「セントラルバンカーに告ぐ。いつまでもぐずぐずするな。行動せよ。」
コーエンの講演の訳の途中ですが、一回休憩を挟む感じでポーゼンの論説を訳してみたり。
●Adam Posen, “Central Bankers: Stop Dithering. Do Something”(New York Times, November 20, 2011)
アメリカ経済も世界経済もともによく知られた障害に直面しつつある。その障害というのは、政策における敗北主義(policy defeatism)である。近代の経済の歴史を振り返ってみると、1920年代の西ヨーロッパであれ1930年代のアメリカであれ1990年代の日本であれ、主要な金融危機を経験したいずれの国においても、持続的な景気回復を実現する上で必要な景気刺激策が早まって*1放棄―反転とまではないかなくとも―されてきた。悲しいかな、世界経済はこの同じ過ちを繰り返しつつあるように見える。
今現在なすべき正しい行動は、FedやECBがさらなる金融刺激策に乗り出すことである。短期金利をこれ以上引き下げることができないとすれば*2、FedやECBは政府債券の大量購入に乗り出して(Fedの場合は、政府債券の大量購入プログラムを再開して)、長期金利の引き下げと投資の刺激とを促すべきである。
実のところ、FedやECBが行動するタイミングは熟している。現下の不況の性質や政府支出が削減されている現状、そして世界全体が同時に経済上の問題を抱えている現実を前提とすれば、この先の経済見通しはこれまでの歴史的な証拠に基づく予測から示唆されるのと同程度に厳しいものとなることだろう。今のこの状況下においては高率のインフレーションは懸念すべき脅威ではない。
多くの人々が指摘しているように、輸入と輸出との間、消費と貯蓄との間、税額控除とインフラ再建との間、金融部門とその他の経済部門との間において(輸出の比重が増す方向に、貯蓄の比重が増す方向に、(財政資金の使途として)インフラ再建の比重が増す方向に、経済全体に占める金融部門の割合が低下する方向に)それぞれバランスが取り戻される必要があるのは確かだ。バランスが取り戻される過程においては、古い産業や活動から新しい産業や活動に向けて資本が移動する―つまりは、新しい産業に対する投資が増加する―必要があることだろう。先行するブーム期においてなされた「投資」の多くは誤配分された―浪費された―資本だったのであり、多くの生産的なプロジェクトは無視されてしまっていたのである。
しかしながら、経済の先行きに対する不確実性のために、投資は差し控えられているのが現状である。また、それに加えて、民間部門が抱える巨額の債務のために、経済が投資家を惹きつける能力には制約が課されている。言い換えると、債務問題(financing problem)が経済のリストラクチャリングを妨げているのである。民間部門が抱える債務問題を和らげ、投資家の信頼を回復すること、金融刺激策が果たす役割はまさにこの点にある。
「金融緩和策は経済のリストラクチャリングを妨げることになる」との主張を耳にすることがあるが、これははっきり言ってよく意味がわからない(理解できない)主張だ。「金融引き締めが景気回復にとって必要な「創造的破壊」を促進するのだ」とも主張されることがあるが、現実はどうもそうなってはいないようだ。
例えば、1990年代の日本は、金融刺激策が不十分であったために「ゾンビ企業」―当時民間の銀行は、非生産的な借り手である「ゾンビ企業」向けのローンに生じた損失を負担する余裕がなかった―への貸出がいつまでも温存される*3状況に置かれていた。そして、今世紀はじめの10年間においてマクロ経済政策のおかげで日本経済に景気回復がもたらされるようになってはじめて、ゾンビ企業のもとに滞留していた資本が成長力のある新たな企業のもとへと移動を開始することになったのであった。同様に、S&L危機後のアメリカで悪い(bad)銀行や借り手から価値ある投資プロジェクトに向けて信用の再配分が本格的に生じたのは1980年代後半のこと、金融緩和策が採用されて以降のことであったのである。
政策における敗北主義は、広く信じられているものの間違っている以下のような信念によっても支えられている。すなわち、経済を刺激するためにこれまでに試された「非伝統的な」("unconventional")政策上の努力はほとんど効果がなかった、あるいは、現在同様の努力がなされたとしても効果を生みそうにない、との信念である。確かに、幾度にもわたって「非伝統的な」刺激策が試みられたにもかかわらずアメリカ経済は完全な回復を見せることはなかったというのは事実であるが、この事実は「非伝統的な」政策には全く効果がなかったことを示す証拠ではないのである。
我々は、客観的な事実として、中央銀行による貨幣の(市中への)注入と長期金利の低下との間には密接な関連が見られたこと、金融刺激策の実施後に危険資産の相対価格が上昇したこと―危険資産の相対価格の上昇は危険資産への需要が増加したことを示唆している―、量的緩和の実施後に民間銀行への預金預け入れが増加し、投資家や家計の信頼が回復したこと、を知っている。これら一連の出来事*4が相まって景気刺激効果−通常時における政策金利の引き下げがもたらすだろうと期待されるのと同様な景気刺激効果−がもたらされることになったのである。
医学上の研究によれば、高血圧ならびに高コレステロールと心疾患や脳卒中のリスクとの間には何らかの関連があること、ある特定の処方を受けることでコレステロール値や血圧が低下すること、がわかっている。確かに、その特定の処方に基づいて用意された薬を服用すれば心疾患や脳卒中を予防できると証明するのは困難であり*5、また、その薬を服用すれば健康が保証されるというわけでもない。しかし、心疾患や脳卒中を予防したければ我々はその薬を服用すべきであり、医者は(コレステロール値や血圧を低下させる効果を持つと期待される)その薬を処方すべきである。金融的なリスクにされされている我々の経済も(心疾患や脳卒中のリスクを抱えている患者と)似たような状況に置かれているのであり、そのリスクに対処する上で効き目がありそうな薬が量的緩和なのである。
私の個人的な意見では、我々はもっと踏み込んだ行動をとることもできるのではないかと考える。中央銀行と政府とが互いの行動をコーディネートして、世界経済の足を引っ張っている債務問題の解決に向けて歩調を合わせた行動をとることもできるのではないかと考えるのである。アメリカのケースに関して言うと、債務不履行に陥ったモーゲージ・ローンの問題−金融システムの脆弱化を招き労働市場の流動性を低下させることを通じて実際の成長を鈍化させているばかりか潜在的な成長力自体を弱体化させる要因ともなっている問題−解決に向けて中央銀行と政府とが協働してはどうかということである。今や、Fedと選挙で選ばれた議員とが住宅ローン債務の問題を共同で解決するためにはどうしたらよいのかその方法を検討すべき時なのである。
独立性を有する中央銀行のセントラルバンカー*6は、政府が打ち出す提案に対して支持を表明することに非常に神経質になる傾向にある。特に、政府提案への支持が政府債券を購入することへの同意を伴う場合においてそうである。しかし、政府とあまりにも密着し過ぎているのではないかとマーケットや一般国民から見なされることを恐れて「独立した」セントラルバンカーが行動を控える、特に危機の時代に建設的な行動に乗り出すことを控えることで、悲劇が生み出されてきたのである。
例えば、1990年代の日本の長引く不況はそのような消極的で受け身の態度(passivity)の結果としてもたらされたものであった。2002〜2003年にかけて日本銀行と財務省とが相互不信を乗り越え、公然と協働するようになってはじめて、日本に持続的な景気回復がもたらされることになったのである。この日本の事例にとどまらず、中央銀行と財政当局との相互不信ならびに「独立した」セントラルバンカーが抱く恐れ−政府とあまりにも密着し過ぎているのではないかとマーケットや国民から見なされることへの恐れ−は、今まさにユーロ圏経済を大惨事の瀬戸際に追いこみつつあるのである。
「中央銀行の独立性」というのは、評判(reputation)の問題ではなく、現実あるいは事実(reality)の問題である。中央銀行が実際に何をするかというのが問題(中央銀行の実際の行動が問題)なのであって、混乱に見舞われている経済や政治の現実から距離を置くことであたかも「独立している」かのような外見を保ち得ているかどうかは問題ではないのである。民間の債券であれ、政府債券であれ、債券を購入するという選択が中央銀行自身の自発的な判断に基づくものであり、明確で確立された政策目標を達成する上で正当化し得る選択であるならば、中央銀行が債券の購入に臨んだとしても(中央銀行の)インフレファイターとしての信頼性(credibility)が損なわれることはない。FedやECBが利用可能な手段を用いて危機に対応することになれば(BOEが既に動き始めているように、大規模な債券購入に臨むなどして)、中央銀行のインフレファイターとしての信頼性は(損なわれるどころかその逆に)さらに高まることになり、その独立性は(弱められるどころかその逆に)将来的に強化されることになるだろう*7。
セントラルバンカーが金融政策の面で正しきことをすべて行ったとしても(どれだけ誠心誠意を尽くしても、おそらくは正しきことをすべて行うことは難しいだろうが)、依然として解決されないままの経済問題もおそらく残されることだろう。しかしながら、事態の改善に向けて自らがなし得る行動をなすことは、セントラルバンカーの責任であり、義務であるのである。
これまでセントラルバンカーは、もしさらなる金融刺激策に乗り出したら、マーケットや政治家、一般国民から自らがどのように見られるようになるだろうか(どのように評価されるだろうか)、ということにあまりにも多くの時間を費やして心を砕いてきた。たとえ成果が表れるまでに時間がかかるとしても、セントラルバンカーは時に正しい行動をなさねばならない。経済の将来見通しは厳しい。それにもかかわらずもしさらなる金融刺激策が実施されないようであれば、我々の経済ならびに我々は回避可能ではあるがこのまま何もなされなければ今後も継続する可能性のある損害に苦しめられることになるだろう。
*1:訳注;持続的な景気回復がまだ定着しないうちに
*3:訳注;あるいは、追い貸しを通じて「ゾンビ企業」の延命を図らざるを得ない
*5:訳注;あるいは、その薬を服用すれば心疾患や脳卒中が予防されるとは必ずしも言えず
*6:訳注;以下、「独立した」セントラルバンカー、と略
*7:訳注;このパラグラフの内容に関するもう少し詳細な議論としては、例えば以下のスピーチを参照。Adam Posen(2010), “When Central Banks buy Bonds - Independence and the Power to say No(pdf)”(Barclays Capital 14th Annual Global Inflation-Linked Conference, New York, June 14, 2010)。本スピーチはtmpsoulcageさんが部分的に訳されているのでそちらも参照。