コーエン著「自己制御 vs 自己解放」(その2)
●Tyler Cowen(1991), “Self-Constraint Versus Self-Liberation(pdf)”(Ethics, Vol. 101, No. 2, pp. 360-373)
第2節 「How do the two selves differ ?」/ 第3節 「Can the impulsive self engage in strategic behavior ?」の訳です。
How do the two selves differ ?(2人の「私」にはどのような違いがあるのか?)
本論文ではルール志向の「私」と衝動的な「私」とをそれぞれの選好の違いに基づいて区別することにする。ルール志向の「私」は、行動に規則性(regularities)や統制(controls)を求める選好の達成を請け負うものであり、衝動的な「私」は、自発性(spontaneity)や予測不能性・意外性(unpredictability)を求める選好の達成を請け負うものである。つまりは、2人の「私」は、それぞれ特定の認知的な能力や意志の力を有する特定の選好の表れとして特徴づけられることになるのである。一人の人間の中に2人の「私」が同居するということは、ある一時点において、あるいは、時間を通じて、一人の人間はその内部に対立する欲求を抱えているということになる。ある一人の人間の外部に表出される選好が変化するとすれば、それは1人の人間の行動のコントロール権が一方の「私」から他方の「私」へと移った結果であると捉えることができるであろう。
2人の「私」はルールや自発性をそれ自体として評価している(ルールや自発性をそれ自体として需要している)必要はないであろう。ルールや自発性への欲求は派生需要であるのかもしれないのである。例えば、自己統制(self-control)や自発性といった人格的な特徴は、ヨリ内在的な価値と結び付けられているかもしれない。自己統制に励むことで、慎慮(prudence)や平穏(moderation)といった内在的な価値の達成を目指しているのかもしれないし、また自発性はセクシュアリティ(sexuality)の価値を評価している結果であるのかもしれない。しかしながら、本論文においては、派生需要としてのルールや自発性への欲求は与えられたものとして考え、ルールや自発性への欲求を生み出しているかもしれない内在的な価値の役割については強調しないであろう。
ある瞬間においては、ルール志向の「私」と衝動的な「私」のいずれかが一人の人間の能力(行動)のコントロール権を握っているであろう。 最もありそうなことは、ルール志向の「私」と衝動的な「私」とがともに入れ替わり立ち替わりコントロール権を握り、どちらか一方の「私」が一人の人間の行動を継続してずっとコントロールすることはないということになりそうである。本論文においては、衝動的な「私」は将来の結果を評価する能力を備えているものとして扱うであろう。つまりは、衝動的な「私」の行為は、自らの行為の直後に即座に満足をもたらすような近視眼的なものに限定されるものではなく、衝動的な「私」の行為の中には手の込んだ戦略的な行動もまた含まれているものとして扱うであろう。「戦略的に振る舞う衝動的な「私」」という特徴づけが妥当であると考える理由に関しては以下で触れるであろう*1。ルール志向の「私」によって課された制約を与えられたものとすれば、衝動的な「私」による戦略的な行動がたとえ彼(=衝動的な「私」)が自らすすんで行ったものではないとしても*2、彼(=衝動的な「私」)が戦略的に行動することで一人の人間の長期的な自発性が最大化されるということになるかもしれない。
大抵の現実の人間は、ルールへの欲求と自発性への欲求とにとどまらないヨリ多様な欲求を有しているので、本論文が採用する『2人の「私」』モデルは現実の人間を極度に単純化したものということになるであろう。「ルール vs 自発性」というのは、人間が経験する多くの内的な対立(intrapersonal conflicts)の一つの例に過ぎない。本論文はまた、2人の「私」の間でのコントロール権の内生的な移転、あるいは、どういった要因が、ある特定の時点において、どちらか一方の「私」に行為する権限を与えることになるのかといった論点については触れないであろう。今述べたような限界があるにもかかわらず、『2人の「私」』モデルは一人の人間の内的な葛藤を理解する手助けとなるかもしれない。『複数の「私」』モデルは、我々の考えをまとめ上げ、(一人の人間の)内的な対立(intrapersonal conflicts)と対人的な対立(interpersonal conflicts)との間におけるアナロジー(そしてまたディスアナロジー)を見出すにあたって有益な枠組みを提供しようとするものなのである。
Can the impulsive self engage in strategic behavior?(衝動的な「私」は戦略的に行動できるのか?)
自己管理の問題を扱う文献の一般的な見方では、戦略的な行動に関しては、ルール志向の「私」の方が衝動的な「私」よりも秀でた能力を有しているとされている。例えば、ヤン・エルスター(Jon Elster)は以下のように指摘している。「典型的なケースとして、飲酒をやめたいと思っている「私」は、長期的な観点からもう一方の「私」が何をするであろうか(どのような反応をするか)を予測することができるが、もう一方の「私」は相手がどのように行動するかという長期的な予測に基づいて戦略的に振る舞うことはない。・・・このことは、飲酒したいと思っているもう一方の「私」は戦略的に振る舞う手段を持っていないということを主張しているわけではない。しかしながら、典型的な場合においては、飲酒したいと思っているもう一方の「私」の行為は、(長期的な)策略(manipulation)よりはむしろ(短期的な)欺瞞(deception)に基づいて進められることになる」*3。このようにしてエルスターは自己管理の問題に本質的な非対称性を持ち込んでいるわけである。一方の「私」が戦略的に行動する能力を大いに欠いているとすれば、自己管理の問題は、結局のところは、戦略的に行動できる「私」がいかにして自らの意志をもう一方の「私」(戦略的な行動という点では劣った能力を持つ「私」)に課すか(あるいはなぜ自らの意志を課すことに失敗するのか)という問題に読み替えられることになる。
本論文では、衝動的な「私」は、(自己管理の問題を扱う文献の一般的な見方とは異なり)ルール志向の「私」と同様に戦略的に行動することができると想定する。例えば、事前的なコミットメント(precommitment)はルール志向の「私」のみに使用が許された特権ではない。衝動的な「私」もまた同様に、コミットメントの使用を通じて、一人の人間の行動を長期的に拘束することができる。衝動的な「私」がそのようなコミットメントの使用に訴えるのは、ルール志向の「私」の好き勝手に任せていれば、彼(=ルール志向の「私」)が自発的な欲求充足の邪魔をしたり、打ち消したりするのではないかと恐れるからであるのかもしれない。
衝動的な「私」による事前的なコミットメント使用の例は、ロバート・マートン(Robert Merton)による社会的な圧力(social pressure)の研究の中に見て取ることができる。マートンは、アメリカが第2次世界大戦時にラジオを通じて戦時国債購入キャンペーンを行った事例を研究し、ラジオ聴取者らが資金協力に応じようとする意志が衝動的で束の間のものであったことを指摘している。 ラジオの聴取者による資金協力に応じようとの意志は、国債購入を訴えるラジオ放送の直後に一時的に盛り上がり、しばらくするとしぼんでいったのである。ラジオのキャンペーンに応じて実際に国債を購入したラジオ聴取者について調べたマートンは以下のように述べている。「ある例においては、ラジオの聴取者は、気が変わる前に国債の購入にコミットしたいと考えて、ラジオ放送を聴いた直後にラジオ局に電話をかけたのであった」。電話をかけてしまえば、そのラジオ聴取者は、衝動的な「私」によって用意されたコミットメントに従って国債を購入しなければならなかったのである*4。
事前的なコミットメントを使用することができなくとも、衝動的な「私」が戦略的に振る舞う術は依然として残されている。例えば、衝動的な「私」は、ルール志向の「私」が事前的なコミットメントに乗り出す際のコストを増加させるように取り計らうことができる。一般的には、将来の不確実性が高まるほど、事前的に拘束力のあるコミットメントをすることでヨリ大きなコストを負担せねばならなくなる。というのも、将来の不確実性が高まるほど、コミットメントをすることで失われる柔軟性(flexibility)の価値が高まる*5ことになるからである。衝動的な「私」は、慎重に計画を練った上で、ルール志向の「私」との自己管理を巡るゲームでの追加的なテコ入れの手段として*6将来の不確実性を高める手段に訴えるかもしれない。
週末に山にキャンプに出掛けることは、山にアルコールの類を持参しないのであれば、飲酒の量を抑える効果的な方法かもしれない。しかし、衝動的な「私」は、ルール志向の「私」によるこの事前的なコミットメントを覆す術を持っている。土曜日に職場の上司から突然電話で仕事の呼び出しがあるかもしれないとすれば、週末に小旅行に出掛けることはコストを伴うものとなる。衝動的な「私」はこの点を勘案して、週末呼び出しの声が掛かる可能性の高いプロジェクトをあらかじめ引き受けておくかもしれない。そのようなプロジェクトを引き受けることで、事前的なコミットメントのコストが上昇し、おそらくはキャンプに出掛けることもなくなるだろう。
ルール志向の「私」が部分的なコミットメントに成功したとしても、衝動的な「私」は時に効果的な報復手段に打って出ることができる。衝動的な「私」は、報復の機会が訪れた時にルール志向の「私」に対して強烈なかたちで報復することが可能なのである。例えば、ルール志向の「私」が喫煙の量を控えるためにレストランでは常に禁煙席に座るよう図っていると想定しよう。しかし、食事を終えてレストランから一度出れば、ルール志向の「私」はもはや禁煙席というコミットメント手段に頼ることはできない。この報復の機会を利用して、衝動的な「私」は、いつも以上に高タールのタバコを吸ったり、いつも以上に吸うタバコの本数を増やしたり、いつも以上にタバコの煙をじっくりと深く吸い込むかもしれない。ルール志向の「私」の計らいで吸うことのできるタバコの本数が減らされていたとしても、衝動的な「私」は吸うたばこの質を調整することで報いることができる。衝動的な「私」は、報復手段として、この人間をニコチン中毒以外の別の中毒に陥れることになるかもしれない*7。
以上の例は、衝動的な「私」がいかにしてルール志向の「私」によるコミットメントに対抗できるかという話題であったが、ルール志向の「私」は事前のコミットメント以外にも自己を規律するための術を持っている。例えば、ルール志向の「私」は、自己統制に失敗すれば懲罰を与え、自己統制に成功すれば報酬を与えるよう取り計らうことができる。お金の節約に成功すれば、ルール志向の「私」はご褒美としてレストランでの豪華な食事をセッティングするかもしれないし、またダイエットに成功すれば、ルール志向の「私」はご褒美として新しいセーターを買うかもしれない。もしある人が自分はタフである(意志が強い)との確固たる評判(「意志が強い自分」に対する高い信頼)を構築しているのであれば、そのような報酬や懲罰というのは自己に規律を課すための有効な手段となるかもしれない。
しかしながら、衝動的な「私」は、時間整合性(time consistency)の問題を利用するかたちで、ルール志向の「私」によるこの規律手段に対抗することができる。時間整合性の問題は、事後的な懲罰や報酬という手段にとってのアキレス腱である。実際に逸脱行為がなされてしまった後では、予定通りに懲罰を実施することはもはや望ましくないかもしれない。同様に、目標が達成されていなくとも、予定されていた報酬だけはきっちりといただくということは可能である。
衝動的な「私」はルール志向の「私」に後ろ向き帰納法(backward induction)―有限期間の繰り返しゲームにおいては協調(今の例であれば、逸脱行為に対して懲罰で報いること)は維持可能ではないことを示唆するところの後ろ向き帰納法―を思い出させることができる。ルール志向の「私」は、ゲームの利得構造に関する情報やゲームが有限期間であるという情報を意図的に無視することで、後ろ向き帰納法から逃れようとするかもしれない。衝動的な「私」は、ルール志向の「私」によるこの無視に対抗するために、ゲームの構造に関する情報を再認識すべく促すことができる。ダイエットを考えている彼/彼女がダイエットの最終日には彼/彼女がどんちゃん騒ぎで飲めや歌えやしているだろうことを具体的にイメージするようになれば、報酬や懲罰の利用を通じたダイエットのための規律手段は信頼に足らないものとして採用されないということになるかもしれない。エルスターやドナルド・デイヴィッドソン(Donald Davidson), デヴィッド・ピアーズ(David Pears)によって分析されているような衝動的な「私」による短期的な欺瞞に基づく戦術とは異なり、この戦術が衝動的な「私」に要求していることは「真実を語れ」ということだけである*8。
ルール志向の「私」が自己規律を実現するために他の人間を利用する能力についてはよく知られているところである。ハリー・I・カリッシュ(Harry I. Kalish)は、この点に関連する議論として、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo)の例を引いている。ユゴーは、原稿の執筆が終わるまで外出しようという気にならないようにするために、裸になって原稿の執筆に取り掛かるとともに召使に対して衣服を彼(=ユゴー)の手の届かないところに置いておくよう頼んだのである*9。ダイエットや禁酒、予算管理のための自己規律は他者からの協力を得ることでさらにその実効性を高めることができるわけである。衝動的な「私」もまた他者からの協力を得ることでルール志向の「私」とのバトルにおいて有利な立場に立つことが可能となる。友人から仕事中毒だとか神経質すぎる("too uptight")と思われている人間は、時にリラックスの意味も込めて、お酒に誘われたり、休暇をとるよう勧められたりする。衝動的な「私」はこのことを念頭において、他人のいる前で見せつけるかのように仕事熱心であるふりをしたり、神経質そうな素振りを見せたりして、他者からの協力*10を得るように仕向けるかもしれない。
*1:原注;衝動的な「私」が短期的な便益からしか満足を引き出さないとしても、もし衝動的な「私」が自らが消滅した後(あるいは一人の人間のコントロール権を失った後)にも自らの望むことが行われるかどうかを気に掛けるようであれば―以下の本文でマートン(Merton)の例を通じて触れるところであるが―、衝動的な「私」は戦略的な行動に乗り出すことになるかもしれない。この点は自らの死後の世界を気に掛ける人間の例と関連づけることができるであろう。人は死後に効用を得ることはないが、しかしながら自分の死後に何が起こるかを気に掛け、自らの死後の世界においてある特定の結果が起こるように(生前のうちから)行為しておくということになるかもしれない。
*2:例えば、衝動的な「私」による戦略的な行動が直接自らの欲求を満たすためではなく、ルール志向の「私」が過去になした行動の結果を回避・清算するために渋々ながら採られた行動であったとしても
*3:原注;Elster, "Weakness of Will and the Free-Rider Problem," pp. 234-35.
*4:原注;Robert K. Merton, Mass Persuasion: The Social Psychology of a War Bond Drive (Westport,Conn.: Greenwood, 1946), pp. 68-69.
*6:有利な立場に立つための手段として
*7:原注;Jeffrey A. Harris, "Taxing Tar and Nicotine," American Economic Review 70 (1980):300-311 を参照。ハリスは、この論文の中で、タバコの量に対する政府課税が喫煙者によるどのような調整(特に質の面での調整)をもたらすことになるかをヨリ一般的な観点から調査している。ルール志向の「私」のコミットメントは、衝動的な「私」による喫煙行為に対して従量税をかけているようなものであるということにでもなろうか。
*8:原注;自己欺瞞(self-deception)については以下を参照せよ。 Donald Davidson, Essays on Actions and Events (Oxford: Clarendon, 1980); and David Pears, Motivated Irrationality (Oxford: Oxford University Press,1984). 後ろ向き帰納法については以下のゼルテンの論文で説明がなされている。Reinhard Selten, "A Reexaminationof the Perfectness Concept for Equilibrium Points in Extensive Games," International Journalof Game Theory 4 (1975): 25-55. 繰り返しゲームにおいて協調戦略を促すにあたって不確実性が果たす役割に関しては、以下の論文で分析されている。David Kreps and Robert Wilson, "Reputation and Imperfect Information," Journal of Economic Theory 27 (1982): 253-79; and David Kreps, Paul Milgrom, John Roberts, and Robert Wilson, "Rational Cooperation in the Finitely Repeated Prisoner's Dilemma," Journal of Economic Theory 27 (1982): 245-52. アクセルロッド(Robert Axelrod)の著書 The Evolution of Cooperation (New York: Basic, 1984) で有名になったしっぺ返し戦略("tit-for-tat")に基づく協調関係の創発という議論は、ゲームの相手の行動に関して不確実性が存在する場合にのみ妥当するものである。
*9:原注;Kalish, p. 297.
*10:友人からの「お酒飲みに行こうぜ」とか「ちょっとは休みとれよ」といった言葉に甘えて友人と酒を飲み交わし、あるいは休みをとる