「ケインズ経済学をめぐる『7つの神話』」


●Mark Thoma, “Seven Myths about Keynesian Economics”(The Fiscal Times, May 7, 2013)

ケインズは独特な性的嗜好の持ち主であり、さらに子供がいなかった。ケインズが長期的な経済問題に無関心であったのはそのためだ」。つい先日、ハーバード大学歴史学者である二ーアル・ファーガソンNiall Ferguson)がこのような趣旨の発言を行い、その後謝罪に追い込まれる格好となった。ケインズ性的嗜好が云々といった話は脇に置いておくとして、「経済が短期的な問題に直面している状況においてはケインジアンはしばしば長期的な問題を無視する」といった見解は広く語られているところである。しかし、ケインジアンは長期的な問題に無関心だとの主張は、ケインズ経済学に関する多くの神話のうちの一つなのである。


【神話その1;ケインジアンは「長期的な」経済問題に十分注意を払わない】
この主張とは正反対に、「ケインズ経済学に反対の立場の保守派の人々は短期的な経済問題−特に失業−に十分注意を払わない」との主張が成り立つだろう。しかしながら、短期的な経済問題の対処に失敗すると長期的な損害がもたらされ得る、という点には注意が必要である。例えば、景気後退が長引くと多くの人々が労働市場からの永続的な退出を余儀なくされ、そのために経済の長期的な成長力(潜在成長率)が損なわれるおそれがある。ケインジアンは長期的な問題にもかなりの注意を払っている。ただ、短期的な経済問題を無視することが長期的な経済問題を解決する上で最善の方法だ、との考えには与しないのである。


【神話その2;ケインジアンは経済成長のことなど興味がない】
ケインジアンも経済成長の便益(あるいは価値)はちゃんと理解している。ただ、ケインジアンは、二酸化炭素の排出をはじめとした外部性を企業が十分考慮に入れるように望み、経済成長の成果がどのように分配されるかにも関心を払うのである。労働者の生産性が上昇しているにもかかわらず経済成長の果実が所得上位層にだけ集中するようであれば−近年そうなっているように−、ケインジアンは疑問を抱くことになる。経済成長は所得の上昇をもたらす上でキーとなる要因である。しかし、経済成長は少数のヨット(お金持ち)だけではなくすべてのボートを引き上げるようなものでなくてはならず、水質の汚染を避けるようなかたちで進められなければならないのだ。


【神話その3;ケインジアンは「大きな政府」の支持者だ】
ケインズ経済学に関する神話の中でもこれがおそらく最もひどく混乱したものであり、また最も広く受け入れられているものである。ケインジアン流の景気安定化政策は次のようなかたちをとる。景気後退に際しては経済を刺激するために政府支出の拡大ないしは減税が実施される一方で、その後に景気が上向くと政府支出の削減ないしは増税が実施されることになる。つまり、ケインジアン流の安定化政策においては政府支出や税金の変更はあくまで一時的なものであり、例えば、景気後退下で政府支出が増大しても景気回復後に政府支出が削減されれば、政府の平均的な規模は時を通じて変わらないままとなるのである。しかし、政治家が(経済を刺激するために政府支出を増大した後に)景気回復後に政府支出を減らすのではなく増税を行う決定をすれば、政府の平均的な規模は拡大することになるだろう。一方で、景気を刺激するために減税を実施し、景気回復後に政府支出を削減する決定がなされれば、政府の平均的な規模は縮小することになるだろう。しかし、政府支出や税金の変更がケインジアンが求めるように真に一時的なものであれば*1、政府の平均的な規模は一切変わらないままなのである。


【神話その4;ケインジアンは政府債務のことなど気にしない】
特定の状況下では政府債務も問題となり得ることがあり、長期的な政府債務の問題に取り組む必要があるという点についてはケインジアンも理解している。問題は、政府債務がもたらすコストと失業に伴うコストとの適切なトレードオフをいかに図るか、ということである。深刻な景気後退下にあり、また政府債務残高が現在のような水準にとどまっている場合には、失業に伴うコストは財政赤字に伴うコストよりもずっと大きいと考えられる。一方で、経済が回復するにつれてトレードオフのバランスには変化が生じることになり、財政赤字の縮小に伴う便益は景気回復とともにいっそう大きくなることだろう。しかし、今現在に関しては失業こそが最大の関心事であるべきなのだ。


【神話その5;ケインジアンはインフレのことなど気にしない】
ケインジアンは労働者の雇用と所得が高い水準で安定し続けることをまず何よりも重視する。その際にインフレーションが加速する場合には、当然インフレもケインジアンの関心の対象となる。ケインジアンが異議を唱えるのは、経済への政府介入にイデオロギー的に反対する人々がインフレに伴うコストと失業に伴うコストとのトレードオフを歪んで評価することに対してなのである。


【神話その6;ケインジアンは金融政策を信用していない】
金融政策が景気回復を後押しし得ることについてはケインジアンも否定しない。ただ、ケインジアンは、金融政策だけで深刻な景気後退を克服できるとの主張には与しない。財政政策もまた必要だとケインジアンは考えるのである。


【神話その7;ケインジアンは古びて流行遅れな劣った(低級の)モデルに頼っている】
経済が危機に襲われ、現代のマクロ経済モデルの失敗が明らかになったことを受けて、経済学者の多くは政策(あるいは問題理解)の指針を求めてオールドケインジアンのモデルに向かうことになった。オールドケインジアンのモデルは今まさに我々が直面している類の問題に答えることを意図して組み立てられたものであった。現代のモデルの欠陥が修正されるのを待っている時間的な余裕などなく、また、オールドケインジアンのモデルはその長所と短所をきちんとおさえてさえいれば有用であることが判明したのであった。今回の危機の過程でケインジアンは、モデルがいつの時代に作成されたかなど大して気にすることもなく、利用可能なモデルの中から最善だと思われるものを選んでそれに依拠した。現代のモデルが有用であったこともあれば、古いモデルが優れた洞察をもたらしたこともあった。つまりは、重要な疑問に答える上で最善だと思われるあらゆるモデルに頼ったのである。危機の過程で現代の「ニューケインジアン」モデルにも修正が加えられることになったが、修正されたニューケインジアンモデルがオールドケインジアンモデルから引き出される政策処方箋を一般的には支持する傾向にあるのは興味深いことである。

オールドケインジアンモデルならびに修正されたニューケインジアンモデルが勧める政策がもっと積極的に推し進められていたとすれば、長期失業のような問題は今ほどひどいことにはなっていなかった可能性がある。もっと言うと、過去に関してだけではなく現時点においても依然としてもっと積極的に推し進められる必要がある。人類が経験から学ぶ可能性をこれまでずっと個人的に望んできたが、上で触れた7つの神話が失業問題へのより有効な政策対応の前に立ちはだかり続けているのである。

*1:訳注;景気を刺激するために政府支出が拡大される場合にはその後の景気回復期に政府支出が削減される、あるいは、景気を刺激するために減税が実施される場合にはその後の景気回復期に増税が実施される、といったかたちをとるならば