「ストーリーを疑う;ストーリーとうまく付き合う方法(2)」


コーエンのTED講演の訳続き(その(1)はこちら)。ストーリーが抱える第1の問題点(「ストーリーはあまりにもシンプルすぎる」)について。

さて、それではストーリーにどっぷりと寄りかかって思考することにはどのような問題があるのでしょうか? 多くの人々は自分の人生をごちゃごちゃしてとっ散らかったものとしては捉えずに、「人生とはこれこれ(旅、バトルetc)である」と捉える傾向にあるわけですが、あまりにも過度にストーリーに頼って思考することにはいくつかの問題があると私は考えております−本日は大きく3つの問題を指摘させていただきます−。まず第1の問題というのは、ストーリーはシンプルになり過ぎる傾向があるということです。ストーリーのポイントは細かい部分を削ぎ落していくことにあります。その結果として、ストーリーは18分間の尺*1に収めることも、わずか一つか二つの文章で伝えることだって可能になる−実際、大半のストーリーはそうです−わけです。詳細(ディテール)が削ぎ落されたシンプルなストーリーとしては、「善vs悪」(good vs. evil)のストーリー*2−自分の人生に関するストーリーの場合もあれば、政治に関するストーリーの場合もあることでしょう−があります。みなさんも心当たりがあるかとは思いますが、世の中には「善vs悪」といった枠組みで捉えることが可能な物事もあるにはあります。しかしながら、私たちはあまりにも「善vs悪」のストーリーに頼りがちなのではないかと私には思えてならないのです。そこで、「善vs悪」のストーリーを語るたびに自分のIQが10ポイント程度低下することになってしまうと想像してみてはいかがでしょうか。このヒューリスティックを身につけてしまえば、たやすく賢くなる方法を身につけたようなものです。本なんて読む必要はありません。「善vs悪」のストーリーを語るたびに知らず知らずのうちに脳内のどこかにあるボタンを押してしまっており、そのボタンを押してしまったがためにIQが10ポイント程度低下してしまう。そのように想像するだけでよいのです。

人気のあるストーリーは他にもあります。オリバー・ストーン(Oliver Stone)監督やマイケル・ムーアMichael Moore)監督の映画はご存知でしょうか? 「すべてはまったくの偶然だったのだ」( "It was all a big accident.")なんていうストーリーラインの映画はあり得ません。映画には陰謀や共謀がつきものです。というのも、ストーリーというのは意図(intention)を軸に展開されるものだからです。自生的秩序や人間社会における複雑な慣習・制度−人間の行為の産物ではあるが人間の意図の産物ではないもの−といったものはストーリーとはなじみません。悪人たちの共謀、ストーリーとなじむのはこういった話題です。陰謀やたくらみに関するストーリー、共謀−悪人たちによる共謀だけではなく、善人たちによる共謀というケースもあるでしょう−に関するストーリー、そういったまるで映画のようなストーリーを耳にした時にこそ、疑いの目をもって臨むべきなのです。「ストーリーに対して特に疑いの目をもって臨むべき時というのは一体いつなのでしょうか?」という質問に対しては次のように答えておきましょう。ある話を聞いて、「おお、この話を映画にしたらさぞかし素晴らしい映画になるだろうな」と感じた時こそ特に疑い深くなるべきなのです。「おお、この話を映画にしたらさぞかし素晴らしい映画になるだろうな」と感じると同時に「おっと」("uh-oh")というリアクションが自然と湧き上がり、この話をもう少し複雑にしたらどうなるだろうとの考えが自然と頭に浮かぶように備えておくべきなのです。

「我々は〜に対して毅然と立ち向かわねばならない」(we "have to get tough")との主張を伴うストーリーもまたありふれたものです。この主張は非常に多様なコンテキストにおいて語られます。「銀行部門に対して毅然と立ち向かわねばならない。」("We have to get tough with the banks.")、「労働組合に対して毅然とした態度で立ち向かわねばならない。」("We have to get tough with the labor unions.")、「かの国、かの国の独裁者、交渉相手に対して毅然と立ち向かう必要がある。」("We need to get tough with some other country, some foreign dictator, someone we're negotiating with.")、といった具合に。注意しておきますが、私は毅然と立ち向かうことそれ自体に反対しているわけではありません。私たちは時に毅然と立ち向かうべき状況に直面することがあります。かつてナチスに対して毅然とした態度で立ち向かったことは正しい行動だったでしょう。しかし、私たちはあまりにも安易に、あまりにも性急に、「〜に対して毅然と立ち向かわねばならない」と主張する傾向にありはしないでしょうか? なぜそのような事態が生じたのか理由がよくわからない時、我たちは(その事態を引き起こした真犯人として)誰かをやり玉に挙げて非難し、「やつ(やつら)に対して毅然と立ち向かう必要がある」("We need to get tough with them !" )と語る傾向にあります。あたかも自分の前任者(先祖?)の心中には「〜に対して毅然と立ち向かわねばならない」との発想が思い浮かぶことはなく、自分だけがそう思いついたかのように語るのです。「〜に対して毅然と立ち向かわねばならない」との主張に安易に寄りかかる傾向は精神的な怠惰を示すものであると私は考えています。「〜に対して毅然と立ち向かわねばならない」と主張する時、私たちはシンプルなストーリーを語っているのです。「我々は毅然と立ち向かう必要がある。我々はかつて毅然と立ち向かう必要があった。我々は今後毅然と立ち向かう必要があるだろう。」("We need to get tough, we needed to get tough, we will have to get tough.")。このような主張はシンプルなストーリーが語られていることを示す警告サインなのです。

*1:訳注;TED講演のスピーチ時間

*2:訳注;「善vs悪」といった二項対立的な図式に沿って語られるストーリー