コーエン著「自己制御 vs 自己解放」(その4)


●Tyler Cowen(1991), “Self-Constraint Versus Self-Liberation(pdf)”(Ethics, Vol. 101, No. 2, pp. 360-373)

第5節 「Is addiction always the result of weakness of will ?」/ 第6節 「Self-management and markets」の訳です。次回エントリーがラスト。

Is addiction always the result of weakness of will ? (中毒は常に意志の弱さの結果なのか?)
自己規律の行き過ぎを招く可能性があることに加えて、ルール志向の「私」は中毒や有害な消費習慣を招く原因になっているかもしれない。中毒は、必ずしも意志の弱さの結果、あるいは、衝動的な「私」が自己管理を巡るバトルで優勢に立っている結果とは限らない。中毒は、ルール志向の「私」による慎重な決定の結果であるのかもしれないのである。ルール志向の「私」がそのような決定をするのは、人生において衝動的で自発的な喜びが欠けているためであるかもしれない。衝動的で自発的な喜びの欠けた人生は、何らかの中毒を伴う生活と比べて、つまらなくて魅力のないものなのかもしれない。
例えば、北イエメン(North Yemen)では、人口の80%近くがカート(qat)として知られる常習性のある木の葉を噛む習慣を持っている。このカートを噛むと数時間であるが軽い覚醒作用が引き起こされるが、イエメン人にはカートはエネルギーの源泉であると考えられている。カートへの需要は非常に広範なものであり、ある情報ソースによれば、イエメンのGDPに占めるカート生産の割合は30%にのぼるということである*1。カート中毒者のうち現状に不満を感じ、カートを噛む習慣をやめたいと考えている割合は50パーセント未満であり、イエメン人の大半は、カートを噛む習慣を誇らしく感じているとのことである*2。カートは、イエメンにはない消費財や文化的な刺激の代わりになっているのかもしれない。実のところ、イエメンは、世界銀行によって、世界で最も貧しい6つの国のうちの1つに数えられている。多くのケースでは、カートの常習的な消費は、ルール志向の「私」の意志に反するかたちで行われているわけではないようである*3
自己制御の問題を扱う通常の分析が予測するところとは反対に、ルール志向の「私」の力を強化してもカート中毒はそれほど減少しないかもしれない。反対に、カート中毒は、新たな喜びや誘惑を導入することで、効果的に克服できるかもしれない。新たな喜びや誘惑を導入することで、衝動的な「私」がカート消費に抵抗し、カート消費以外の源泉から喜びを得ようとするインセンティブを持つようになるからである。ケネディー(John G. Kennedy)は、その著書の中で、カート消費を減少させているのは中産階級の人々であり、彼らは手元のお金を消費財の購入に使うよう動機づけられていると指摘している*4。さらには、アメリカやサウジアラビアといった海外で働いているイエメン人は、人生の他の側面に関心を持つに至るにつれて、カート中毒から脱していくようになるとのことである*5


Self-management and markets (自己管理と市場)
自己管理には自己解放の側面も伴うということを理解することで、多くの社会・経済問題に関する従来の態度に変化がもたらされることになるかもしれない。例えば、従来のように、自己管理が自己統制・自制の問題として捉えられるならば、消費者の規律を緩めたり歪めたりしようとする企業の試み、例えば商品の購入を説得しようとする広告活動やマーケティング活動は、消費者の自己制御を阻害する有害で非生産的なものであると判断されることになる。企業による広告活動やマーケティング活動に政府規制を加えることは、消費者の自己制御を支援することを通じて消費者厚生の向上に資すると判断されることだろう。
消費者の規律を緩めたり歪めたりしようとする試みは市場経済に広く見られる現象である。スーパーマーケットやデパートは、買い物客がお目当ての商品にたどり着くまでについつい余計な商品まで手にしてしまうよう展示がなされている。高価な自動車や家具、諸々のぜいたく品を販売している企業は、消費者に対して、支払いやすいクレジット条件(easy credit terms)を提供したり、商品の試用期間を設けたりしている。何度か繰り返し使用され、定期的に買い替えられるような商品、例えば、リップスティックや防臭剤、トイレットペーパーのような商品の販売者は、消費者に贔屓にしてもらうために、無料のサンプル品を提供している*6。この点を捉えて、N. マッケンドリック(Neil McKendrick), J. ブレワー(John Brewer), J. H. プラン(J. H. Plumb)は、 消費者から注目を引きつけようとする企業の試みこそが、産業革命の背後にあった真のイノベーションであると主張している*7
フリーサンプルや試供品といった多くのビジネス慣行は、(消費者の規律を緩めたり歪めたりするためというよりもむしろ)消費者に対して判断のための情報を提供しようとする試みであると解釈できるかもしれない―情報提供機能と説得機能とを分離することはしばしば困難なことではあるが―。にもかかわらず、消費者の意志の力や規律を弱めることが多くのマーケテンィグ活動の重要な要素であることは否定できないと思われる。消費者の意志の力や規律を弱めることを意図した明白な例は、サブリミナル効果を利用した広告である。商品の販売者は、広告や映画の中に隠されたイメージや映像、メッセージを秘かに潜り込ませて、消費者の意志の力を弱めようと試みることがある。
企業による広告活動に批判的な立場に立つ論者は、伝統的に、広告の説得機能を強調し、広告を擁護する立場の論者は、広告の情報提供機能・シグナリング機能を強調する傾向にある*8。ただ、広告の説得機能は消費者厚生に対して必ずしもマイナスとなるわけではない。消費者は、この消費志向の現代経済において、誘惑に身を委ねたいと考えているかもしれず、広告による説得は、一人の人間の中の衝動的な「私」に力を貸すことになり、その結果として消費者の厚生を改善することになるかもしれない。自己制御(自己規律)が行き過ぎており、また自己解放が過度に抑制されているとすれば、心をかき乱すような*9企業のマーケティング活動は、消費者に対して、害よりは益をもたらすことになるかもしれない。自己規律の行き過ぎた消費者は、企業による広告活動のおかげで、ヨリ自発的で衝動的に生きることが可能となり、厳格な自己規律の縛りから解放されることになるかもしれない。
市場は、消費者の規律を弛緩する意図的な試み(例えば、広告)をそのうちに含むだけではなく、意図しないかたちで消費者規律を弛緩させる効果を有している。市場経済の進展に伴う一連の現象―例えば、利用可能な消費財メニューの拡大、選択の自由の広がり、富の増進、放蕩にふける( "licentious" )機会の広がり(=不道徳的な選択肢の広がり)、社会的な紐帯の解体―は、個々人の自己解放を促進し、自己規律の行き過ぎを抑える効果を持っているかもしれない。
サミュエル・ブリタン(Samuel Brittain)はその著書『Capitalism and the Permissive Society』の中で、資本主義と結びついた選択の自由は、寛容な精神(permissive moralities)を生み出すに至るであろう主張している*10。多くの保守派の論者は、資本主義は伝統的な価値観を破壊し、弱めることになると懸念を表明しているが、ブリタンは保守派のこの懸念をひっくり返して、資本主義の進展に伴う道徳律(moral codes)の弛緩が個人の自由につながると主張しているのである*11
しかしながら、市場が人の自己規律を弛緩させる効果は、功罪相半ばするものかもしれない。市場のおかげで自己規律の行き過ぎが抑えられたとしても、その結果として個人の厚生は必ずしも高まるわけではないかもしれない。人格の健全な発展には自己規律への欲求自体が低下する必要があるかもしれない。自己規律への欲求が低下することが最も望ましいとしても、自己規律を欲求する態度に大した変化がないすれば、自己規律に完全に失敗してしまうよりはある程度成功するほうが好ましいことなのかもしれない。おそらく市場は(自己規律への欲求を低下させることはなく)決して満たされることのない欲求*12を生み出すだけなのであろう*13
さらには、市場のおかげで特定の領域における自己規律の行き過ぎが抑えられたとしても、自己規律の行き過ぎは他の別の領域―それも市場の影響がそれほど及ばない領域―において姿を変えて表すことになるだけかもしれない。例えば、チョコレートを我慢したいと思いながらも、広告による説得やショッピングセンターで配られるサンプル品につられてついついチョコレートを口にしてしまうとある人物を取り上げてみよう。この人物が自己規律の行き過ぎの傾向を有しているとすれば、チョコレートを我慢するという面での自己規律の失敗は他の領域―チョコレートのように簡単に挫折を経験しないであろう領域―で取り返されることになるかもしれない。例えば、この人物は綿密なメニューを組んで懸命にエクササイズに励むことになるかもしれない。
しかしながら、ある領域で自己規律の行き過ぎを抑制することができれば、行き過ぎた自己規律への欲求は、別の他の領域において姿を変えて表れることはなくそのまま消滅することになるかもしれない。人は、ある活動に成功を収めるとその活動を選好するようになり、またある活動に失敗するとその活動を嫌うようになる傾向がある*14。さらには、人が自らの選好に影響を及ぼすことができるとすれば、自らの選好体系のうちから満たすことができないとわかっている選好は取り除こうと試みるかもしれない。市場のおかげで自己規律の行き過ぎが抑えられることになれば、人は行き過ぎた自己規律への欲求を取り除こうとする新たな自己管理の努力に取り組むことになるかもしれない。
さらには、市場のおかげで特定の領域における自己規律の行き過ぎが抑えられ、自己規律の行き過ぎが他の別の領域において姿を変えて表すことになるとしても、この別の領域における(ルール志向の「私」が享受する)自己規律からの限界効用はヨリ低いものとなるであろう(もしこの別の領域における自己規律からの限界効用が、市場における広告活動等を通じて衝動的な「私」の力が強くなったために渋々ながら自己規律の適用を諦めざるを得なくなった元の領域においてよりも高いものであれば、ルール志向の「私」ははじめからこの別の領域で自己規律への欲求を満足させていたことだろう)。自己規律からの限界効用が低下するとすれば、行き過ぎた自己規律への欲求は放棄されることになるか、あるいは、自己規律への欲求を満たすために投下される資源の量は減少することになるであろう。
以上の議論のいくつかは、資本主義体制下における疎外(alienation)に関するマルクスの仮説が合理的選択理論とその根を共有するものなのかもしれないことを示唆している*15。疎外という問題は、市場の作用が自己管理ゲームにおける異なる「私」間の力関係のバランスを変化させることから生じてくるのかもしれない。しかしながら、経済成長が人々の道徳に与える影響を強調したのはマルクスだけではない。富(経済成長)が重要な道徳観念を毀損することになるという信念は、ローマ帝国の崩壊を説明する諸理論の多くに共有されたものであった。ハーシュマンは、この点に関連して、以下のように指摘している。「古代ローマにおける、節制(sobriety)や共和国の一員としての誇り(civic pride)、勇敢さ(bravery)といった美徳は、戦争での勝利や領土の拡張につながり、勝利や領土の拡張は、富裕(opulence)や贅沢(luxury)につながった。そしてこの富裕や贅沢は、先の美徳―節制、誇り、勇敢さ―を棄損し、共和国を、そして最終的にはローマ帝国を崩壊させるに至ったのであった」*16マルクスと対照的な市場観は、ドイツの古典的自由主義者であるヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt)に見出すことができる。フンボルトは、自発的な関係性の発展は人格の統合を促進すると主張していたのである*17。また、J.S.ミルも同様に、個人的な幸福と自発性、そして政治的な自由との相互のつながりを認識していた一人である*18

*1:原注;John G. Kennedy, The Flower of Paradise: The Institutionalized Use of the Drug Qat in North Yemen (Dordrecht: Reidel, 1987), p. 133.

*2:原注;Ibid., pp. 20, 237.

*3:原注;イエメンでのカート消費の実態は、ベッカーとマーフィーによる「合理的な中毒」理論といくつかの面で共通点を持っている。Gary S. Becker and Kevin S. Murphy, "A Theory of Rational Addiction," Journal of Political Economy 96 (1988): 675-700. ルール志向の「私」は、将来の期待効用を最大化するように意図して中毒を選んでいるのかもしれない。しかしながら、ベッカー=マーフィーの議論とは異なり、本論文では、ルール志向の「私」が選択を決定する際にその利益が部分的にしか考慮されない他の異なる「私」(例.衝動的な「私」)の存在を認めている。

*4:原注;Kennedy, p. 238

*5:原注;Ibid., p. 191. 関連する議論として興味深いのは以下である。 Herbert Fingarette, Heavy Drinking: The Myth of Alcoholism as a Disease (Berkeley: University of California Press, 1988). H. フィンガレットによれば、アルコール依存症は病気というよりはむしろ、意識的な選択の結果であるとのことである。

*6:原注;一方で、ニコチンガムや健康器具の生産者は、ルール志向の「私」が一人の人間を支配していることを望むかもしれない。同様に、銀行は、預金を預けてもらうために、自己解放よりは自己制御を促進しようと考えているであろう。

*7:原注;Neil McKendrick, John Brewer, and J. H. Plumb, The Birth of a Consumer Society: The Commercialization of Eighteenth Century England (London: Europa, 1982).

*8:原注;広告活動への批判については、ガルブレイスの以下の著書を参照せよ。 John Kenneth Galbraith, The Affluent Society(Boston: Houghton Mifflin, 1958). 広告のシグナリング機能については、P. ネルソンの以下の論文を参照せよ。Philip Nelson, "Advertising as Information," Journal of Political Economy 82 (1974):729-54.

*9:訳者注;衝動的な「私」に力を貸すような

*10:原注;Samuel Brittain, Capitalism and the Permissive Society (London: Macmillan, 1973).

*11:原注;ハーシュマン(Albert Hirschman)はその著書 Rival Views of Market Society and Other Recent Essays (New York:Viking, 1986) の中で、市場経済が人々の道徳にいかなる影響を与えることになるかという問題を取り上げ、この問題に対する様々な論者の見解を要約している。

*12:訳者注:たぶんこの「欲求」は、衝動的な「私」が有する欲求=広告等を通じて刺激される衝動的な欲求、のこと

*13:訳者注;この部分の訳はあんまり自信がない。原文は以下。Perhaps markets succeed only in producing persons with desires that can never be fulfilled

*14:原注;以下を参照せよ。Maynard W. Shelly and Tina Z. Adelberg, "The Constraint-ReinforcementApproach to Satisfaction," in Analyses of Satisfaction, vol. 1, ed. Maynard W. Shelly (NewYork: MSS Information, 1972).

*15:原注;この点に関しては、シトフスキーの以下の本を参照せよ。 Tibor Scitovsky, The Joyless Economy: An Inquiry into Human Satisfaction and Consumer Dissatisfaction (New York: Oxford University Press, 1976).

*16:原注;Hirschman, p. 114.

*17:原注;Wilhelm von Humboldt, The Limits of State Action (Cambridge: Cambridge University Press, 1969).

*18:原注;John Stuart Mill, On liberty (New York: Norton, 1975).