シュンペーターは現在の危機をどう見るだろうか


●Barry Eichengreen(2010), “The Crisis in Financial Innovation(pdf)”(Lecture given on receipt of the Schumpter Prize of the International Schumpeter Society, Vienna, January 20, 2010)

一部訳(pp.1〜pp.3)。余裕があれば全部訳すかもしれない。

シュンペーターの業績の特徴は、社会科学の研究に従事するにあたって、広い視野から物を考えること―社会学政治学、歴史などの他分野における成果を経済学的な分析と結び付けて物を考えること―の重要性を説いている点にある。近時の出来事―金融危機や大停滞(Great Recession)―は、広い視野から物を考えることの重要性を改めて明らかにしており、それゆえ、今のこの時期に、シュンペーターの業績を、そしてシュンペーターが何を考えていたかを振り返ることは、特に適当なタイミングなのではないかと思うのである。ある人の学問的な仕事は、彼(彼女)が生きた社会環境(social milieu)を反映するものである、とはシュンペーターが強調しているところである。現在我々は、シュンペーターが最も重要な仕事を残した数十年間と非常に似通った状況、つまりは未曾有の経済危機や金融危機に彩られた社会状況に置かれている。我々と似た社会環境に置かれていたシュンペーターがもし今も生きていたとすれば現在の危機に関していかなる診断や処方を下したであろうかと想像してみることは一興であろう。
シュンペーターであれば疑いもなく以下のように診断することだろう。危機の根源はそれ以前の時期における過剰にある、と。彼は、人々の意志決定における合理性には限界があり、人々は群集行動に陥りやすいこと、それゆえ市場はブームと崩壊を繰り返す傾向にあることをよく理解していた。人間本性に関するシュンペーターのこの理解は、行動経済学や情報の経済学を専門的に研究している現代の学者の見解と非常に似通っているところでもある。またシュンペーターは、いかにして信用の拡張が新技術と結び付いて急激な、それも維持不可能な規模のブームを生み、やがては破壊的な崩壊につながることになるかについて持論を有していた。この点に関してシュンペーターが好んで引き合いに出す歴史上の事例は、19世紀の鉄道ブームと20世紀における自動車産業の予期せざる成長であった。信用の拡張に支えられたブームは、新技術の商用化というかたちで広範な実験を可能にするという利点を備えており、またブームの後にやってくる崩壊は、失敗したプロジェクトや能力のない起業家を淘汰することになる。このようなダイナミックな変動は、資本主義システムに内在的な特徴であるとシュンペーターは考えていたのである。
言い換えるならば、シュンペーターは、一種の清算主義者なのであった。かの財務長官アンドリュー・メロン―当時のフーバー米大統領に対して、不況の浄化効果(cleansing effect)を支持する立場から、「雇用を清算し、株式を清算し、農民を清算し、不動産を清算しなければならない。経済システムから腐敗を一掃しなければならない」と進言した人物―ほど過激ではないものの、しかしながら、シュンペーターは、不況=それ以前の時期における過ちを矯正する浄化機能を果たすもの、と位置づけていたという意味では清算主義者なのであった。彼は、1920年代のブームの過程においては、目先の利益獲得を目的とした手抜きや法破りが蔓延していると判断し、それゆえ、1929〜1930年の初期の段階における株価の大暴落やその後の実体経済の落ち込みは、「道義的な観点からして、最も衛生的な出来事である」と見なしたのであった。
しかしながら、シュンペーターは、株価大暴落に端を発する実体経済の冷え込みが経済システムや金融システムの全般的な崩壊にまで至らないようにするためには政府の介入が必要であるとも認識していた。彼の主張するところでは、1929〜1932年のアメリカ経済は、不況の悪影響が銀行システムにまで及び、本格的な金融危機が勃発するまでは、どこにでもあるような普通の不況であって、この不況は建設的な浄化機能を果たしていた、ということである。とはいっても、シュンペーターケインジアン的な総需要刺激政策に対しては懐疑的な立場であった。シュンペーターは、20世紀を代表する経済学者の地位を巡って自らがケインズと争っていることを自覚していたこともあって、ケインジアン的なことに対しては全般的に懐疑的であった。もしシュンペーターが今日生きてたとすれば、おそらくは、現在我々が目前にある危機に対処するにあたってあまりにもケインジアン的な呼び水政策に頼り過ぎている一方で、脆弱な銀行システムの再建に向けて十分な取り組みがなされていない、公的資金の注入やまた必要とあれば一時的な国有化も辞さない強い態度で銀行システムの問題解決に取り組んでいない、と批判するのではないであろうか。「実体経済の安定性を回復し、そしてこの点も重要なのであるが、技術進歩を促すイノベーションを支えるためには、総需要(総支出)をある一定レベルの水準に保つだけではなく、投資資金を効率的に配分する健全で安定した金融システムの存在が必要なのである。脆弱な銀行システムの問題を放置したままに総需要を引き上げるだけでは、景気回復が実現したとしても、信用が制約されているがゆえにイノベーションの乏しい景気回復といった結果に終わることだろう。さらには、ケインジアン的な呼び水政策を通じて総需要を引き上げることで、銀行はふらふらになりがらも生き残ることが可能となり―銀行を生き延びさせることはアメリカの政策当局の明確な政策方針でもあった―、その結果として、今回の危機を助長する役割を果たした銀行のCEOが今後も変わらずにトップに居座り続けるということになるだろう。こうして不況の浄化効果も弱められることになるだろう。」とシュンペーターは語ることであろう。
私個人としては、以上のような議論には幾許かの真理が含まれているとは思うものの、全面的な同意を与えるところまではいかない。特に、金融システムにおける過剰を浄化する(一掃する)ために2桁の失業率というコストを負担することはあまりも高すぎる対価なのではないかと個人的には考えるのである。今回の危機と1930年代の研究を通じて、我々はケインズ政策は機能し得るということを学んだ。私個人としては、予想以上に失業率が上昇している今のこの現実を前にして、もっと控え目なというのではなくてむしろもっと積極的なケインズ政策が実施されるべきであったと考える。しかしながら同時に、脆弱な銀行システムの問題解決に向けて、政府がもっと積極的な関与―必要とあらば一時的な国有化という手段も辞さないかたちで―をすべきであったとも考える。そして、景気回復が着実に定着した頃合いを見てはじめて、無能な銀行経営者の首を切るなり、一般常識からかけ離れた報酬体系にメスを入れるなり、あるいは、金融市場における分別ある行為を促すようインセンティブ体系を設計し直すなりすればよいと考える。もちろん、民主主義社会において政策を実施する責務を負う人々(=政策当局者たち)がこのような合理的で時宜を得た政策に乗り出すことができるかどうかという問題は、おそらくシュンペーターも疑問を挟んだであろう別の問題である。