サムナー「「スラック」の推計に基づいて金融政策を決めてはいけない」


●Scott Sumner, “Don't base monetary policy decisions on estimates of "slack"”(The Economist, June 28, 2011)

BIS(国際決済銀行)が次のような主張を展開している。構造的失業率(structural unemployment)が高い水準にあることを踏まえると、世界経済が抱えるスラック*1は通常考えられているよりも小さい、と。これに続けてBISは今後インフレ率が高まる可能性を脅威とみなした上で「各国の中央銀行は金融引き締めに乗り出すべきである」と提言している。

BISによるこの提言は種々様々な問題を抱えている。第一の問題は、中央銀行はマーケットが予測するインフレーション(マーケットにおけるインフレ予測)をターゲットにして金融政策を運営すべきである、ということである。マーケットにおける各種のインフレ予測によれば、アメリカのインフレ率はこの先5年間にわたって2%を下回る水準にとどまり続けるだろうことが示されている*2。(BISの提言が抱える)もっと重要な問題は、「スラック」ならびに/あるいは構造的失業に基づいて金融政策の方向性を決定することは間違いである、ということである。

大半の経済学者はルーカス批判(the Lucas Critique)については自覚しているものの、多く(の経済学者)はその含意に関してまでははっきりとは捉えきれていないままである。「真の」乗数(“the” multiplier)や「真の」構造的失業率(“the” level of structural unemployment)を推計しようと試みる研究を目にする機会はしばしばあるが、実のところ乗数や構造的失業率といったものは安定的なパラメーターではなく、むしろ政策レジームに大きく影響されるものなのである。例えば、財政乗数は中央銀行(金融政策を司る政策当局)が政府の(財政政策上の)決定にどのように反応するかに依存するのであって、もし中央銀行が特定の水準(あるいはレンジ)のインフレ率の達成にコミットしており、ターゲットとして掲げられたインフレ率を達成すべく金融政策が運営されるものとすれば、財政乗数はゼロということになるだろう。

同じ理由から、循環的失業と構造的失業とを厳密なかたちではっきりと区別することはできないのである。例えば、アメリカにおける構造的失業率がヨーロッパの水準に肉薄するほどまでに上昇したことが事実だとすれば、その理由の一部は失業保険の給付期間が26週から最大99週に延長されたことや最低賃金が不況に突入する前よりも40%ポイント以上も上昇したことに求められるかもしれないが、もしそうだとしたら総需要を刺激することでは失業率を引き下げることはできない、ということになるのだろうか? いや、そうとは言えないだろう*3。というのも、失業保険の給付期間自体が内生的な変数だからである。景気刺激策の結果として総需要が大きく押し上げられることになれば、これまでの景気回復局面において見られたのと同じように、議会が失業保険の給付期間を再び26週に戻すよう決定する可能性は高いのである*4。同様に、総需要が急速な伸びを見せるような状況では実質値で測った最低賃金は低下することになるだろう*5。このように総供給と総需要とはあまりにも複雑に絡み合っているのであるが、これまで多くの経済学者はこの点を十分には認識してきていないのである。

現在の経済学の知識水準では構造的失業率がどのくらいのレベルにあるかをリアルタイムで特定することはできない状況である。また、万一構造的失業率をリアルタイムで特定することができたとしても、ルーカス批判が示唆するように、構造的失業率は政策レジームが変更しても不変のままに保たれるパラメーターではないのである。我々が1970年代の経験から学んだことが何かあるとしたら、それは構造的失業率や循環的失業率の推計に基づいて金融政策を決定すべきではない、ということである。その代わりに政策当局者は物価水準のような名目的な変数をターゲットにして政策運営に臨むべきなのである。ここで私の個人的な見解を述べさせてもらうと、名目的な変数をターゲットにする場合には、純粋なインフレーションターゲットよりは名目GDPターゲットの方が望ましいと言えるだろう。というのも、名目GDPターゲットのほうが純粋なインフレーションターゲットよりも総供給ショックに対処する上で優れており、また、名目GDPターゲットのほうがアメリカをはじめとした各国の金融政策当局に課せられている「2重の政策目標」(“dual mandate”)に沿ったものと言えるからである。名目GDPターゲットという尺度に照らすと、2008年後半以降のアメリカ、ヨーロッパ、日本における金融政策はあまりにも過度に引き締め的であった、ということになろう。


(追記)関連する議論として以下も参照のこと。

●Kent Matthews, Patrick Minford and Ruthira Naraidoo, “Vicious and Virtuous cycles – the political economy of unemployment in interwar UK and US”(VOX, July 9, 2008)

*1:訳注;スラック≒需給ギャップ

*2:訳注;マーケットにおけるインフレ予測によれば、マーケットはBISとは違ってこの先インフレ率が高まるとはみなしていない=将来的なインフレの可能性を脅威とはみなしていないようである、ということを指摘したいのだろう。

*3:訳注;失業保険の給付期間の延長や最低賃金の上昇を原因として失業率(構造的失業率)が上昇したとしても総需要を刺激することで失業率を引き下げることはできる、ということ。

*4:訳注;総需要の増加→(議会による)失業保険の給付期間の短縮(の決定)→構造的失業率の低下

*5:訳注;総需要の増加→(インフレ率の上昇→)実質値で測った最低賃金の低下→構造的失業率の低下