田中秀臣著『不謹慎な経済学』

不謹慎な経済学 (講談社BIZ)

不謹慎な経済学 (講談社BIZ)

アマゾンより本日到着。
毎度のごとく大変興味深く拝読させていただきました。詳しい感想は後日改めてエントリーできればなと考えておりますが、「おわりに」において述べられている田中先生の問題意識、

「経済的な問題に「弱肉強食・お金がすべて的経済学」の考え方で対処するのではなく、人間の行動の源泉たるコミットメントを緩和する方向で解決策を見つけたい―というのが僕のスタンスだ。」(pp.230)


という点は、私の解釈が間違っていないのであればコーエン(Tyler Cowen)のそれとかなり共通しているのではないだろうか、という印象を受けました。コーエンの問題意識って何? と尋ねられるといささか困ってしまうわけでして、その点はMarginal Revolutionに行ってコーエン自身に直接聞いてくれ、と責任回避したくなってしまいたくなるわけですが、私なりに勝手にコーエンの問題意識を解釈しますに、self-deception(自己欺瞞)の回避あるいは「特定の私」への過度の執着からの脱却、ではなかろうかと妄想するわけでございます(参考;Tyler Cowen, “Self-Deception as the Root of Political Failure(pdf)”)。おそらくこの点は『Discover Your Inner Economist』や『Creative Destruction』をはじめとしてコーエンの著作全体の基底に流れているであろうと推察されるわけでして(例えばグローバリゼーションが可能にする国内での文化的多様性の増大(=within variety)は、多様性の増大そのものが好ましいことに加えて、文化的多様性の増大=「違った私」になる機会と可能性との拡張、を意味するが故に好ましい、と理解している?;こちらも参考にしていただければ)、上で引用しました田中先生の問題意識と重なる部分が多いのではないかなあ、と早計にも感じてしまった次第なのでありました(第1章で論じられている旅をすることの持つ意味合いは、他者との比較からの脱却に加えて「私」自身を相対化する機能をも果すのかもしれない)。


(追記 3/3(月) ; 一週間遅れの感想文)

本の題名に負けず劣らず「不謹慎」な表紙―読者に向けて尿を発する小便小僧(至福の表情)が中央に鎮座されてらっしゃいます―をめくって目次を一瞥したならば抱くであろう第一印象は、良く言えば取り扱われている話題の多彩さ、悪く言えば内容におけるまとまりのなさ、といったものであろう。第一印象というにとどまらず、一読後も一体全体本書の「目玉商品」は何なのか、著者が本書の中で一番言いたい事が何であるのかがよくわからない、という意見もあるようである。話題の多彩さは、経済学というツールの柔軟性(あるいは汎用性)の高さを反映したものであり、またその柔軟なツールを自由自在に使いこなす著者の手際の見事さのあらわれであって何ら批判されるべきものではないが(むしろ著者の目配りの広さ、博識ぶりにはただただ驚嘆するばかりである)、確かに果たして本書を「一冊の本」と呼び得るかどうか、つまりはそれ自体としては興味深くはあるが相互に連絡を欠いた自己完結的な話題の寄せ集めではない「一冊の本」としてのまとまりを付与するようなテーマ、あるいは問題意識といったものが本書に存在するのかどうか、というとはなはだ疑問であると言わざるを得ない。


・・・というのは嘘で(文章の流れでそうなってしまっただけであって)、本書は間違いなく「一冊の本」である、と私は理解している。個々の話題の背後には本書にまとまりを与える一貫した問題意識が潜んでいると考えるのである。

では本書にまとまりを与えている一貫した問題意識(と私が勝手に受け取ったもの)とは何であろうか(本書の裏(あるいは真の)テーマについては田中先生ご自身によるこちらのエントリーを参照のこと)? それは(私の勝手な推測にしか過ぎないことは言うまでもない)、「理念」や「常識」に基づく安易な(そして時に道徳的な観点からの説教じみた)現実理解ならびに解決策への批判的態度であり、一方での経済学というツールの(現実を理解し、具体的で地に足の着いた解決策を見出すうえでの)有効性に対する強い信頼、といったものではないであろうか。「理念」や「常識」に無批判に引き摺られてしまうことへの警鐘、といってもよい。

・・・・なんて、まるで「普通なら見逃しちゃうところだろうけど僕だけにはわかってるんだよ」的な感じで生意気に振舞ってるさまのなんと格好が悪いことか。第7章における三木清の事例(=「現実」を軽んじる態度の源泉としての「理念」の役割)や第10章における「市場原理主義」者としてのフリードマン批判への反批判は言うまでもなく、他にも例えばニート対策の背後に控える「最近の若者はけしからん」論(第6章、第8章)や「小泉構造改革市場原理主義=経済格差拡大の原因」といった「常識」(あるいは反「市場原理主義」的な理念的態度)など各種の「理念」や「常識」への批判が本書の主旋律となっていることは明らかであり、何より表紙の帯に「「常識」のウソとデタラメを徹底的に暴く!」と大きく掲げてあるではないか。自らの「理念」に照らして納得のいかない「現実」に説教をたれて問題を解決した気になるのではなく、また「理念」や「常識」に対して別の「理念」や「常識」でもって対抗するのでもなく(「僕はその問いに対し、一般論でごちゃごちゃ答えるつもりはない」(pp.8))、なぜこのような「現実」が存在するのかを「お金がすべて的経済学とは違った経済学」の立場から分析し、そしてこの「現実」を改善するためにはどうしたらよいのか「お金がすべて的経済学とは違った経済学」の立場から一通りの解決策を提示する。「理念」優先の人間あるいは「常識」的な人間からすれば、「不謹慎」な話題(「第3章 オーラルセックスとエクスタシーの経済学」とか?)や「不謹慎」な結論(「第5章 官僚の天下り、本当は正しい!」とか?)が散見されるのかもしれないが、本書を貫く態度は「真っ当な」経済学のそれそのものであり、

「経済学は、日本の現実をとらえることのできる確かな分析道具である。実際、大いに役立つプラクティカルな手段なのだ。」(pp.230)


との確信(とその反面での「理念」や「常識」に無批判に乗っかることへの軽率さに対する批判的態度)こそが本書に「一冊の本」としてのまとまりを与えているのである。

(加筆するかも)