インフレによる損失

現実には個々の貨幣賃金の下落をもたらすことなしに、たとえば(効率性の観点から望ましいと思われる)相対賃金の変化を容易にするという点で、低率のインフレーションは、少なくとも時には実際に長所をもつことさえも認めうる。しかし、この長所自身も、それが長所であるのは、貨幣価値に対するある種の信頼に依存している。重要なのは低いインフレ率であるということである。インフレーションが目立つ程度になってくると、ここですでに説明したような効果によって長所は圧倒されるに違いない。(『経済学の思考法』(第?章 予想されたインフレーション)、p151)

穏やかなインフレ率=相対賃金の調整を容易にするという議論はアカロフ命題<パート1>と軌を一にするものである。穏やかなインフレ率は効率性の観点から見て望ましい。しかしながら、インフレ率(予想されたもの/予想されざるものにかかわらず)が高率になるにつれ、経済的な損失が徐々に顕著なものとなってくる。高率のインフレーション(特にハイパーインフレーションの場合)により、「貨幣は価値の貯蓄手段としての機能を失い、資源をやむを得ずより不便な形で保有することによって、他の方法で「便宜と安全」への必要性を充たさざるをえなくなる」。価値貯蔵手段として新たな資源を探索することは、非生産的な活動に時間を浪費することを意味し、その結果として経済の効率性を低めざるをえないであろう。また、頻繁に価格を改定せざるをえない高率のインフレーションのもとでは、価格が充たすべき二つの基準―経済効率と公正さの基準―のうち後者の基準を満足することが困難であるために「平静さを害する損失」を招くことになる。すなわち、

不完全な市場では、価格は「契約される」・・・。もし慣例が大いに利用しうるのであれば、すなわち、以前受け入れられたことは再び受け入れられるという仮定で出発しうるならば、(それが公正であるがゆえに)関係する当事者にとって満足しうるように価格を決めるのが、はるかに容易である。・・・持続的なインフレーションの下で行わなければならないように価格を新しくつけかえ、絶えず新しくつけかえ続けることは、損失、直接的な経済的損失と(きわめてしばしば)平静さを害する損失とをまねく。(同上、p150〜151)

価格が公正である(と認識される)ためには、その価格が慣習的是認を受けている必要がある。しかし、高率のインフレーションの下では価格が頻繁に変更されるために慣習的是認を獲得するだけの十分な時間的余裕が存在しない。高率のインフレーション下では公正な価格体系を確立することは困難な作業であり、公正な価格体系の確立に失敗することは労働者のモラル低下等による経済効率の低下につながる可能性が大きい(これこれも参照のこと)。

インフレ率が高率になることによって生じる経済的損失としてはもう一点考え得る。

「特定の時点において」、企業活動のバランス・シートを吟味するならば、資産のなかに利子を生まない貨幣のみならず、利子が支払われないような債務〔証書〕が存在していることに気がつく。・・・継続的な顧客が負う債務は、それだけ切り離してみられない。それは、顧客と売り手にとって好都合なやり方で維持するのが両者にとって利益が生ずる継続的な関係の一部である。・・・(すでにみたように安定的なインフレーションにおいて生ずるに違いない)高い名目利子率の下では、無利子の債務に含まれる利子の損失を大きくする。そうでなければ債務者にかける必要のなかった圧力をかけ、債務を早く返済させるよう労を惜しまないことが引き合うようになる。このような圧力をかけることは、労働時間で測りうる実質的な損失である。

・・・もしインフレーションが非常に穏やかな率以上ではあるが一定に保たれるとするならば、金融引締めに似たことが例外的ではなく絶えず生じていることを示しているように思われる。(同上、p152〜153)

インフレ率が穏やかな範囲にあるときには相対賃金の調整が容易になることから経済効率が高まることになる。しかしながら、インフレ率が上昇するにつれて経済的な損失が頭をもたげだし、経済効率にネガティブな影響を及ぼすようになる。経済効率と(自然)失業率の間に1対1のパラレルな関係(経済効率の悪化=(自然)失業率の上昇)を想定しうるかどうかには慎重であらねばならないが、ヒックスのこの議論は後方屈折型の長期フィリップス・カーブの存在を指摘するアカロフ・中谷命題と補完的なものとして捉え得るのではないだろうか。