「流動性の罠」下におけるインフレーション・ターゲッティング:日本経済に埋め込まれた排中律
●Paul Krugman(1999), “Inflation targeting in a liquidity trap: the law of the excluded middle”
パソコンのハードディスクを整理していたら途中まで訳してほったらかしにしていたのを発見。折角なんで最後まで訳してみた。1999年に書かれた論説です。
噂によると、日本銀行が目標の上限値としてプラスのインフレ率を設定するインフレーション・ターゲッティング(の一種)の採用を検討しているらしいとのこと。この噂が本当だとすればいいニュースだ。というのも、ついに日本人自身が自分たちの置かれている状況がいかなるものかを理解し始めつつあることを意味しているからだ。でも本当にそう言える*1んだろうか? どうだろう。というのも、噂として聞こえてくるインフレ率の目標値があまりにも低過ぎるからだ。もし(インフレ率の目標値が)噂通りだとすれば彼らはまだちゃんと理解していないということになる。「流動性の罠」に嵌ってしまった国が直面してる選択は、かなり高めのプラスのインフレ率(significant positive rate of inflation)かジリジリと軋むように進むデフレーション(grinding deflation)かのどちらかなんだ。中間なんてものは存在しないんだ(There is no middle ground.)。
この主張を支える議論は単純なものだけれど、理解するのは難しいようだ。ここで均衡実質利子率−完全雇用下において貯蓄と投資(海外純投資を含む)が等しくなるような利子率−がマイナスだと想定することにしよう(僕自身“Japan: still trapped”(山形浩生氏による邦訳はこちら)で説明を試みたけれど、均衡実質利子率がマイナスになるっていうことが「流動性の罠」に嵌っているということを意味することになるんだ)。さらに、失業が存在していても価格はすぐには下がらないとしよう。この時、期待インフレ率があまりにも低過ぎて実質利子率が十分低下しないようであれば−例えば、経済がマイナス3%の実質利子率を「必要としている」( "needs")のに、期待インフレ率がプラス1%でしかないならば―、不完全雇用と緩やかなデフレが依然として継続することになるだろう。そうなると(目標値が低すぎる)インフレ目標はすぐにも信頼を失うことになり、話は再び出発点に戻ってきてしまうことになるわけだ。
つまりはこういうことだ。インフレ目標がうまくいく可能性があるのは目標値が十分高く設定される場合に限る、ということだ。目標値が十分高く設定されて、そしてその目標が達成されると信じられれば、実際にもインフレが生じるに十分なだけの刺激が経済にもたらされることになるだろう。目標値があまりにも低く設定される場合にはインフレ目標は失敗する運命にあるんだ。
「調整インフレ」("managed inflation")提案の一見した過激さを和らげたがる人々−「そんな高めのインフレ率じゃなくて、物価安定(例えば1%のインフレ率)を目標にしちゃいけないの?」と応じる人々−が流動性の罠を巡る議論のポイントをわかっていない理由もここにある。“Japan's trap”(山形浩生氏による邦訳はこちら)の中でも語ったように、現在日本が経験しているデフレ圧力は、将来の期待物価水準と比べて現在の物価水準を低下させることを通じて、経済にとって必要なインフレーションを生み出そうと「試みられる」("trying")過程で生じる現象なんだ。同時に景気が低迷しているのは、デフレーション(物価の下落)は急速には進まないし痛みを伴うことなしに進むこともないからなんだ。
これまでの話を受け入れるのに抵抗を感じるというのは理解できることだ。政策当局者たちはこれまで語ってきたような逆説的に聞こえる問題の取り扱いには慣れていないし、何とかして中道路線を歩もうと試みるのが彼ら政策当局者たちの本能だからだ。でも、日本経済に埋め込まれたこの排中律とでも呼べるもの*2は学者が思い付きで語る抽象的な屁理屈なんかじゃない。筋の通った分析から導かれる避けられない結論なんだ。
最後にポイントを大文字でまとめておこう。
「インフレ率の目標値が十分高い水準に設定されない限り、日本におけるインフレーション・ターゲッティングは失敗に終わるだろう。」
(INFLATION TARGETING IN JAPAN WILL FAIL UNLESS THE TARGET IS SET HIGH ENOUGH.)