スキデルスキー著「「規制」多き社会において「信用」は生き残りうるか?」


●Robert Skidelsky, “In Regulation We Trust?”(Project Syndicate, December 21, 2009)

来年度より、イギリス上院(House of Lords;貴族院)の全議員―私もその一員であるが―は、「女王に対する忠誠の宣誓」の場において、誠実性(honesty)と高潔性(integrity)を遵守する旨を書面上で誓約するよう要請されることになる。誠実と高潔とはこれまた結構な原則ではないか、と思われるかもしれない。しかし、つい最近まで、上院議員というのは、下院に対してアドバイスを与える役割を担うにふさわしいだけの(いちいち書面上で誓約する必要がないほど)十分な誠実性と高潔性を備えた人間であると見なされていたのである。上院議員は、その地位にふさわしい行為規範(codes of honor)を内面化している人々の集団から任命されるものと考えられていたのである。
時代は変わった。今や上院議員は自らの誠実さを公に誓わなければならなくなった。(上院議員に自らの誠実性を宣誓するよう迫る)この新たな決まりは彼ら上院議員の品位を貶めるものであると大っぴらに主張できる人間がどれだけいることだろうか?
イギリス上院における新たな行為規範の採択を求める動きのきっかけとなったのは、2009年のイギリス政治界を騒がせた下院議員らの議員手当を巡る経費スキャンダルであった。
経費スキャンダルのルーツは少しばかり昔にまで遡ることができる。イギリスの国会議員は1910年まで給与を支払われていなかった。1910年以降になると、給与が支払われ始めるようになったが、国会議員は自己犠牲を払って国家に奉仕すべきであると考えられていたこともあって、仕事の割には薄給であった。
1970年代の高インフレの時代に入ると、議員の安い給与を補う意味で、非常に入り組んだ議員手当(“allowances”)制度が導入されることになった。国会議員は、その職務活動や品位の維持に必要な実費を補填するために経費を請求することが認められるようになったのである。経費請求の審査基準は緩いものであり、頼りなき人間本性のことを思えば容易に予測されるように、しばしば制度の乱用が見られることになった。
今年の5月、デイリー・テレグラフ(Daily Telegraph)紙は、下院議員による手当請求の実態に関するスクープ報道を開始した。テレグラフ紙は積極的に「名指しと恥辱」(“naming and shaming”)キャンペーンを展開し、経費請求の審査基準が緩いことをいいことに下院議員が私腹を肥やしている実態を明るみに出すことなった。
経費が超過請求された事例の大半はとるに足りないものであり、違法な事例は数えるほどしかなかった。社会的地位の階段を駆け上がっている途上の与党・労働党の議員らは、新たに手に入れた中流の地位にふさわしい生活様式を整えるために経費の請求を行っていた。セカンドハウス(別宅)やチューダー調の梁、プラズマテレビなどなどを用意するために経費の請求を行ったのである。
対照的に、保守党の金持ち議員らは、プールのボイラーの修繕費や屋敷の堀の掃除代、シャンデリアの購入費などを補填するために経費を請求していた。経費請求の実態が暴露されたことにより、100人を超える国会議員が公的な生活から追い出される*1事態になっている。国会議員の身を正すために、もはや彼らの個人的な道義心(honor)に頼ることはできないだろう。
経費スキャンダルは、社会の多くの領域において、道義心がお金に取って代わられつつあることの兆候の表れにすぎない。変化の先にある社会においては、個人は道義心に基づいて行為する*2のではなく、利潤動機に基づいて行為する*3ようになるであろう。人々は利潤機会を発見するや決してそれを見逃すことはないだろう。お金に取りつかれた社会において、人々の行為を規律づけるためには、外部から制裁・制約を課すしかないであろう。「信用」(trust)が語られていた時代から「説明責任」(“accountability”)と「透明性」(“transparency”)が語られる時代へと変わりつつあるのであり、人々を「善き行い」に導くためには、外部から規制や制約を課さねばならないのである*4
これまで非市場的な規範に導かれていた社会の多くの領域に、市場の論理が知らず知らずのうちに深く浸透しつつある。これまで政府の義務と見なされていたことの多く―例えば、戦争や子弟の教育、犯罪者の懲罰―が民間企業にアウトソーシングされるようになってきている。アメリカ政府は、イラクの地において、10万人を超える戦争請負人(“military contractors”)を民間から雇用している。公僕の倫理が、(経済的な)契約と金銭的なインセンティブとによって取って代わられつつあるのである。
個人の選択に重きを置く市場の論理は、コミュニティーに重きを置く社会の論理を急速に飲み込みつつある。かつては、人々のリーダーは同時にコミュニティーのリーダーであり、リーダーはコミュニティーのメンバーと個人的にも顔見知りの仲にあった。コミュニティーのリーダーは、コミュニティーのメンバーから、『「正直」(probity)で「公正」(fair dealing)なリーダー』という評判を勝ち取ることに腐心していた。社会における信用は、コミュニティーにおける日常的で継続的な接触に支えられたローカルな知識の基礎の上に維持されていたのである。(コミュニティーの崩壊とともに)「悪しき行い」を抑制する以上の強力なメカニズムが弱体化した結果として、代わりに強調されるようになったのが「説明責任」であった。
また、市場の効率性の追求は驚くほど複雑性を高めることにつながった。我々が生きていく上で必要となるサービスの大半を供給する経済システムは、(市場の効率性が促進された結果として)今やあまりにも複雑な姿を表すことなり、システムの利用者の目には捉えどころがないものとして映っていることだろう。複雑なシステムの上で生活する人々は「透明性」の向上を求めて声をあげることになるであろうが、単純性と信用とが切っても切れない関係にある*5のとは正反対に、複雑性と「透明性」とは全く相容れないものなのである。複雑性の向上は、道義的な責任の所在を曖昧にし、その結果*6人々の間の相互作用を形作るにあたって、契約の利用(外的なインセンティブ)に頼る傾向をさらに促進することになるだろう。

以下続きです。といっても先日と同じく、以下はsoulcageさん訳でございます。ご協力いただき誠にありがとうございます m(_ _)m

また、市場効率の追求は驚くほど複雑さを高めることにつながった。今日では、社会(the systems)で利用できるサービスの多くが、我々にとってほぼ完全に不透明になってしまっている。さらなる"透明性"を要求する人々は、複雑さが透明性の敵であるということを理解せず、ただ単純さだけが信用の証だと考えているようである。しかし、複雑さによって道義的な問題に曖昧さが生まれていることにも注意せねばならない。複雑さはそのようにして我々の社会契約(国家と市民との関係)の土台にまで影響を与えはじめているのだ。
下院議員だけが信用失墜という逆風を受けているわけでは決してなく、彼らがその筆頭にあるわけでもない。尊敬に値するバンカーも詐欺の犯人だと書き立てられたものである。だからこそ(政府が)規制の枠組みを新しくする必要があったのだ。とはいうものの、政治家不信のまん延は他より危険なものである。それは自由社会というものの土台を弱体化させてしまうからだ。
猜疑心に満ちた社会(low-trust society)は自由の敵である。そのような社会では規制と監視がひどくエスカレートし、信用をさらにむしばみ、ごまかしを助長してしまうだろう。煎じ詰めれば、人間本性というのは、本質的に利にさといばかりではなく、例えば、規制を巧妙にかいくぐることからも満足を引き出すものなのである。だからこそ、自由社会では監視や管理の負担を減らすようなレベルの高い信用が必要となる。そしてその信用には、規範として内面化された道義心や誠実さ、公平さが必要なのである。
人々の善良な振舞いが信用できるシステムでは、規制や法的制裁の脅しを使って人をそうしむけるようなシステムに比べ、「善き行い」が生まれる可能性が高い。自由な社会は(規制や法的制裁が少ないことと引き換えに)犯罪や汚職をある程度は許容せねばならない。しかし、自由主義社会であれば、その数は官僚や裁判官や警官が取りしきる社会よりは少ないものである。旧共産圏の国々では、私的犯罪は実質上存在しなかったが国家犯罪がはびこっていたのだ。
信用の消滅は避けがたいというわけではない。我々には選択の権利がある。社会の信用がむしばまれる範囲を限定すれば、信用に基づいた生き方を守ることができる。例えば、法律は、コミットメントを育む制度(例えば、家族のような)を厚遇したり、可能な限り意思決定を分権化するためにも使用することができる。また、政治家は、宗教的な信念を頭から「問題」と見なす現在の態度を改めるべきである。宗教的な信念は「善き行い」の強力な源泉ともなるかもしれないのである。
自由な出版も役人が「善き行い」に向かうよう圧力を加える役割を果たすべきだ。しかしながら、現にイギリスで起こっているように、メディアによる政府批判が、「制度の乱用」に対する国民一般の怒りを焚きつけて、新たな法律や規制の相次ぐ導入(あるいは変更)につながるとすれば、最終的には「信用」の弱体化につながってしまうかもしれない。メディアはスキャンダルの暴露に躊躇する必要はないが、しかし、いたずらに国民の怒りに油を注ぐようなことは避け、新たな規範が定着するまでしばらく冷静に様子を見守るべきであろう。法律や規制は、政治家の行動を律する手段として、一番最初に持ち出すべきものではなく、他に頼るべき手段がなくなった場合に最後の手段として持ち出してくるべきものなのである。

スキデルスキー卿の以上の論説は、「内発的な動機(intrinsic motivation)vs 外的なインセンティブ(external incentive)」という図式を持ち込むことで理解がヨリ明瞭になるのではないかと思われる。「内発的な動機」に基づいて行動するというのは、簡潔には「そう行動することを欲するがためにそう行動する」ということであり、「外的なインセンティブ」に基づいて行動するというのは、ある行為に伴う報酬や罰則に惹かれて行動するということである。スキデルスキー卿の論説から例をひくと、上院議員が自らの正直さや高潔さを公に宣誓するというのは、上院議員が「内発的な動機」に基づいて正直かつ高潔に振舞うことが期待できないがために、「外的なインセンティブ」に基づいて正直かつ高潔に振舞うよう促すことを意図したものと捉えることができる。上院議員が正直さや高潔さそれ自体に価値を置いているとすれば、放っておいても(内発的な動機に基づいて)上院議員は正直かつ高潔に振舞うことになるが、もし上院議員が正直さや高潔さそれ自体に価値を置いていないとすれば、上院議員から正直かつ高潔な行動を引き出すためには、正直に振舞うことで何からの報酬を与える、あるいは、正直に振舞わなければ何らかの罰則を課す必要が出てくるだろう。上院議員が自らの正直さや高潔さを公に宣誓するよう制度変更することで、おそらく正直かつ高潔に振舞わなければ何らかの罰則が課されることになるのであろう(あるいは公に宣誓することで嘘をつく(正直かつ高潔に振舞わない)ことのコスト(嘘をつくことで個人的な信頼を失ってしまうなど)が上昇すると考えてもよい)。上院議員が自らの正直さや高潔さを公に宣誓するような制度の下では、上院議員が正直かつ高潔に振舞っているとしても、彼らが正直さや高潔さそれ自体に価値を置いているからなのか、それとも、(正直さや高潔さそれ自体には価値を置いていないけれども)正直かつ高潔に振舞わなければ課されるであろう罰則を恐れているからなのか、区別がつきにくいところであろう。ただ、上院議員が自らの正直さや高潔さを公に宣誓するような制度に変更するということは、上院議員が正直さや高潔さそれ自体に価値を置かなくなっていると見做されるようになった結果なのだろう。本論説での「外から規制や制裁を課して人々から「善き行い」を引き出す」ということは「外的なインセンティブ」を利用するいうことであり、また「「信用」に基づいて人々から「善き行い」を引き出す」ということは「内発的な動機」を利用する、というように読み替えることができるであろう。

以下、特に興味を惹かれた箇所に関連してコメントをば(以下は、スキデルスキー卿の主張そのものというよりは私個人の解釈がかなり入っているけども)。
スキデルスキー卿は語る。「自由社会では監視や管理の負担を減らすようなレベルの高い信用が必要となる。そしてその信用には、規範として内面化された道義心や誠実さ、公平さが必要なのである。」
言い換えれば、「道義心や誠実さ、公平さ」が規範として内面化されることなくして高い信用を維持することはできず、また高い信用を維持することなくして自由な社会を実現することはできない、ということである*7。それゆえ、自由な社会を実現するためには、いかにして「道義心や誠実さ、公平さ」を規範として内面化するか、という問題と取り組まねばならないということになる。しかし、スキデルスキー卿が語るように、コミュニティーの崩壊や経済システムの複雑性が増すにつれて*8、人々から「善き行い」を引き出すために、「道義心や誠実さ、公平さ」に頼ること、言い換えれば個々人の「内発的な動機」に頼ることは難しくなっている(「社会の多くの領域において、道義心がお金に取って代わられつつある」)。それがゆえに、「外的なインセンティブ」に頼る傾向が強まっているということになるのであろうが、「外的なインセンティブ」に頼ること自体が「内発的な動機」に頼ることを困難にする可能性がある(「外的なインセンティブ」が「内発的な動機」を破壊する)とすればどうであろうか? この点は、「状況に応じたインセンティブの使い分け」を説くコーエン(Tyler Cowen)(『インセンティブ』を参照)や「モチベーション・クラウディングアウト」を説くB. フライ(Bruno Frey)などの経済学者が強調している点であり、またスキデルスキー卿も認識している点である(「猜疑心に満ちた社会(low-trust society)は自由の敵である。そのような社会では規制と監視がひどくエスカレートし、信用をさらにむしばみ、ごまかしを助長してしまうだろう。」)。
「道義心や誠実さ、公平さ」をいかにして規範として内面化するか、という問題には少なくとも2つの側面があるのかもしれない。第1の側面は、いかにして「道義心や誠実さ、公平さ」の内面化を促進すればよいのかということであり(この側面に対するスキデルスキーの応答;「例えば、法律は、コミットメントを育む制度(例えば、家族のような)を厚遇したり」/「政治家は、宗教的な信念を頭から「問題」と見なす現在の態度を改めるべきである。宗教的な信念は「善き行い」の強力な源泉ともなるかもしれないのである。」)、第2の側面は、いかにして「道義心や誠実さ、公平さ」といった「内発的な動機」の衰退を食いとどめたらよいのかということである(この側面に対するスキデルスキーの応答;「メディアはスキャンダルの暴露に躊躇する必要はないが、しかし、いたずらに国民の怒りに油を注ぐようなことは避け、新たな規範が定着するまでしばらく冷静に様子を見守るべきであろう。法律や規制は、政治家の行動を律する手段として、一番最初に持ち出すべきものではなく、他に頼るべき手段がなくなった場合に最後の手段として持ち出してくるべきものなのである」)。そして、第2の側面と取り組むにあたっては、「内発的な動機」と「外的なインセンティブ」との複雑な相互関係を理解する必要があるということになるのであろう。


インセンティブ 自分と世界をうまく動かす

インセンティブ 自分と世界をうまく動かす

Not Just for the Money: An Economic Theory of Personal Motivation

Not Just for the Money: An Economic Theory of Personal Motivation

*1:訳者注;閣僚の職を辞したり、次回選挙への出馬辞退を表明したり

*2:訳者注;あるいは他者からの尊敬を得ることを目的として行為する

*3:訳者注;あるいは利益や利潤に惹きつけられて行為する

*4:訳者注;人々が自発的に「善き行い」を実行することはない

*5:訳者注;おそらく以下のようなことを言いたいのだろう。信用に基づいて人間関係を構築することができるとすれば、相手の裏切りを抑制するために、契約やら報酬やら罰則やらの細かい仕組みを設計する必要がない(=単純な関係性)。

*6:訳者注;道義的な責任の所在が曖昧になれば、人々から「善き行い」を引き出すにあたって、個々人の道義心に安易に頼ることはできなくなる。というのも、道義的な責任の所在が曖昧になれば、嘘をついてもばれにくくなり、嘘をついてもばれないという安心感から(そうでない場合と比べて)人は不誠実に振舞うようになるだろうからである。よって、複雑性が向上することになれば、信用に基づいて人々の間の相互作用を形作ることには無理が生じてくることになる。

*7:ただし、「道義心や誠実さ、公平さ」が規範として内面化されたからといって必ずしも高い信用が維持されるわけではなく、また高い信用が維持されたからといって必ずしも自由な社会が実現されるわけではない。

*8:コミュニティーの崩壊や経済システムの複雑性の向上が、経済成長の帰結でもあるとすれば厄介な問題である。経済成長の過程というのは分業が高度化する過程でもあり、それゆえ人々の間での相互依存が高まる過程(相互依存の高まり=財の交換関係の広がり)でもある。また分業は個々人が自らの分野に特化することであるから、分業が高度化する過程は(個々の分野の)専門家と非専門家との間での情報の非対称性が広がる過程でもある。経済成長が進めば、相互依存の高まりと情報の非対称性の広がりによって、経済システムの複雑性は向上することになるだろう。「内発的な動機」に頼ることが困難になること=経済成長のコスト、というようにも捉えることができるかもしれない。