マッカラム著「マネタリズムの経済学」


●Bennett T. McCallum, “Monetarism”(The Concise Encyclopedia of Economics, Library of Economics and Liberty)

マネタリズムマクロ経済学の一学派であり、以下の4点を強調する特徴がある。

(1)長期的な貨幣の中立性
(2)短期的な貨幣の非中立性
(3)名目利子率と実質利子率との区別
(4)政策分析における貨幣集計量(monetary aggregates)の役割の強調

代表的なマネタリストとしては、ミルトン・フリードマンMilton Friedman)、アンナ・シュワルツ(Anna Schwartz)、カール・ブルナー(Karl Brunner)、アラン・メルツァー(Allan Meltzer)がおり、アメリカ以外の国においてマネタリズムの初期の発展に貢献した経済学者としては、デビッド・レイドラー(David Laidler)、マイケル・パーキン(Michael Parkin)、アラン・ワルターズ(Alan Walters)の名前を挙げることができよう。ジャーナリズムにおいては―特にイギリスのジャーナリズム―、マネタリズムを自由市場を擁護する立場に結びつけて論じる傾向があるが、そのような捉え方は適当ではない。自由市場擁護の立場に立つ多くの論者は、よもや自らがマネタリストと名指しされようとは考えもしていないことだろう。
まずは1番目のポイントから説明を加えていこう。例えば、マネーサプライが外生的にZ%増加したとしよう。このケースにおいて、諸々の調整が終了した後に、最終的に一般物価水準がZ%上昇することになるとすれば、さらには、諸々の調整が終了した後に、実質変数(例えば、消費量や生産量、個別商品間の相対価格)に一切の変化が見られないとすれば、経済は「長期的な貨幣の中立性」の性質を備えていることになる。大半の経済学者は、現実の貨幣経済は少なくとも近似的には「長期的な貨幣の中立性」の性質を備えていると考えているが、マネタリストほどに「長期的な貨幣の中立性」を強調している経済学者のグループは他に存在しない。以上の議論に対して、現実の中央銀行はマネーサプライを外生的に変化させることはできないとの反論を寄せる人がいることだろう。確かにこの反論自体は正しいが、しかしながら「長期的な貨幣の中立性」とは何の関係もない論点である。「長期的な貨幣の中立性」が成立するかどうかは、家計や企業が需要や供給の選択をするにあたって、財・サービス―消費され、また供給されることになる財・サービス―の数量のみに関心を持つかどうかにかかっているのである。家計や企業が需要・供給の選択にあたり財・サービスの数量にしか関心を持たないとすれば、経済は「長期的な貨幣の中立性」の特徴を示すことになり、上で例示した議論*1が妥当することになるのである*2。自然失業率仮説も含めて他の中立性概念についてはもう少し先において論じることにしよう。
次に2番目のポイントに進もう。「長期的な貨幣の中立性」が成立するとしても、マネーサプライの変化に対して価格調整が緩やかにしか進まないとすれば、経済は「短期的な貨幣の非中立性」の特徴を表すことになり、マネーサプライの変化によって一時的に実質GDPや雇用量といった実質変数が変化することになる。大半の経済学者は「短期的な貨幣の非中立性」は現実妥当的であると見なしているが、マクロ経済学の重要な一学派である実物的景気循環理論(リアルビジネスサイクル理論)の擁護者は「短期的な貨幣の非中立性」を否定している。
次は3番目のポイントである。実質利子率は通常目にする利子率(名目利子率)に期待インフレ率分だけの修正を加えて得られるものである*3。現在消費と将来消費とのトレードオフに直面している合理的な経済主体は、最適化を実現するために、名目利子率ではなく実質利子率に基づいて意思決定を行うことになる。名目利子率と実質利子率との区別は、1800年代のはるか昔にイギリスの銀行家であり経済学者でもあったヘンリー・ソーントン(Henry Thornton)によってすでに認識されており、また1900年代の初期にアメリカの経済学者であるアーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)によって強調されていた。しかしながら、名目利子率と実質利子率との区別は、1950年代にマネタリストが名目と実質とを区別することの重要性を主張し始めるまでは、マクロ経済分析においてしばしば無視されていたのである。多くのケインジアンは原則としては名目と実質との区別を受け入れていたが、実際のところは、ケインジアンのモデルにおいてはしばしば名目利子率と実質利子率とが区別されておらず、またケインジアンは名目利子率の水準を見て金融政策のスタンスを判断していた。マネタリストは― 一人残らず―、インフレの克服に非貨幣的な手段―例えば、賃金や価格の直接的な統制やガイドラインの実施―を割り当てることは望ましくないと主張した。非貨幣的な手段は市場の機能を歪めることになると考えたからである。その代わりに、マネタリストは、インフレーションはその本質において貨幣的な現象であることを強調した。インフレーションを貨幣的な現象と見なす見解は、当時のケインジアンが持ち合わせていなかった発想であった。
最後に4番目のポイントである。初期のマネタリストは皆、金融政策を分析するにあたり、貨幣集計量―例えば、M1やM2、マネタリーベース―の役割を強調した。しかしながら、細かい点を巡ってはマネタリストの間でも違いもあった。特にフリードマン=シュワルツとブルナー=メルツァーとの間では細かい点を巡って意見の対立があった。フリードマンのよく知られた政策提案は、足元のマクロ経済の状況のいかんにかかわらず、貨幣数量を「月単位で、可能であれば日単位で、年率X%―Xには3〜5の間にある数字を選べばよいだろう―」*4で成長させるべし、というものであった*5。一方で、ブルナー=メルツァーもまた金融政策の運営にあたっては何らかのルールを課すべきであるという立場ではあったが、貨幣数量の成長率を足元のマクロ経済の状況と関連付ける積極主義的なルール(activist rule)の利点を認識していた。また、ブルナー=メルツァーは、準備預金の変化を反映するように調整を加えながら、マネタリーベースの動向を注視する一方、フリードマンはM2やM1といったマネーサプライの動向を注視していた。フリードマンは、中央銀行がマネーサプライの動向を正確にコントロールできるようにするために、預金準備率を100%に設定する銀行システム改革案を提言してもいた。
フリードマンのk%ルールが―マネタリズムの基本的な(k%ルール以外の)他の教義を差し置くかたちで―大きな注目を浴びることになった結果として、マネタリズムの理解や評価が歪められることになった。特に、フリードマンによる「インフレ加速」(“accelerationist”)仮説、あるいは、「自然失業率」(“natural-rate”)仮説は、その重要性の割には無視されてきたといえる。「自然失業率」仮説によれば、インフレーションと失業率とは長期的にはトレードオフの関係にはない、つまりは、長期的なフィリップス曲線は垂直である、ということになる。インフレと失業率とは長期的にはトレードオフの関係にはないという見解は、ブルナー=メルツァーによっても盛んに主張されたところである。以上の「自然失業率仮説」を加味すると、マネタリストにとって基本的な以下の2つの命題が導かれることになるかもしれない。

[1] 名目所得の循環的な変動は主に貨幣数量の変動にその原因を求めることができる(貨幣数量の変動→名目所得の変動)
[2] 失業とインフレーションとの間には永続的なトレードオフは存在しない

以上の2つの命題が相伴って、マネタリストの政策的な立場が導かれることになるのであろう。
マネタリズムが経済学界で広く認知されるようになったきっかけは、フリードマンをはじめとするシカゴ大学に勤務する経済学者たちが1950年代に金融理論の分野で書いた一連の論文にある。これらの論文が経済学者たちから広く興味を惹きつけることになった理由は、どの論文も新古典派経済学の基本原則に則って書かれていたからである。マネタリズムの台頭にとって最も決定的だったのは、フリードマンが1967年に行ったアメリカ経済学会会長講演である(この講演は“The Role of Monetary Policy”とのタイトルで1968年に論文として発表されることになった)。フリードマンは、この論文において、自然失業率仮説を展開し(フリードマンは既に2年前に明瞭なかたちで自然失業率仮説を主張していたのであるが)、またk%ルールを支持する論拠として自然失業率仮説を援用したのである。ほぼ同時期に、エドモンド・フェルプス(Edmund Phelps)―フェルプスマネタリストではなかったが―もまた自然失業率仮説を主張していた。数年後、フリードマンフェルプスの自然失業率仮説は、現実の経済から強力な実証的な支持を得ることになったのである。
1970年後半と1980年代前半になると、それ以前の10年間における影響力の増大と対照をなすかたちで、マネタリズムの影響力は徐々に弱まってくことになった。その理由は主に3つあると考えられる。第1の理由は、実証的なデータに照らして、貨幣需要関数は原則的に極めて不安定である―貨幣需要関数は、4半期ごとに大きく、それも予想できないかたちで、シフトする―と見なされるようになったことである。第2の理由は、合理的期待形成学派が台頭してきたためである―合理的期待形成学派の台頭により、ケインズ経済学的な積極主義に敵対的な立場の経済学者が別々のグループに分散することになった(マネタリストの過半は、合理的期待仮説を速やかに受け入れることになった)―。そして第3の理由は、1979年−1982年間のFRBによる有名な「マネタリズムの実験」(“monetarist experiment”)にある。第3の理由に関しては以下で詳しく説明を加えることにしよう。
1970年代において、アメリカは、他の多くの工業国と同様に、平時においては前例がないほど高水準のインフレーションを数年にわたって経験することになった。この未曾有のインフレーションは様々な「ショック」―石油価格の上昇、ベトナム戦争、そして何よりも1971年−1973年にわたってのブレトンウッズ体制(国際的な固定為替制度)の崩壊(崩壊の原因の多くは、アメリカがドルと金との交換レートを維持できなくなったことによる)―の結果として生じたものであった。ブレトンウッズ体制の崩壊は、中央銀行に対して、新たな重責を課すことになった。つまり、中央銀行は、一国の通貨に対して、金(gold)に代わる新たな名目的なアンカー(錨)を提供せねばならなくなったのである。FRBは、1970年代を通じて、数度にわたり、インフレを克服する意思を表明したが、いずれの試みもうまくいかなかった。このような事態を受けて、1979年10月6日、ヴォルカー(Paul Volcker)議長率いるFRBは、従来の金融政策運営の手続きを大幅に変更し、新たな試み―マネタリストの提案する政策手続きと際立った共通点を有するものであった―を導入する旨をアナウンスした。特に、FRBは、M1の成長率に月ごとの目標を設定した上で、その目標の達成に向けて金融政策を運営するよう試みることになった。また、具体的な政策手続きとしては、コントロールが容易な非借入準備(nonborrowed reserves)―総準備額(bank reserves)からFRBからの借入額(borrowings from the Fed)を差し引いたもの―の操作に重点が置かれることになった。以上のような金融政策運営上の変更は、インフレ率を2桁の水準から(具体的にどの程度の水準にまで引き下げるかは特定されなかったが)大幅に引き下げることを意図してなされたものであった。
現時点から振り返ってみると、1979年10月から1982年9月にかけての一連の出来事は、高インフレの克服にとって必要な処置であり、また1990年代における世界的な低インフレの環境を整備することになった実り多き試みであったと見なすことができるであろう。しかしながら、当時においては、この「実験」は多くのアメリカ人から歓迎されたわけではなかった。1979年後半には、金融引き締めを受けて、短期金利が急上昇を見せることになり、 1980年に入ると、融資規制(credit control)の強化を受けて、産出が大きく落ち込むことになったが、次の4半期には、融資規制が撤廃されたこともあって、産出は回復を見せることになった。1981年から1982年の中頃にかけて、金融引き締めが長期にわたって継続した結果として、1930年代の大不況(Great Depression)以来最も深刻な不況が到来することになり、インフレ率は多くの経済学者が予想した以上のスピードで低下することになった。さらには、この期間を通じて、利子率とマネーサプライ成長率とはともに大きな変動を見せることになった。具体的には、1979年10月から1982年9月にかけて、M1の月ごとの成長率の標準偏差は、3.73(1979年10月以前の3年間のケース)から8.22へと上昇し、FF金利(federal funds rate)の月ごとの変化の標準偏差は、2.86から23.1(年率換算)へと急上昇することになった。
多くの批評家はこの「実験」をマクロ経済的な大惨事と特徴づけることになった。さらには、この「実験」はマネタリズムの無効性を示す強力で決定的な証拠であると受け止める者もいた。この「実験」は、貨幣集計量の成長率を目標として金融政策を運営することがいかに好ましくないものであるかを示すものであり、また非借入準備の操作を通じたM1成長率のコントロールがいかに非現実的なものであるかを示すものである、というのである。一方で、マネタリストたちは、この「実験」は、実際のところは、マネタリスト的な教義に則ったものではなかったと主張した。というのも、M1の成長率は月ごとに大きな変動を示していたからであり、準備預金の積み立てが1カ月遅れでなされる仕組みであったことからM1のコントロールが極めて困難であるように運命づけられていたからであり、またFRBは足元の経済状況に応じて裁量的に反応することを決してやめることはなかったからである。現時点から振り返ってみると、FRBによる非借入準備の操作を通じた政策運営―非借入準備額に週ごとの目標を設定した上で、非借入準備の供給量を操作する―は、FRBが国民と円滑な関係を築く上では非常に効果があったように感じられる*6。というのは、国民的には人気のない利子率の高止まりという結果が生じたとしても、FRBは利子率が高いのは市場需要が旺盛であるからだ*7と言い逃れをすることができたからである。また、FRBは、見かけ上はマネタリスト的なアプローチを採用しているかのように振る舞い、「実験」が失敗したとなれば、マネタリズム(と常日頃FRBに対して文句ばかり言ってくるマネタリスト)に失敗の責任を被せることができたからである。時間が経過して全貌が明らかになると、「実験」は― 一時的には痛みを伴うものであったかもしれないが―戦略的な成功であったと見なされるようになり、「マネタリズムの失敗」という評価だけはそのまま残るという顛末になったのであった。
マネタリズムの教義のうちで今日まで受け継がれているものは何であろうか? 異論はあるであろうが、いくつか確かなこともある。面白いことに、初期のマネタリストケインジアンに迫った意見変更のいくつかは、今日ではマクロ経済学や金融論のスタンダードとして受け入れられるに至っている。マネタリストケインジアンに迫った意見変更のうちで主なものとしては、実質変数と名目変数を慎重に区別すべきこと、実質利子率と名目利子率を区別すべきこと、インフレーションと失業率の間には長期的なトレードオフは存在しないこと、といったものがある。また、今日、大半の研究者は、少なくとも暗黙のうちに、景気安定化政策としては財政政策よりも金融政策の方が効果的であると同時に使い勝手が良いと考えている。アカデミックな研究者や中央銀行勤務のエコノミストの中には、実物的景気循環理論の立場から、金融政策は実質変数に影響を与えることはできないと考える人々もいることはいるが、おそらくこの見解はそこまで重要性を持つものではないであろう。1981年−1983年間のアメリカの主だった不況の原因が、FRBによる1981年の意図的な金融引き締め―事後的な実質利子率とM1Bの成長率とから1981年に金融政策のスタンスが引き締めに変更されたことがわかる―にはないと信じることは困難なことである*8
2005年現在、貨幣経済学(monetary economics)の専門家の多くは、自らをニューケインジアンに親近的な立場にあると見なすことだろう。また、今日、アカデミックな経済学者や中央銀行勤務のエコノミストによる金融政策の分析において、貨幣集計量はわずかばかりの注意しか向けられないか、あるいは、まったく注意を向けられないこともある。しかしながら、理論分析のレベルでいうと、今日の主流的な立場は、かつてのケインジアン― 例えば、1956年〜1978年当時のケインジアン ―よりは、マネタリストの立場にずっと近いといえる。さらには、上で指摘したように、金融政策の運営にあたっては、明らかに「裁量」(“discretion”)―どのように定義されようとも―よりはルールに重きが置かれており、またインフレーションを極めて低い水準に維持することの重要性が強調されている。マネタリズムの教義のうちで、今日において見捨てられ、また実践に移されていないものがあるとすれば、それは貨幣集計量を強調する見解くらいのものである。

*1:訳者注;Z%のマネーサプライの増加がZ%の一般物価の上昇につながる。実質変数は変化なし。

*2:原注;正確には、長期的な中立性が成り立つためには「リカードの中立命題」が成立している必要がある。

*3:訳者注;期待実質利子率 ≒ 名目利子率−期待インフレ率

*4:原注;Milton Friedman, Capitalism and Freedom (Chicago: University of Chicago Press, 1962), p. 54.

*5:訳者注;以下では、フリードマンによるこの提案を「k%ルール」と表現することにする。

*6:訳者注;この箇所には皮肉が込められていると思われる。

*7:原注;この主張は幾分欺瞞的である。確かに、一度その期間の非借入準備の供給量が決定されれば、各期の利子率の水準は、非借入準備に対する市場需要の大きさによって決まることになる。しかしながら、「非借入準備の供給量」を決定する権限はFRBにあるのである。

*8:訳者注;実物的景気循環理論が正しいとすれば、金融引き締めによって不況が生じるはずがない。しかしながら、1981年の金融引き締めによって実際には不況が生じており、このことは、実物的景気循環理論の主張するところとは異なり、金融政策が実質変数に影響を与え得ることを示している、ということを言いたいのだろう。