耐久財のディレンマ


部屋の整理をしていると森嶋通夫著『思想としての近代経済学』を発見。何気なしに読む。


思想としての近代経済学 (岩波新書)

思想としての近代経済学 (岩波新書)


経済学入門ないしは経済学史の最初の講義で紹介されて(佐和隆光著『経済学とは何だろうか』も同時に紹介されていたと思う)、純粋無垢で元気溌剌な若きHicksian(当時はヒックスなんてもちろん知らない。森嶋通夫と聞いてもピンともこなかった)は、講義終了後迷うことなく本屋に駆け込んだものだ(中古で買うなんて汚らわしい発想は持ち合わせておりませんでした。きっちり620円出して購入)。佐和本も一緒に出てきたということはその時同時に購入したのだろう。夢と希望に心躍らせ、やる気に満ち満ちた18の春。遠い昔の話です。


著者がこの本の中で取り上げるテーマは大きく分けて二つ。「ビジョンの充実―経済学と社会学の総合―」(第Ⅱ部の表題)と「反セイ法則」(「耐久財のディレンマ」)。当時は第Ⅱ部を熱心に何度も何度も読み返したようだ。あちらこちらに赤線が引いてある。一方で第Ⅰ部・第Ⅲ部は読んだ形跡が見つからない。新品同様の良質の状態である。


時代は流れてどうやら視野狭隘な人間に落ちぶれてしまったらしい。というのも、赤いページ(赤線まみれだから)は足早に、白いページは行きつ戻りつゆったりとしたペースで読み進んでいったからである。

これまでに概観した経済諸理論を総合すれば、次のような近代経済学の資本主義観が得られる。まず第一に、シュンペーターが力説したように資本主義は安定的でない。資本主義の発展コースは、「企業者」の創意と「銀行家」の勇断に・・・依存して、旧軌道から不安定的に離れ去り、飛躍的な大発展を遂げる。第二にそれはまた、ヴィクセルが見たように貨幣面で極めて不安定である。大きい革新が枯渇すれば、収益逓減の法則により、資本の生産力(したがって正常利子率)が低下するから、貨幣利子率は高位に取り残されて、下方への累積過程が生じる。これを是正すべく貨幣利子率を下げれば、下げ過ぎて上方向への転進が生じ、物価騰貴が生じる。・・・更にその上シュンペーター、ヒックス、ヴィクセルは、いずれもワルラスが残した「耐久財のディレンマ」を直視していない。彼らはワルラス同様、完全雇用均衡が成立しうると考えるが、そのためには非現実的な「セイ法則」を仮定するか、利潤率均等化の動きを無視しなければならぬ(p95〜96)。


資本主義はその成功のゆえに没落する、とかのシュンペーターは述べている。没落するかどうかはひとまず置いておくが、資本の蓄積が進み(耐久財の存在感が増し)経済的に豊かになるにつれて、当該経済は構造的な不均衡(貯蓄>投資)を抱えこみ不況と失業から逃れることがますます困難なことになってゆく。耐久財のディレンマによって資本財市場での価格調整が機能しなくなり「反セイ法則」(有効需要の原理)が現実のものとなるからである。

耐久財(テレビや冷蔵庫(消費財)、機械設備(資本財)等数回ないし数年にわたって繰り返し使用可能な財)には2つの市場が存在する。著者が例としてあげているように自動車には売買のための市場とレンタルのための市場がある。自動車がP円であり、レンタル料金がq円であるとき、手元にP円を保有している人は自動車を購入して運転を楽しむことができる(運転によるサービスをレンタルしているとも言える)と同時にレンタル市場を利用して収益を稼ぐことも可能である。P円で購入した自動車を一年間貸し出すと(減価償却率をδとすると)q−δPだけの収入を得ることができ、その時の収益(利潤)率は(q−δP)/Pとなる。レンタル業に乗り出さずとも収益を稼ぐことは可能だから(P円を銀行に預けたり証券に投資すればよい)、このレンタルによる収益率はその他の資産投資から得られる収益率と等しくなければならない(等しくなるよう調整が働く)。利子率をiとし、その他資産の収益率をこれで代表させると耐久財についての利潤率均等の条件 i=(q−δP)/P が得られる。

自動車の価格Pとそのレンタル料金qはそれぞれの市場で需給を均衡させる水準に決定される。ここで問題となるのは各市場で決定された均衡価格(P*、q*)が耐久財についての利潤率均等の条件をも同時に満たしうるかどうかということである。レンタル市場で需給を均衡させるレンタル料金がq*に決定され、また利子率が与えられると利潤率均等の条件から自動車価格P’が求められる。はたしてP’は自動車(売買)市場を均衡させる水準(P’=P*)でありうるだろうか。極めて偶然的な場合を除いてP’では自動車売買市場での需給は均衡しないであろう(価格Pが需給調整機能を放棄する)。つまりは利潤率均等の条件を前提する限り、レンタル市場・自動車売買市場が同時に均衡するのは困難なことなのである(「耐久財のディレンマ」)(ガレリャーニ(P.Garegnani)が同様の指摘をしているということをどこかで読んだ記憶があるんだが、はてさてどこだったかしら。ワルラスによる一般均衡の枠組みの下(正常利潤を含んだ費用方程式)においては諸資本財間の利潤率の均等を保証するメカニズムは存在しない、みたいな感じだったかしら )。

耐久資本財(機械設備)市場においてP’で需給が均衡しない場合(上で論じてきたことは耐久財一般にも妥当する;Pは新品の機械価格、qは機械の生産用役の価格(生産部門と機械保管部門の間に機械の生産用役のレンタル市場があると擬制的に考える)、p44参照)、資本財に売れ残り(需要<供給)や品不足(需要>供給)が発生する(需要の大きさが供給の水準を決定する「反セイ法則」)。「株式会社が発達するにつれ、大衆資本が動員された結果、大多数の資本家は企業経営とは何の関係もない人となってしま」い「資本家と企業者は独立にな」(p151)ると投資決定(資本財需要)と貯蓄(資本財供給)決定も独立になされるようになり、(第一次世界大戦後のように)「生産力は高水準だが停滞し、技術が発展する可能性は乏しく、したがって技術革新の余地はほとんどな」(p151)く「経済が発展して投資機会が少なくなると、資本財を供給しても、需要されるとは限らなくなった」(p231)。資本財供給は過少な資本財需要にあわせて抑制され、資本財生産産業の労働需要量や資本用役への需要量は減少、労働市場や資本用役市場には過剰供給(失業や遊休設備・予期せぬ在庫増)が発生する。労働市場で価格調整(実質賃金の下落)が行われる結果として過剰雇用は一掃されるだろう。しかしながら新たに失業した人々は「賃金下落により労働意志をなくして自発的に市場から退場した自発的失業者のようにも見えるが、それはもとをただせば、資本財に対する有効需要が少ないことにより、資本財を数量調整した結果生じた失業である。ケインズはこのような有効需要の不足に基づく失業は、一見自発的に見えても、彼のいう失業、すなわち非自発的失業として取り扱う」(p232)。


森嶋教授によれば「耐久財のディレンマ」が「反セイ法則」(過少な投資需要の大きさに生産(貯蓄)が圧縮される)を通じて大量失業の脅威を経済に及ぼすようになるのは経済発展の結果であるという。

資本蓄積が進行し、経済発展がなし遂げられるにつれ、投資機会の多くは実現済みのものとなり、少ししか投資機会が残されていなくなる。その結果、技術発展が急速に進行する例外的な時代を除いては、一般に投資需要は、余剰生産物(実物貯蓄)より遥かに小さくなる。「供給(貯蓄)はそれ自身に対する需要(投資)をつくる」という意味のセイ法則は満たされなくなる。すなわち資本蓄積、経済発展の必然的結果として、経済はセイ法則の時代から反セイ法則の時代に転換する。(p240)

反セイ法則が現実的に妥当し始めるのは「耐久財の持つ比重が、近代社会で大きくなったことと、生産力が増大したために耐久財について容易に生産過剰が起こりうるようになったから」(p47)であり、「異論もありえようが、私自身は、おそらくは第一次世界大戦前から、ほぼ(戦後には、全く)そういう時代になってしま」(p232)い、「戦間期および第二次大戦後を通じて、現実がセイ法則から遠ざかるにつれ、完全雇用均衡も実現不可能になったのである」(p233)。森嶋教授のこのような見方からは世界恐慌も反セイ法則(構造的な投資需要不足=デフレ期待による名目期待キャッシュフローの低迷が原因ではなく、資本蓄積による収益逓減の結果としての名目期待キャッシュフローの低迷が原因)が現実世界で猛威を振るった一例ということになる(p152〜153参照)。


経済発展の結果として資本の蓄積が進み豊かになると投資需要は低迷せざるを得ない。投資需要の不足は構造的なものである(根本的な打開策は投資ブームをもたらすようなイノベーションの実現。公共投資をするなり金利を低位に維持するなりして技術革新が実現するのをひたすら待つしかない)。現在の日本においてゼロ金利にもかかわらず一向に景気が回復しないのも投資需要が構造的に不足してるからなんでしょうかね? 日本が豊かすぎるのが原因なんでしょうか? イノベーションの実現を期待するしかないんでしょうか? 日銀さん、どう思います?