「ストーリーを疑う;ストーリーとうまく付き合う方法(3)」
コーエンのTED講演の訳続き(その(1) / その(2))。ストーリーが抱える第2の問題点(「ストーリーは時に相反する複数の機能を果たす」)について。
次に、ストーリーが抱える第2の問題に移りましょう。私たちは一度に−あるいは一日のうちに、あるいは一生のうちでさえも−それほど多くの数のストーリーを心のうちに抱え込むことはできません。そのために*1、同じストーリーが非常に多くの目的のために利用される*2、ということになってしまうのです。例えば、私たちは朝ベッドから起き上がるよう自らを駆り立てるために、「私の仕事は非常に重要なものであって、私がこれから取り掛かろうとしていることは非常に価値があることだ」−たぶん重要なんでしょうけれども−とのストーリーを自分自身に向けて語りかけているわけですが*3、それほど重要ではないことに取り掛かる際にもこの同じストーリーが自らに向けて語られる*4ということがあるのです。このストーリーはうまく機能している(好ましい働きをしている)と言えます。何といってもこのストーリーのおかげで毎朝私たちはベッドから起き上がることができているわけですから−確かに一種の自己欺瞞(self-deception)ではありますが−。問題はこのストーリーを変更しようとする時に生じます。ストーリーをつかみ取り、それをしっかりと握りしめることで、私は(しっかりと握りしめているそのストーリーのおかげで)ベッドから起き上がることが可能になっています。ところが、私の人生−ごちゃごちゃしてとっ散らかっている人生ですが−において時間の浪費でしかないことに精を出している時、毎朝私をベッドから起こしてくれるこのストーリーによって私は縛られているのです。心の中に複数のストーリーからなる複雑な地図を持ち、目的に応じて適宜ストーリーを選別・組み合わせて・・・というのが理想なのでしょうが、ストーリーというのはそのように機能するものではありません。ストーリーが機能するためには(ストーリーは)シンプルでなければなりません。容易に理解することができ、容易に他人に伝えることができ、容易に思い出すことができなければならないのです。そういうわけで、ストーリーは相反する複数の機能を果たし、時に私たちを堕落に向けて誘うことがあるのです。私の個人的な話をさせていただきますと、かつて私は自らのことを「経済学者のグループの一員であり、善良な人間の一人であり、他の善良な人々と共に活動し、悪漢のアイデアに敢然と立ち向かう」存在として思い描いていたものです。おそらくは私は間違っていたのです。たぶん、ある問題に関しては私は善良な人間の一人といってよかったでしょうが、別の問題に関してはそうではなかったでしょう。最終的に「私は善良な人間の一人ではなかったのだ」と悟ったこともありました。善良ではないといっても悪意を持っていたという意味でそうだったのかどうかはわかりませんが、私にとって「私は、経済学者のグループの一員であり、善良な人間の一人であり、他の善良な人々と共に活動し、悪漢のアイデアに敢然と立ち向かう、そんな存在である」というストーリーから逃れることは非常に困難だったのです。
さて、人間が抱える認知的バイアス(cognitive biases)の話題に関連して興味深いことがあります。ここ最近、認知的バイアスをテーマとした一般向けの書籍が数多く出版されているわけですが−『Nudge』、『Sway』、『Blink』などなど−、この種の本が明らかにしていることというのは、簡単に言ってしまうと、私たち人間がどのようなメカニズムを通じてヘマを犯すのかということです。私たちがヘマをしてしまうメカニズムはそれこそたくさんあるわけですが、この種の本を眺めていて興味深く感じるのは、人間がヘマを犯すに至るメカニズムのうちで私にとって最も中心的で重要だと思われるものに触れている本が一冊もないということです。つまりは、私たち人間がストーリーを通じて思考しがちであり、あまりにも容易にストーリーに惹きつけられがちな傾向を持つことにどの本も目を向けていないのです。どうしてなのでしょうか? その理由はこの種の本それ自体がストーリーだからなのでしょう。この種の本を読むことで読者は自らが抱える(本の中で取り上げられている)いくつかの認知的バイアスに気付くことができるわけですが、それと同時に(本の中では取り上げられていない)他の認知的バイアスを悪化させることになってしまうかもしれません*5。つまり、認知的バイアスを明らかにしている本自体が読者の認知的バイアスの一部となっている可能性があるわけです*6。この種の本を購入する理由は人によって様々でしょうが、一種のお守り(talisman)のようなものとして購入するというケースもあることでしょう。「この本を買うことで『予想どおりに不合理』な状態から逃れることができる」というわけです。最悪の事態に対してあらかじめ精神的に備えておくために、あるいは、最悪の事態から身を守るために、最悪の事態について聞きたがる−悲観論が人気な理由もこのあたりにあるのでしょうが−というのと似ていると言えるでしょう。しかしながら、本を購入することでどうにかうまくやり過ごすことができる*7という発想は大いなる誤謬であるかもしれません。この度の金融危機がその証拠の一つを提供していると言えますが、最も危険な人物は金融リテラシーを学んでいた人々でした。彼らは身につけた金融リテラシーを引っ提げてマーケットに足を踏み入れ*8、そして最悪の間違いを犯してしまったのでした。一方で、金融危機をうまくやり過ごした*9のは「その手のことについては何にも知らない」と悟っていた人々だったのです。
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*1:訳注;自分自身に対して語りかけることができるストーリーの数(あるいは、一度に関心を寄せることができるストーリーの数)に限りがあるために
*2:訳注:あるいは、同じストーリーが様々な行動の動機づけとして機能する
*3:訳注;「私の仕事は非常に重要なものだ」とのストーリー(あるいは思い込みw)が人を奮い立たせて仕事に向かう(+励む)よう促す動機づけとなっている、ということ。
*4:訳注;「これから私が取り掛かろうとしていることは非常に価値があることだ」とのストーリーが人を奮い立たせてこれから取り掛かる予定のどうでもいいことに没頭するよう促す、ということ。
*5:訳注;その理由を訳者なりに考えるに、本の中で取り上げられている特定の認知的バイアスにばかり注意が向くようになってしまう結果として、本の中では取り上げられていないその他の認知的バイアスに対する注意が疎かになってしまうため。
*6:訳注;ある特定の認知的バイアスを明らかにしている本自体が読者の(本の中では取り上げられていない)他の認知的バイアスを促す(あるいは他の認知的バイアスに対して読者を無防備にしてしまう)結果になる可能性がある、ということ。
*7:訳注;このケースでは、どうにかうまくやり過ごすことができる=認知的バイアスから逃れることができる
*8:訳注;金融投資に乗り出し