現代中国と1970年代の日本


●Barry Eichengreen and Mariko Hatase,“Can a Rapidly-Growing Export-Oriented Economy Smoothly Exit an Exchange Rate Peg?  Lessons for China from Japan's High-Growth Era”(日本銀行、IMES Discussion Paper Series 2005年8月)


1970年代における日本の為替制度改革の経験−1ドル=360円でのドルへのペッグからの脱却(1971年8月;アメリカによる金=ドル兌換停止(ブレトンウッズ体制の終焉))→1ドル=308円で再びドルにペッグ(1971年12月;スミソニアン協定)→変動相場制に移行(1973年)−を考察することにより、中国の人民元改革の将来の指針を得ることを目的とする。当時(1950年代〜1970年代)の日本経済と近年の中国経済の異同を綿密に比較した上で、「export-oriented, fast-growing economies in the early stages of catch-up that exited voluntarily from a peg.」という歴史上稀な(現在の中国経済と同様の性格を有する)ケースである1970年代の日本における為替制度改革の体験を現在の中国のhistorical precedentと見なして人民元改革の今後の教訓を引き出す(1ドル360円から308円への平価切上げはアメリカからの圧力によって強いられたものではなく日本自身の自発的な判断(exited voluntarily from a peg)であったとしており、その根拠としてニクソンによる金=ドル兌換停止の宣言後二週間にわたって1ドル360円を維持するために当局(日銀、大蔵省)が為替介入を行っていた点を挙げている)。以下、簡単に内容の紹介。


1ドル=360円という固定レートは1949年(ドッジライン)から1971年まで約20年間にわたって維持され続けた。当初はその水準はovervalueされている(日本経済の実力からすると為替水準はもう少し切り下げるべきである)と考えられており、経済が成長するにつれて経常収支が赤字を計上したため(政府のドル準備の流出を防ぐため、あるいは1ドル360円を維持するために)金融引締めにより景気の抑制に乗り出さざるを得なかったが(「国際収支の天井」(“balance of payments ceiling.”))、1950年代の後半から1960年代にかけて貿易財部門の生産性の向上(政府主導の合理化計画(Government-led rationalization of the metals, machinery and chemicals sectors)も貢献)が進展した結果として1ドル=360円というレートは徐々にundervalueになり、大規模な貿易黒字が計上されるようになっていく(「国際収支の天井」にぶつかり経済の成長を金融引締めで阻害する必要はなくなる)。外国からの貿易黒字削減の圧力をかわすために(capital inflow によるマクロ経済へのインフレ圧力を抑制するために)、輸入の増加を目的として為替規制や貿易障壁の緩和・撤廃に乗り出すものの(undervalueな)平価の切上げという選択に踏み出すまでには至らず(1ドル=360円という固定レートは“immutable condition”と見なされていた)、1971年いわゆる「ニクソンショック」を迎えることになる。

ニクソン大統領による金=ドル兌換停止の宣言後、政府当局はしばらくの間(1971年8月27日まで)1ドル=360円のレートで為替介入を行うものの、やがては為替水準の増価を容認し1ドル=308円に到達したところで再びドルにペッグする(16.9%の平価切り上げ)。平価切上げがマクロ経済に及ばすdeflationary effectを回避するために財政金融両面から景気の下支えのための政策出動がなされ、景気への悪影響は軽微なもの(1972年第1四半期の輸出は0.1%の減少(前年の同期比)にとどまり、第4四半期には15.7%の増加を記録した;1972年の第1四半期の実質GDP成長率は年率換算で10%を超える勢い)にとどまった(ドルとのペッグに固執しフロート制(ダーティーフロート)への移行が遅れたがために1973〜74年のインフレの加速を招いた、とする小宮隆太郎氏らの研究も紹介)。1973年になるとスミソニアン協定の決定も維持することが困難となり、円は1ドル=265円まで増価、当局の為替介入の結果としてレートは264円から266円の間に維持されることになる(1973年9月まで)。1971年、1973年の円の増価時において政府当局は為替介入を実施し(「Japan’s float was heavily managed」)、急激な為替変動を防止、このことは現在の中国に対して示唆を与えるものである。

外為規制が存在し(資本取引の自由化が達成されていない)、インターバンクでの為替先物市場が未発達であった1970年代の日本においても柔軟な為替レートへの移行は実現可能であったことから(戦後日本の外為規制・為替先物市場の発展の様子(詳細はp20〜23を参照)を考察した結果として得た結論)、中国人民元の自由な変動、市場によるレート決定を現実のものとするためには資本取引の自由化の実現と厚みがあり流動的な為替先物市場の発展が不可欠である(資本取引の制限が緩和・撤廃され、上海におけるインターバンクの為替先物市場がさらに発達を見せるまではこれ以上の人民元改革に乗り出すべきではない)、という議論に疑問を提示する。政府当局による急激な為替変動の回避(機動的な為替介入)が実施されるならば、という重要な但し書きがつくが(急激な為替変動が政府の介入によって回避されるならば、資本取引の規制が存在しようが先物市場が未成熟だろうがヨリ柔軟な為替制度への移行は実現可能)。


結論:1970年代の日本−資本取引規制が存在し為替先物市場が未発達である、rapidly-growing, export-oriented economy−は、政府当局による機動的な為替介入に支えられて、成功裡にヨリ柔軟な為替制度へ移行した。大幅な平価切上げがマクロ経済にそれほど重大な悪影響を及ぼさなかったのは、財政金融政策による需要維持政策と世界経済の景気拡張という偶然(計量経済学的な手法に基づく観察の結果、世界経済が好景気局面にあったことで日本経済に対して与えたプラス効果が大きなものであったことが判明)に助けられた面があり、運命を偶然に委ねるつもりがないならば適宜為替介入を実施することによって国内経済へのインパクトを減殺し、急激な実質為替レートの増価を避ける必要がある(ドルペッグからの脱却後に即座に完全な変動為替制度に移行するとマクロ経済に対して大きなネガティブ効果を与及ぼしてしまう可能性が大)。

今般の中国の通貨バスケット制への移行(漸進的な為替制度改革)は、1970年代日本の経験から引き出しうる教訓に合致したものである(自発的にドルペッグから脱した点(諸外国からは更なる平価切上げの圧力を受けていたがそれを排した)も同じである)。輸出企業のマージン率の低さ、大規模な不良債権を抱える銀行の脆弱な基盤、GDPに占める輸出の割合の高さなど現代中国の特徴を考えると、1970年代の日本以上に急激な実質為替レートの増価を避ける必要がある(実質為替レートの上昇は企業利潤を圧縮し設備投資の低迷を招く。1970年代の日本では実質為替レートの上昇は設備投資に(輸出と比べて)ヨリ大きなマイナスの影響を与えた)。今回の通貨バスケット制移行後の措置としては、為替介入を実施しつつ変動幅を徐々に拡大させるような漸進的な手法が望ましい(完全な変動相場制への移行は急激な実質為替レートの増価を招く恐れがある)。1970年代の日本の経験から得られる教訓としてかように結論付けられるのではなかろうか。