合理化する存在
大多数の人びとは、自分自身の行為や信念や感情を正当化するよう動機づけられている。人は何かすると、できるだけ、それが論理的でもっともなことだと自分自身に(そして他者に)納得させようとするだろう。(pp.167〜168)
認知的不協和理論は、人間を合理的な存在としては描いていない。むしろそれは、人間を合理化する存在として描いているのである。この理論の基底にある仮定によれば、われわれ人間は、正しくありたいと動機づけられているというよりはむしろ、自分が正しいと(そして、自分が賢明で上品で善良であると)信じたいと動機づけられているのである。(pp.172)
私は不協和低減行動を「不合理的」だと言ってきた。そのことで私が言おうとしたことは、そのために人びとが重要な事実を学習できなかったり、自分の問題の本当の解決法を発見できなかったりするという点で、しばしば不適応的であるということである。この反対に、それは役に立つこともあるのである。すなわち、不協和低減行動は自我防衛的行動である。不協和を低減することによって、われわれは正の自己像―自分のことを善良で賢明で価値あると描く像―を維持するのである。(pp.177)
注意しておくべき重要な点は、世界は、一方には合理的な人びと、もう一方には不協和を低減する人びとというように分かれているのではないということである。人びとはみなまったく同じとは限らないし、より不協和に耐えることができる人びともいるけれども、われわれはみな合理的に行動できるのであり、また、われわれは不協和を低減するように行動できるのであり、それは状況のいかんによるのである。ときには、同じ人が、その両方の行動をすばやく続けて現すことがあるのである。(pp.178)
E. アロンソン著 『ザ・ソーシャル・アニマル』「第5章 自己正当化」より
認知的不協和理論(そしておそらくは認知的不協和理論の一特殊形態としての自己欺瞞論)が描く人間像を一言で説明せよと問われたら、おそらく「人間=合理化する存在」ということになるんだろう。
ちなみにアカロフ(George Akerlof)がディケンズ(William Dickens)との共著で「認知的不協和の経済的帰結」という論文*1を書いてたりする。
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*1:George A. Akerlof and William T. Dickens(1982), “The Economic Consequences of Cognitive Dissonance”(American Economic Review, Vol.72(3), pp.307-319)