賃金にまつわるパラドックス


●Scott Sumner, “The wage paradox”(TheMoneyIllusion, March 15, 2013)

賃金の下落は労働市場が均衡から外れている(不均衡状態に置かれている)ことを示唆するサインであり、それゆえ問題が発生している証拠であると言える。一方で、賃金の下落は労働市場が再び均衡に復する(労働市場における不均衡を解消する)助けとなると考えられる。そういった意味では、賃金の下落は問題の解決を促す役割を担っていると言える。

このどちらの主張もともに弁護可能である。私が思うに、景気循環について具体的なイメージを掴むためにはこの2つの主張を同時に念頭に置いておくことが最善の方法だと言えるだろう。次の文章はつい最近のエコノミスト誌の記事からの引用である。

実のところ、安倍首相による(15年にわたるデフレからの脱却を目指す)キャンペーンは政治的な意味合いを備えている可能性が強い、との指摘もある。金融緩和に前向きな人物(tough-talking money-printers)を日本銀行の総裁・副総裁に新たに任命することで、安倍首相は「中央銀行は2%のインフレ目標を達成すべきだ」との決意を露わにした。問題は、物価が上昇する一方で名目賃金が上昇しなければ、労働者は経済的に苦しい生活を余儀なくされることになる、ということである。安倍首相は衆参両院で自民党が多数派を占めることを目指しているが、仮に名目賃金の上昇が物価の上昇に遅れをとれば、7月に行われる参院選挙で自民党は不利な状況に置かれることになるだろう。

そういった事情もあってか、つい先日、安倍首相と麻生太郎財務大臣は大企業に対して賃金の引き上げを要請した。消費者マインドと家計消費が盛り上がりの兆しを見せる中、この要請に前向きに応じる企業も現れた。例えば、コンビニ大手のローソンは、今年度のボーナスを増額することで社員(具体的には、学校に通う子供を3人持つ社員)の年収を平均15万円引き上げる意向を示した。また、円安による恩恵を受けた輸出業者の中には今年度の春闘労働組合の要求を受け入れてボーナスの増額に動く企業が出てくる可能性もある。

しかし、これまでのところ経団連−主要な大企業から構成されているロビー団体−は安倍首相らの賃上げ要請に冷やかな態度を見せている。持続的な業績の改善が見通せるようになるまでは基本給の引き上げ(ベースアップ)−ボーナスの増額と比べるとベースアップを実施するのは困難だとされている−に踏み切ることはできない、というのである。JPモルガン証券のシニアエコノミストである足立正道氏はこう語る。「基本給の引き上げよりも先に残業代とボーナスが増額される可能性が高いと思われます。また、各企業が持続的な賃上げに向かう上では、インフレ期待が高まるよりも成長期待*1が高まる必要があるでしょう。」 しかしながら、日本では来年度に消費税の増税が予定されている。仮に予定通りに消費税が引き上げられることになれば、今年度実施される大規模な財政刺激策の効果の幾分かが打ち消され、そのために2014年の後半に入って経済が減速する可能性がある。


最後に引用したグラフは極めて興味深いものである。このグラフによると、名目賃金の下方屈折が生じている3つの局面を読み取ることができる。それは、アジア通貨危機が発生した1997年、ITバブルの崩壊を受けての2001年の景気後退期、そして2008年〜2009年の世界同時不況期である。名目賃金は粘着的であり、毎月ごとに調整がなされるのは一部の賃金だけである。それゆえ、全体として名目賃金が低下しているということは、賃金の調整が進む部門以外においては名目賃金は高すぎることを意味することになる。そのため(名目賃金の調整がなかなか進まない部門が存在するために)、全体として名目賃金が低下する際にはしばしば失業の増加が伴うことがあるが、これはまさしく日本で生じている状況そのものだと考えられる。

名目賃金の調整が完了した暁には現実の失業率は自然失業率に等しい水準に落ち着く(復する)ことになると考えられるものの、名目賃金の(絶対水準の)カットには困難が伴う。おそらく日本でも(名目賃金のカットに対する抵抗もあって)名目賃金の調整はまだ完了しておらず、それゆえ日本の失業率は依然として自然失業率を若干上回っていると考えられるだろう(日本の失業率は元々極めて低いという点には注意が必要である。また、日本の真の失業率はデータ上で計測される失業率よりも高い、という意見もある)。

現在安倍政権が進めている経済政策がうまくいった場合、名目賃金は若干上昇する可能性があるが、馬の前に荷車をつなぐようなことは間違いだと言えるだろう。つまりは、名目賃金が上昇するとしても、政治的なプレッシャーを通じてそれ(名目賃金の上昇)を強いるのではなく、経済が堅調に回復し、名目GDP成長率が高まる結果としてそうなる(名目賃金が上昇する)のが好ましいと言えるだろう。実のところ、名目賃金が(政府が企業に圧力をかけることで)人為的に引き上げられようものなら、むしろ失業は増加してしまうかもしれないのである。

なお、日本の実質賃金は1990年代以降およそ10%程度下落している点にも注意しておこう。つまり、実質賃金に関しても日本のパフォーマンスは低調なわけだが、このことは日本だけではなく他の先進国(ただし、オーストラリアとカナダ等を除く)に関しても同様に言えることである。最終的にキーとなるのは経済成長である。金融緩和を通じて(名目GDP成長率が高まり、それに伴って)実質GDP成長率が上昇することになれば、引き締め気味の金融政策のために低インフレが続く場合よりも実質賃金はおそらく高まることだろう。ここで思い起こすべきは、2002〜2006年に日銀が量的緩和に乗り出し、日本経済が一時的にデフレから脱却した際のことである。当時実質賃金は(低下するのではなく)横ばいを記録したのであった。繰り返すが、経済成長はゼロサムゲームではない。経済成長を通じて経済のパイが大きくなれば、たとえインフレが上昇したとしても少なくとも長期的には実質所得は増加することになるのである。

(追記)金融引き締めによって実質賃金の上昇がもたらされることを予測するモデルもあるにはある。しかし、その結果、若年労働者が生産性の極めて低いインフォーマル・セクターに追いやられることになるとすればどうだろうか?

*1:訳注;将来的に実質GDP成長率が上昇するとの期待