「「しかしながら、需要はどこからやってくるのでしょう?」 〜称賛すべきオールドケインジアンの洞察〜 」
●Nick Rowe, ""But where will the demand come from?" In praise of older Keynesians"(Worthwhile Canadian Initiative, February 04, 2011)
不景気のたびに尋ねられる質問がある。景気が回復するためには需要の増加が必要であるが、「しかしながら、需要はどこからやってくるのでしょう?」、と。
私がまだ若くて愚かであった頃なら、「「住宅」("housing")部門から」と答えることだろう。この回答は過去に関していうとかなり妥当な推測であると言えるだろう。しかし、少しばかり年をとり幾分か偏屈にもなった今の私はこの質問に直接回答することは拒み、次のような反応を返すことだろう。 「私のようなアームチェア・エコノミスト(象牙の塔に引き籠ってのうのうとしている経済学者)がその答えを知っているようなら、市場経済なんて必要ないだろう。私を中央計画経済の責任者(central planner)として担ぎあげようとする動きが生じることになるだろう」。あるいは次のように反応するかもしれない。「私がその答えを本当に知っているようなら、私は近々大金持ちになってどこぞのビーチで寝そべって過ごす生活を謳歌できるようになることだろう。」
・・・なんてひねくれた回答を寄せて満足するのではなく、質問に正面から取り組むことにしよう。「「住宅」部門から」 という回答は、たとえそれが現実を正しく予測した回答であったとしても、質問に対する真の回答であるとは言えない。あの質問が問うているのは、景気回復を先導する経済部門はどこなのか、一番真っ先に支出を増やすのは誰あるいはどの企業なのか、ということではない。あの質問は、ミクロに関する質問ではなく、マクロに関する質問なのである。
「しかしながら、需要はどこからやってくるのでしょう?」と問いかける人々が本気で探し求めているのは、システムの外側からやってくる需要のことなのかもしれない。外生的な需要(Exogenous demand)の増加、おそらくは輸出需要(自国財に対する海外からの需要)の増加の源泉を探し求めているのであろう。例えば、私が「中国の人々がカナダで生産される財を突然好むようになるだろう」と主張し、この主張が説得的なものとして受け入れられるようであれば、人々は質問に対して完全に満足のいく回答を得られたと感じることだろう。「Q. 需要はどこからやってくるのでしょうか?」「A. 中国からです」。めでたしめでたし。
しかし、このロジックを突きつめていくと、最終的には皆が火星に対する輸出を増そうと躍起になる状況に落ち着くことになるだろう。
マクロ経済学は結局のところは閉鎖システム(closed systems)を対象とするものなのである(すまないが、開放経済のマクロ経済学(open economy macroeconomics)、中でも特に小国開放経済のマクロ経済学は、本当のところマクロ経済学ではないのである)。需要はシステムの外側からやってくることはできない。(システムの)外側なんてものはないのである。
需要は(大抵は)需要それ自体から生まれる。・・・なんて言われても、大半の人にとってはよく理解できないことだろう。「需要は需要それ自体から生まれる」というのはオールドケインジアンの乗数の概念を支えるロジックであるが、ホートレー=カーン=ケインズ=クラウワー流の乗数概念には現代のほとんどすべてのマクロ経済学からは見失われてしまっている重要な真実が含まれているのである。
市場で実際に取引される財の数量は市場におけるショートサイドによって決定される。つまりは、実際に市場で販売されることになる財の数量(quantity sold)は、その時に市場で成立している価格体系の下での需要量(quantity demanded)(=買いたいと思う数量)と供給量(quantity supplied)(=売りたいと思う数量)のうちどちらか少ない方と等しくなるのである。マクロで見て財に対する超過供給が存在する状況では、実際の(実現した)財の販売量ならびに財の販売から得られる所得はショートサイドである需要量によって決定されることになる。もし人々が財の供給に関する計画を思い通りに実現することができずに自分が望むだけの数量の財を販売することができなければ(言い換えれば、人々がクラウワー流の数量制約に直面しているとすれば)、人々の財に対する需要は実際の(実現した)財の販売量(実際に販売することができた数量)−そして実際の財の販売量は財に対する需要量によって決定される−に依存することになるだろう。
需要が所得を生み出し、所得が需要を生み出す。ゆえに、需要が需要を生み出す。これこそがオールケインジアンの乗数が伝える−そして、ニューケインジアンのオイラー方程式においては見失われてしまっている−重要な洞察である。
さて、この先私はとある2名の経済学者−非常に折り合いが悪い2名の経済学者−の融合を試みることにしようと思う。その2名の経済学者とはケインズとセーである。
新たに生産された財(newly-produced goods)を購入するための手段(財源)となるのは新たに生産された財の実際の(実現した)販売から得られる所得である。もしある人々が所得の一部を貯蓄し、その貯蓄を他の人々−自らの所得以上に支出(資本財に対して(実物投資需要)か消費財に対して(消費需要)の支出)を行おうと計画している人々−に貸し出す場合は、マクロ全体でみると大きな変化が生まれることはない。個々人が自分の所得をすべて支出(財の購入)に回すか、それとも所得の一部を他人に貸し出すかにかかわらず、マクロで見ると(ほとんど)すべての所得は(財を購入するために)支出されることになる。
このバージョン(セー法則には多くのバージョンがある。そのうちの大半はセー本人とは何の関係もないのであるが)のセー法則−マクロ全体で見ると人々が所得をすべて支出(財の購入)に回そうと計画している、との見解に立つもの−は大抵の場合においては正しい。この時、限界(ならびに平均)支出(=消費+(実物)投資)性向は(ほぼ)1に等しくなる。
もし限界支出性向が1に等しいならば(ケインジアンの45度線分析における総支出(AE)曲線の傾きが1であれば)、その時オールドケインジアンの乗数の値は(プラス)無限大となる。この時、経済が「完全雇用」("full employment")−潜在的な供給能力が制約となり、経済がそれ以上拡大することができなくなる点−に達するためには、外生的なショックによって支出がほんのわずか増加するだけでも十分である。
実のところ、以上の描写は私のマクロ経済学観に非常に近いものである。これは、クラウワーのレンズ越しに経済を眺めることで可能となったケインズとセーとの融合−人によってはこの2名を融合させるなんてことは神をも恐れぬ所業と映るであろう−である。
しかしながら、あくまで(私のマクロ経済学観に)「非常に近い」のであって、(私のマクロ経済学観)そのものというわけではない。総需要が総所得によって決定されると同時に総需要の大きさは総所得の大きさに等しい、というかたちで定式化された以上のセー法則が正しいとは言ってもあくまで「大抵の場合においては」正しいのである。まだ何かが欠けている。
その欠けている何かとは貨幣である。ケインズとセーとの融合に貨幣的不均衡(monetary disequilibrium)を付け加える必要がある。
これまでの議論は物々交換経済(barter economy)においては意味をなさない。総供給と総需要との区別が意味をなすのは貨幣経済(monetary exchange economy)においてのみである。貨幣経済においては、我々は財を販売することと引き換えに貨幣を受け取り、貨幣を支払うことと引き換えに財を購入する。つまり、貨幣経済においては、貨幣は交換手段として機能しているわけである。かつてイェーガー(Leland B. Yeager)が指摘したように、個々人が自ら保有する貨幣を増やす方法には2つある。販売する財の量を増やすか、購入する財の量を減らすか、である。財の超過供給が存在しているために財の販売をこれ以上増やすことができない(財の販売に関してクラウワー流の数量制約に直面している)場合に、もしある個人が手持ちの貨幣をこれ以上増やしたいと考えているのであれば、その個人は購入する財の量を減らすことによってそれ(=手持ちの貨幣を増やすこと)が可能となる。
セー法則の成立を阻むのは、貨幣・・・それも貨幣のみである。もし、マクロで見て人々が市中に現実に存在する以上の貨幣を保有したいと望むならば(貨幣ストックに対する需要>貨幣ストックの供給)、マクロで見て人々は所得以下の水準に支出を抑えようと計画することだろう。もし、マクロで見て人々が市中に現実に存在するよりも少ない量の貨幣しか保有する気がないならば(貨幣ストックに対する需要<貨幣ストックの供給)、マクロで見て人々は所得以上に支出しようと計画することだろう。ところで、債券(bonds)に対する超過需要はセー法則の成立を阻むものではない。債券に対する超過需要が存在する状況では、債券の実際の取引数量はショートサイドである債券の供給量によって決定されることになるので、もはやこれ以上債券を購入することはできない。もし債券をこれ以上購入することができないとなれば、債券の購入に費やすはずであった所得を財の購入(支出)に回すか、あるいは、貨幣の保有を増やす(債券の購入に費やすはずであった所得を財の購入には回さずにそのまま貨幣として保有し続ける)かしないといけないだろう。
もし貨幣ストックに対する需要(=貨幣需要)が市中に現実に存在する貨幣ストック(=貨幣供給)と恒等的に等しい−あらゆる所得水準の下で貨幣需要と貨幣供給とが等しくなる−ようであれば、オールドケインジアンの45度線モデルは確定的な均衡を持たないことになる(均衡は不決定)だろう。あらゆる所得水準−所得が0である状況から「完全雇用」を実現する所得水準にわたるまで−が均衡となることだろう。あらゆる所得水準の下で、需要(財に対する支出)は所得と等しくなり、所得は需要(財に対する支出)と等しくなることだろう。貨幣供給がほんのわずか増加しただけでも、あるいは貨幣需要がほんのわずか減少しただけでも、需要(財に対する支出)の増加→所得の増加→需要(財に対する支出)の増加→・・・の無限波及の過程が生じ、経済は「完全雇用」−潜在的な供給能力がボトルネックとなって経済のさらなる拡大が止まる点−に至るまで、もしくは、インフレーションの発生によって貨幣の実質価値が低下し、その結果として貨幣の需給バランスが回復するところまで、あるいは、インフレーションの発生を受けて中央銀行がパンチボールを片づける(金融引き締めを通じて市中における貨幣ストックの量を減らす)ようになるまで、拡大を続けることだろう。
というわけで、「需要はどこからやってくるのでしょう?」なんてもう尋ねないでほしい。需要は需要それ自体から生まれるのであり、貨幣の超過供給から生まれるのである。