「貨幣と生産 〜椅子取りゲームモデル〜」
●Scott Sumner, “Money and output (The musical chairs model)”(TheMoneyIllusion, April 6, 2013)
ここ最近の一連のエントリーでは、金融政策が長期的に物価にどのようなインパクトを及ぼすのかについて説明を行ってきた。その際に依拠した基本的なアプローチに名前を付けると、「ホットポテトモデル」(“hot potato model”)と呼ぶことができるだろう。その内容を簡単に説明すると次のようになる。人々は利子を生まない貨幣を一定量だけ需要する。その際Fedが人々の貨幣需要を上回るベースマネーを供給すると、人々は自らが欲する以上の現金を手にすることになるが、人々はその余分な現金残高*1をいち早く処分しようと試みる*2ことだろう。しかし問題は、個々人のレベルで見ると余分な現金残高を処分することは可能であるが、社会全体のレベルではそのようなことは不可能だ、ということである。このパラドックスは人々が余分な現金残高を処分しようと試みる過程で物価が上昇することによって解決されることになる。つまり、人々が余分な現金残高をそのまま手元に保有することを望むところまで物価が上昇するのである。
残念ながら、現実の世界においては賃金や価格の調整は緩慢であり、その結果として貨幣がもたらす短期的なインパクトは長期的なそれと比べてずっと複雑な様相を呈することになる。次のエントリーでは貨幣が資産価格に及ぼす短期的なインパクトを取り上げる予定である。ここから先は貨幣が産出量(実質GDP)に及ぼす短期的なインパクトについて考えることにしよう。
さて、これまでのエントリーでは次の式に依拠して物価水準がいかに決定されるかを問題としてきた。
P = Ms/(Md/P)
ここからは名目GDPの決定に焦点を合わせることにしよう。名目GDPは次の式を通じて決定されることになる。
P*Y = Ms/k
ここでkというのは、人々が名目所得のうちどの程度の割合だけ貨幣(ベースマネー)を保有しようと望んでいるかを表す変数である(k=1/V*3)。これまでと同様にここでも準備預金には金利が付かないとの前提で議論を進めることにしよう。上の式によると、kが一定の値をとる場合、ベースマネーが増えると名目GDP(P*Y)が上昇することになる。また、M(ベースマネー)の一度限りの変化はkに対して長期的なインパクトを及ぼすことはないと考えられるだろう。
時間あたりの名目賃金は粘着的であるために*4、金融引き締め(Mの減少)によって引き起こされる名目GDPの低下は産出量(実質GDP)と雇用(あるいは労働時間)の減少をもたらすことになるだろう。
この図の総需要曲線(AD曲線)は「名目支出」(“nominal expenditure”)曲線と呼ぶべきかもしれない。というのも、ここではAD曲線は一定水準の名目GDPを表すように描かれているからである(それゆえ、AD曲線は直角双曲線となる)。
上のAD-AS図にあるように、金融引き締めは名目GDPを減少させ*5、名目GDPの減少は産出量と雇用の低下をもたらすことになる。この図では貨幣の短期的な非中立性、すなわち、Mの変化は物価だけではなく産出量も変化させる様子が描かれている(ちなみに、次のエントリーでは、Mの変化がk(あるいは貨幣の流通速度)に及ぼす短期的なインパクトを話題にする予定である)。名目GDPの変化が物価(P)の変化と産出量(Y)の変化との間にどのように分解されるかは短期総供給(SRAS)曲線の傾きによって決定されることになる*6。そして、短期総供給曲線の傾きは賃金や価格の粘着性の程度を反映することになる。
賃金や価格の調整が完了する長期においては、労働時間も産出量も自然水準(自然失業率/自然産出量)に再び落ち着くことになる。確かにこの主張は現実の特定の側面を単純化したものではある−どのマクロ経済モデルに関しても言えることだが−。例えば、不況下において設備投資が先延ばしされ、労働者が労働市場から退出することになれば、産出量の永続的な損失が生じる可能性がある。しかし、例えば大恐慌後に経済が力強い回復を経験したことを思い出すと、そのような永続的な効果は比較的軽微なものだと個人的には考える。
労働者が「貨幣錯覚」(“money illusion”)を抱く―つまりは、労働者が名目賃金の変化と実質賃金の変化とを混同する―場合には別種の非中立性が成り立つ可能性がある。貨幣錯覚が存在すると、名目賃金の変化率の正規分布はゼロ%のところで非連続的なものとなる。つまり、労働者は名目賃金の(絶対水準の)カットを不合理にも受け入れたがらないのである。それゆえ、貨幣錯覚が存在すると、1人あたりの名目GDP成長率のトレンドが極めて低い場合には自然失業率の上昇がもたらされる可能性がある。
(ところで、労働者が名目賃金のカットを受け入れたがらないことを「不合理」と表現する度に次のような反応が返ってくる。「労働者が名目賃金のカットを嫌うことは不合理ではない。というのも、名目額で固定された債務を返済する必要性があるからだ」、と。残念ながらそのような主張は妥当なものだとは言えない。支出が債務の返済だけからなっているならまだしも、事実はそうではないからだ。)
こういった特殊な要因をひとまず脇に置いておくと、これまでにアメリカで生じた景気循環の大半はかなり単純な現象であると言える。というのも、景気循環は次のようなかたちで生じるものと理解できるからだ。過度の金融引き締めが生じると、名目GDP成長率は労働契約が結ばれる際に予想されていたよりもその伸びは低くなる。時間あたり名目賃金の伸び率の調整は極めて緩慢であるために、名目GDP成長率が急落するとW/NGDP(名目賃金/名目GDP)が上昇し、その結果雇用(あるいは労働時間)と生産の縮小がもたらされることになる。また、労働市場の調整が完了するまでには長い年月を要するかもしれない。
経済の不況を次のように椅子取りゲームのアナロジーで捉えることができるかもしれない。音楽が止まって椅子の数が減らされると、ゲームの参加者のうち何人かは(座る椅子を確保できずに)床に座らざるを得なくなる。(名目)賃金が粘着的な中で名目GDPの成長が低迷するということは、椅子の数が減らされるようなものだ。現行の名目賃金の水準の下で完全雇用を維持するに十分なだけの名目総所得(名目国民総所得)が存在しないために、「床に座る」(つまりは、失業する)ことを余儀なくされる労働者が現れてしまうのである。
金利のようなその他の変数もまた景気循環の過程で変動するのは確かだが、そのような変数が失業の増加をもたらすことはないだろう。雇用の動向を決定する上では名目GDP成長率と時間あたり名目賃金の伸び率こそが最も肝心なのである。
(追記その1)Mark Sadowskiが W/[NGDP/(pop)](名目賃金/1人あたり名目GDP)と失業率との相関を示す以下のグラフを送ってきてくれた。
誰か2012年の終わりまでデータを更新してくれないだろうか。データを更新した上で新しいグラフに置き換えたいのだが。
(追記その2)Ron Mがリクエストに応えてくれた。
これまで続けてきた貨幣経済学のショートイントロダクションも次のエントリーで最後である。最後のエントリーでは、貨幣が資産価格に及ぼすインパクトを取り上げる予定である。将来的には貨幣経済学入門のオンライン版にも踏み出してみたいものである。