(=将来の期待価格が不変である限り)金融緩和の効果は小さなものとしかならない。将来の期待価格が上昇する(=将来にわたって金融緩和が持続される)と期待されるのであれば、「擬似的な自然利子率」は「真の自然利子率」に向かって上昇していく、つまりは「真の自然利子率」=「擬似的な自然利子率」>市場利子率となる。「擬似的な自然利子率」が「真の自然利子率」に一致した状況において市場利子率が「真の自然利子率」を下回っているならば、その後は累積的なインフレが発生することになる。累積的(インフレ・デフレ)過程は将来期待の変更を伴って初めて進展可能なものとなるということです。

『経済学の思考法』第?章「貨幣的な経験と貨幣理論」には他にも色々と興味深い議論が散見されまして、例えば4節の「われわれ自身」(1970年代のスタグフレーションの解釈を意図した議論)と題された部分における「産出量の供給曲線」(インフレ率と実質GDP成長率が二次元図上で表現されたもの)は「自然失業率の成長循環仮説」(田中先生命名)の議論の先取りと読めなくもないように感じられます。 

銅鑼衣紋さんのコメント(経済学を勉強する過程で印象深かった書籍(番外編)−「あの人」について−日々一考)参照)を巡って。

韓流好きなリフレ派  econ-economeさんのところアクセス集中でずっと見れなかったのですが、銅鑼衣紋氏が書いてたんですね。彼だとああいう率直な意見になるでしょうね。基本的に小室『危機の構造』に感化されて(それはすでに書きましたが西部と同じ理論系列)、その後にウィーン学団や『社会科学の神話』を読んで、社会科学版の『知の欺瞞』の可能性やパーソンズの機能主義の問題性に自覚的になったわけですから、よくわかる発言ですね。

稲葉さんたちの『マルクスの使いみち』は前半は80年代からの西部的零落の道をそれなりに批判的に検証していて興味深く、同種の研究を次回作に控えている私は営業的に焦りましたがw それでも後半が吉原ワールド全開でそれはある意味、感情訴求がない西部型説法と同じにしか読めなかったですね。その意味ではやる仕事はいろいろあるな、と思います。

econ-econome 田中先生のご指摘の点(銅鑼衣紋氏の指摘)ですが、その点は僕も重々承知しています。経済学においてもご承知の通り幾多の学者の努力により漸進的な理論の彫築・発展が進められている訳ですし。

ただ一方で銅鑼衣紋氏が言う「神の言葉」を知っている連中の一員の中に西部氏が入るのかどうかという点については僕の中ではちょっと判断不能なんです。彼の英国保守派の思想家への共感とか、「無知の知」を語る所を読むとマルクス的な設計思想からは少なくとも外れているような気がするんですよね。

西部氏の議論は大きな物語の一つではあると思うのですが、バーク等が「神の言葉」を知っていると認識した上で議論をしていたとは思えないのです。この点が先生の言われる社会科学版の『知の欺瞞』の可能性やパーソンズの機能主義の問題性(ひいては構造主義に対する問題?)に繋がるのでしょうか。

最後に韓リフ先生のコメント。何度も反芻すべし。

韓流好きなリフレ派  まず西部氏の経済問題を扱った最近作の『エコノミストの犯罪』におけるエコノミスト批判とそれにオーバーラップしている一種の「社会没落論」との関連を見てみましょう。この「社会没落論」はシュペングラーの『西欧の没落』を西部氏流に読み込んだものですが、社会の衰退や没落のサイクル論で目前の社会や経済の危機や停滞を説明するのは、私がここしばらく考えている「構造改革論者」や「清算主義者」あるいはより正しくは「日本型の制度主義経済学者」たちの共通の視座です。例えば、「日本型の制度主義経済学者」の源流ともいえる笠信太郎のデビュー作はこのシュペングラーの『西欧の没落』論でして、上にあげたシェーマをすでに織り込んで、危機的な環境における従来の知識人の限界とそれに代る全的テクノクラート論の基礎を提供しています。最近では、ランデスの『強国論』を世俗化した竹中平蔵氏の『民国論』なんかもありますね。もちろん森嶋や金子らも忘れてはいけませんが。少なくとも笠のシュペングラー論と西部の以下の立論はかなり共鳴するものをもっていると思います(思います、というのは笠の本は群馬にあるので今回は直接できないのでうろ覚えですまそ)。

話を戻すと、『エコノミストの犯罪』で西部氏がシュペングラーを敷衍してどのようなエコノミスト批判を展開しているかというと、シュペングラーは文明の運命を主に「貨幣と知性」に代表させてみています。そして文明の没落とは、この「貨幣と知性」が自己目的化して、大衆による堕落した形態をとるということです。

「ここまでくると、シュペングラーの書が現代日本をも標的にしていることは疑うべくもない。貨幣的動機にもとづく技術知識の利用、それ以外に人間行動の類型がないがごとくの経済論が(アメリカから)日本に注入されている」。

貨幣や技術的知識(知性の一側面)が自己目的化し、それを大衆はエコノミストという代弁者を通して語る。エコノミストはその大衆に自己の立論の正当性をもとめることで両者は相互依存の関係にあり、これこそ文明の危機である。というわけです。

「厳密にいえば、専門知は、現実の問題と離れたことろで、単なる仮説として存在を許されている代物にすぎない。しかし多くの専門人が休み無く現実の問題について発言し行動している。それは、いったいどういう根拠にたってのことなのか」

「専門人は世論(という解釈)に依拠することによって問題の全側面にかんしておおよその解釈を暗黙のうちに下している。その解釈を前提にした上で、専門人は、自分の得意とする側面について説明を加え、それにもとづいて問題への処方箋を書いているのである」(『エコノミストの犯罪』)。

この専門人のだいひょうとしてエコノミストがあるわけです。

これらの見解は、私からするとエコノミストの分析と処方箋が大衆(世論)によってそのもっともらしさが規定され、その世論が変わるごとにそのもっともらしさの内容も変わる、という文化的な相対主義の一類型のように思えます。

そしてこのような文化的な相対主義の源泉として、西部氏自身が依拠しているシュペングラーやオルテガらはその代表として評価されていますね。その評価は正しいでしょう。

僕が銅鑼氏の言葉を借りて、西部たちが「神の言葉」を語っているというのは、この大衆の意見に規定された経済学という文化的な相対主義というストーリーについてです。ようするに専門家の日々のちまちました漸進的な専門研究や政策研究などはこのような文明論的な枠組みに無知・無自覚であるという批判対象なんですよ。

このような文化的な相対主義の一種については、『知の欺瞞』でも大きなテーマでした。より直截には、シュペングラーを直接批判した『知の欺瞞』の主張を基本的に引き継いでいるブーブレスの『アナロジーの罠』が上記の「神の言葉」への批判を展開しています。

長いですけど引用。

「『西欧の没落』の著者シュペングラーの主張によれば、客観的現実というものは存在せず、自然は文化に応じて変化する。こうした主張が、ポストモダンを生きているらしいわれわれにとって現在の思想状況をまざまざと映し出す言葉として耳に響くことは疑いようがない。ムジールは、こうしたシュペングラーの文化的・認識的相対主義を論駁するために、ただ次のように問う(**で囲まれたところはブーブレスの引用したムジールの言葉)。

*それではなぜ梃子はアルキメデスの時代にも、そして楔は旧石器時代にも今日と同じように働いていたのだろうか。猿でさえまる静力学と材料力学を学んでいるかのように梃子と石を使うことができるのはなぜなのか。そして豹が、まるで因果性を知っているかのように、足跡から獲物の存在を推量したりできるのはなぜか。もし人が旧石器人とアルキメデスと豹を結びつける一つの共通の文化を想定したくなければ主観の外側に存在するある共通の調整装置を仮定するほかにありえない。つまりは経験、それも拡張し洗練することのできる経験であり、認識の可能性である。真理、進歩、上昇のありよう、要するに、認識の主観的なファクターと客観的なファクターのあの混合物であり、それらは分離することこそ認識論の辛抱強い分別作業となるのだが、シュペングラーはそこから身を遠ざけている。思考の自由な飛翔にとってはこの作業は邪魔になるだけだからである*」(『アナロジーの罠』)。

西部の「神の言葉」という銅鑼氏の比喩をあえてムジールの引用にたとえればそれは「思考の自由な飛翔」でしょうね。