最後の『冬ソナ』論

田中秀臣著「最後の『冬ソナ』論」(太田出版、2005年)

御多分に洩れず(?)、「冬ソナ」をはじめとする韓国ドラマ(一つも見てないかもしれない。申し訳ないですm()m)は未見でして、物語に秘められた暗示や隠喩を読み解くその見事な手綱さばきを評価する正当な資格があろうはずがなく、また映像を頭に思い浮かべつつ議論の展開を堪能するまたとない楽しみ(=「なるほど、あのシーンにはそういう意味が込められていたのか」とはたと膝を打つチャンス)もみすみす逃してしまう格好となってしまいました(例外的に一箇所だけ、「「脂ぎった顔で、ウェーハッハッハと嗤う」エコノミストという肩書きをもつ人物」(p10)の映像は脳裏に鮮明に浮かんできましたが)。本書を一読する前に少しだけでも「冬ソナ」を見ておくべきだったな〜、というのが唯一の心残りであります。え? そんな話はどうでもいい? そうですか。そうですよね。

自己の欲望・満足(性欲)の充足を目的とした(渡辺淳一的な)利己的な愛だけが愛の唯一の形ではなく、自己の犠牲(不利益)も厭わずに(=仕事や家族を犠牲にしてでも)他人を絶対的に信じ切る(他者への共感に根ざす)利他的な愛もまたれっきとした愛の形である。また「ひとりの人間のなかには多様な動機が同時に共存していてもなにも困らない・・・」のであり、「利己的な愛と利他的な愛がひとりの人間のなかになんの矛盾もなく両立することができる」(p60)。

利己的な愛を体現するサンヒョク・ミニョンには利己的な愛で、利他的な愛を体現するチュンサンには利他的な愛で、それぞれ対峙するユジンの行動の二面性(まるで「しっぺ返し戦略」のようだ。特にチュンサン→ミニョン→チュンサン(利他的→利己的→利他的)への対応の変遷(チュンサンが記憶を喪失しミニョンとなるや(相手が利己的な愛を選択すると)利己的な愛で応じ(応戦し?)、ミニョンが記憶を回復しチュンサンが蘇るや(相手が利他的な愛を選択すると)利他的な愛で応じる(報いる?)。次の言葉は示唆的である。「愛情ゲームのなかで彼女が主に採用する戦略は、無償の純愛という戦略なのである」(p65))や「冬ソナ」ブームを支えた背景―「配偶者選択モジュール」(=利己的な愛の原動力)が規定する中高年女性の構造的な恋愛デフレと利他的な愛に共感する「利他的選択モジュール」(=利他的な愛の原動力)の働きによって支えられた冬ソナブーム―を(ヨン様の性格設定もですが)丹念に観察・分析することによって著者が「冬ソナ」から導き出したメッセージである。

著者が「冬ソナ」から引き出したこのメッセージは、実のところ「愛を節約する」経済学のあり方とデフレ不況下にある現在の日本経済の両者に対する一つの警鐘となっている。「効率」という基準(自己にとっての便益>自己にとっての費用、ならば効率的)に基づいて行為を評価する傾向にある「愛を節約する」経済学(=行為の背後に利己的な動機(選好体系)のみを想定)では、利他的な動機(「利他的選択モジュール」)から発する行為により人々の間に構築される「信頼」関係(「自分の利益ではなく、無私の貢献をしているものに対して社会や周囲の人間はそれなりの評価を与える。この人は信用できる、と」。(p136))の重要性になかなか気づくことができず、そのため利他的な愛を体現したものとしての「日本的雇用システム」が果たす役割を十全には理解することはできない。雇用の継続を保証する「終身雇用制」や名目賃金の一定の上昇を約束する「年功序列賃金制度」は、「愛を節約する」経済学の立場からすれば経済合理性にかける非効率的な制度に見えることだろう(=賃下げや解雇が必要な状況において厄介な足かせとなるだけであり、また雇用の流動化(柔軟で流動的な資源の移転)を束縛するものでしかない)。しかしながら、経営状態が苦しい状況にあっても安易な首切りや賃下げ(=短期的な利益を追求する)を回避し、従業員の現状維持に尽力する経営者の利他的な愛の戦略は、従業員の経営者・会社に対する「信頼」や忠誠を引き出し、時に「会社人間」とも揶揄される無私の(滅私の)、言い換えれば利他的な行為を誘発する源泉となる。会社に対する「信頼」が存在するもとでは、従業員は関係依存型の(あるいは組織特殊的な)人的投資に積極的に乗り出すインセンティブを有し、結果として企業の生産性は向上していく(効率性にもプラスに働く)ことだろう。短期的な利益を追求する経営者の判断(=首切り、賃下げ(あるいは成果主義的賃金制度の導入);効率至上の利己的な行為)は、従業員との(長期的な)信頼関係を崩壊させ、従業員のモラルややる気はいやおうなく低下してゆくことになるかもしれない。人間は利己的な原理だけではなく利他的な原理によっても突き動かされているのであり、社会が(経済が)円滑に進行してゆくためには配偶者選択モジュールに加えて利他的選択モジュールが活躍しうる場を確保する必要があるわけである。

私が『冬ソナ』からあえて経済学に対する有意な意義を見出すとすれば・・・まさに利己的な原理と利他的な原理が補い合うということ、そして同時に後者のより相対的な強調にこそ求めなければならないだろう。(p136)

デフレないしは不況は経営者に短期志向ないしは利己的になることを強いることによって(経営体力が弱まることで解雇や賃下げに乗り出さざるを得なくなる)信頼関係の崩壊に手を貸すことになる(「終身雇用制」や「年功序列賃金」はマクロ経済が安定している結果として成立しうるものである)。デフレが長引けば長引くほど、経営者と従業員間の「信頼」の源泉たる利他的選択モジュールの活躍余地は狭まり、配偶者選択モジュールが利他的選択モジュールを淘汰する可能性がいやましに高まることになる。デフレ不況のもとで進行する利己的な原理の利他的な原理への侵食を食いとどめるためにも(両者のアンバランスを是正するためにも)、一刻も早いデフレからの脱却が必要である。

(追記)経済は効率と信頼・公正ないしは利己的/利他的な原理の共存によってヨリ円滑に機能するという議論は実はヒックスも主張している点である。労使間の信頼関係が醸成されるためには労働者が公平(fair)に遇されていると感じることが必要であり、公平な賃金体系が維持される結果として賃金は粘着的になるとヒックスは述べる。労働者の生産性に応じて賃金を頻繁に改定することは、確立された公平な賃金体系を揺るがすことにより労働者に不公平感を抱かせ生産効率を引き下げることにつながる。「いかなる価格体系も(賃金体系とまったく同様に鉄道運賃体系も)、経済効率性の基準とともに公平性の基準をも充たさなければならない」(『ケインズ経済学の危機』(ヒックス本は絶版ばかりだね〜(悲 )、p109)。

注記しておかなければならないことは、ヒックスは公平性の基準を充たすために価格が粘着的(固定的)になることの弊害をも十分に認識しているということである。長くなるが引用。

もし、価格(および賃金)がもっと安定していれば、万事がうまくいくはずだ、したがって、固定価格市場には、たとえかぎられた程度にもせよ安定性にそれが役立つのだから、積極的メリットがあるのだ、と。・・・しかし、それには、その反面、嘆かわしいデメリットがあることをも、私は十分に心得ている。私が主張しているのは、私がこれまでに論じてきた諸問題を心にとどめておくことが経済学者のなすべきことの一部分である、ということ―価格は配分機能だけでなく社会的機能をももっているのだということを経済学者は常に意識すべきだ、非常にはっきりと意識すべきだ、ということである。しかし、価格は、たしかに配分機能をももっているのであり、その配分機能を明らかにしてきたことが、経済学の主要な成果のうちの一つなのである。私は、われわれはその方向で学んできたことのすべてを捨て去るべきだ、などということを、いささかも述べているわけではない。われわれは、そのことをもしっかりと心にとどめなければならないのである。たしかにわれわれは、価格機構の自由な使用によって最適効率が達成されうるような世界は現実からはほど遠いものであることを、よく知らなければならない。しかし、だからといって、そのことは、経済効率を改善する―時おり言われるように、準最適化する―実際的方法を求めてわれわれがたえず努力したりすべきではない、という理由にはならないのである。このことは、先のこととまったく同様に、われわれの義務の一部分なのである。(『ケインズ経済学の危機』、p117〜118)

効率追求も公平の追求同様に重要だということです。