公平賃金仮説をたずねて(補足)

ちょっとばかり余計な補足をば。

(相対)賃金体系が公平であると感じられるためには慣習的な是認を得ている必要がある、とのことですが、これは長期間にわたる物価安定が実現されている(ないしは安定したマクロ経済環境が維持される)状況において公平な賃金体系の確立が可能になる、と言い換えてもよいかと思われます。好況と不況の振幅が大きい不安定な景気変動は循環過敏的(cycle-sensitive)な業種の賃金変動を大きくすることにより、公平であるとみなされていた(相対)賃金体系を覆してしまう危険性を有します。ブームが長引けば、循環過敏的な産業で始まった賃金上昇は(高賃金を求めて非拡張的産業から拡張する産業へと)労働移動を惹起することによって(労働不足に直面するために)非拡張産業にまで波及し、非拡張的産業(特に賃金の上昇が波及していない部門の)の労働者たちは「自分たちは取り残されている」と感じるために賃金引き上げを要求するようになります。上昇してゆく賃金に自分たちの賃金を「追いつかせようとする」圧力は、「よき労資関係」を維持しようと心がける雇用者に賃上げを容認させ、結果として労働不足に加えて不公平のために賃金が上昇してゆく状況が一般的なものとなります。一度公平な賃金体系が覆されてしまうと労働が不足していようがいまいが、不公平感を和らげようとする社会的圧力(「すべてひとが、なにやかやと比較して、自分は取り残されていると感じる」)によって賃金は上昇してしまうのです(ヒックスは1960年代後半〜70年代前半当時のスタグフレーション(正確にはスタグフレーションという言葉が生まれる直前の時期)を念頭において議論を展開している。詳しいことは別の機会に言及するかもしれないが、「賃金プッシュ」がインフレを生んだ、という単純な関係を想定しているわけではない。以前取り上げたDeLongの議論と非常に似通った問題意識を有しており、過度の景気刺激策(←ケインズ理論の影響によって政策の優先性の順序が(価格・賃金の安定性から雇用の維持へと)変わってしまったためである)こそが元凶であると考えている)。

公正な賃金体系にも問題は存在します。確立された公平賃金体系は賃金の粘着性を生むからです。雇用者は労働力が不足したからといって賃金を引き上げるようなことはしません。安易に賃金を引き上げてしまえば、長い時間を経て確立された賃金格差を覆してしまうからです(確立されたものが一度破壊されれば、上述したように公平を求める社会的圧力を生み出すことになってしまいます)。また、失業が存在していても雇用者は賃金を引き下げようとはしません。「賃金を切り下げれば、雇用者は引き続き雇用している人びとと疎遠になってしまうから」です。

賃金の「粘着性」は「貨幣錯覚」と関係する問題ではない。それは連続性と関わる問題なのである。もちろんそれは、労働組合の標準賃金(standard rates)によって強化されるだろう。しかし、たとえ労働組合の圧力がなくとも、同一方向への傾向が存在するはずである。(『ケインズ経済学の危機』、p92)

(個別企業の観点からばかりではなく社会全体(他企業・他産業との賃金格差を維持しようとするわけであるから)を見渡した上での)現存の労資関係を円滑にせんとする努力は失業者に対する逆風となります。賃金が粘着的になる(この場合は下方硬直的になる)ことによって(雇用者は「引き続き雇用している人びと」に配慮して賃下げに躊躇するからです)、失業者がヨリ低い賃金で働く意思を有していても職を獲得できるわけでは必ずしもないからです。労資間で共有される公平(fair)の感情は失業者の犠牲の上に成り立っている、とも言いうるわけです。