4つのフィリップスカーブ


Thomas I.Palley、“Zero is not the Optimal Rate of Inflation(pdf)”(Thomas Palley.com(articles)より)。公平賃金仮説文献巡りの旅の途上で偶然発見したもの。


「最適なインフレ率はゼロインフレである」という主張の理論的裏付けとして自然失業率(NAIRU)仮説(=垂直なフィリップスカーブの存在を主張するもの、としておきます)が持ち出されることがある(自然失業率とNAIRUの違いについては、“The Natural Rate, NAIRU, and Monetary Policy”(Carl E. Walsh)などを参照)。しかしながら、自然失業率仮説を仔細に眺めれば明らかになることだが、ゼロインフレが最適なインフレ率であるという結論をそこから導き出すことは不可能である(自然失業率仮説とゼロインフレが結び付けて論じられる理由(Palleyが提示する政治経済学的な一仮説)についてはこちらを参照)。以下、Palleyの議論に従ってNAIRU仮説と「最適なインフレ率はゼロインフレである」という主張が無関係であることを示すとともに、フィリップスカーブに関する(NAIRU仮説を含む)4つの代替的な見解を概観し、代替的なフィリップスカーブの議論から最適なインフレ率についてどのような結論を導き出すことが可能となるかを考察してみることにしよう。


1.NAIRU仮説

NAIRU仮説によれば政策的に自然失業率(=NAIRU)以下に現実の失業率を抑え続けることはできず早晩インフレの加速を招くだけである(現実の失業率はやがて自然失業率に回帰する)。厳格なNAIRU仮説(短期的にもフィリプスカーブは垂直)によると、金融緩和はインフレを加速させるだけであり失業率や実質GDPに一切の影響を及ぼすことはできない。インフレ率の水準に関わらず失業率や実質GDPの水準は変わらないわけであるから、最適なインフレ率は存在しない、ないしはあらゆるインフレ率が最適なインフレ率となる。

もう少し柔軟なNAIRU仮説によれば(フィリップスカーブは長期的には垂直になるけれども、短期的には右下がり、つまり一時的には(インフレの上昇というコストと引きかえに)失業率を自然失業率以下に引き下げることは可能)、最適なインフレ率は現実のインフレ率ということになる。なぜならば、現実のインフレ率を引き下げるためには(インフレ期待の調整に若干の遅れが伴うために(そのためフィリップスカーブが右下がりになるわけだけれども)実質賃金が高止まりする結果として)失業率の上昇(と実質GDPの低下)を受け入れねばならず、長期的には(ディスインフレが実現した暁には)失業率は自然失業率に回帰するだけであり、ディスインフレの過程で一時的に上昇した失業率を相殺するなんらかの果実が後になって得られるわけではない(ディスインフレの前後で失業率は変化していない(=自然失業率の水準にある))。一時的な失業率の上昇という見返りのないコストを負うぐらいならばむやみにインフレ率を引き下げようとするのではなく現実のインフレ率を維持すべきである、となる。反対に金融緩和によって一時的なインフレ率の上昇を受け入れるのであれば失業率や実質GDPの改善という一度限りの便益を享受することが可能となるわけであるから(インフレ期待が調整されれば失業率は元の自然失業率の水準に戻るだけであり、以前よりインフレ率が上昇するだけ(=垂直なフィリップスカーブ上を上方に向かって移動しただけ)である)中央銀行は一度限りの失業率改善を繰り返す誘因がある。インフレ率の高低は自然失業率の水準に影響を与えることはないのであるから、(インフレ率が下落したところで得られるものはないので;ちょっと不正確。正確にはディスインフレ政策の短期的な損失(移行過程における一時的な失業率の高まり)と長期的な利益(インフレによる恣意的な富の再配分(債権者→債務者)や将来期待の不確実性が抑制されることによってマクロ経済のパフォーマンスが改善され経済厚生が高まる)を比較考量したうえで利益が上回る場合もある。ただし自然失業率自体はインフレ率の水準から独立である。ディスインフレ政策によって自然失業率が下落するのであればフィリップスカーブは垂直にはならない)ディスインフレ政策によって一時的な痛みを被るよりは一時的な失業率改善を追い求める結果として、現実のインフレ率ではなくインフレが加速する状況が最適であるという結論になるかもしれない。

厳格なNAIRU仮説からはあらゆるインフレ率が、柔軟なNAIRU仮説からは現実のインフレ率ないしは加速するインフレが最適なインフレ率となり、ゼロインフレが最適なインフレ率であるという結論は自然失業率仮説のみからは決して引き出しえないわけである。


2.The positively sloped Phillips curve

ゼロインフレが最適なインフレ率であると言い得るためには、インフレ率が正である場合には(同時にデフレの場合にも)失業率が上昇したり実質GDPが下落するといった弊害が存在しなければならない。この事態を説明するための論理として考えうるのは、インフレ(デフレ)によって資源の誤配分(相対価格と絶対価格の混同による)が引き起こされたり、またインフレの効果を見定めるために資源(ないし時間、労力)が浪費されるために実質GDP(ないしは潜在GDP)の低下・失業率の高まりが生ずるというものである。この時フィリップスカーブが(インフレ率がプラスの範囲では)短期的にも長期的にも右上がりとなる(インフレ率が負(=デフレ)の範囲では右下がり)。インフレやデフレの幻惑による判断の歪みを回避するためにはインフレ率はゼロであるのが望ましい。NAIRU仮説ではなくこの見解こそがゼロインフレの理論的根拠となりうるものである。 


3.The Keynesian Phillips curve

フィリップスカーブは短期的にも長期的にも右下がりになる(インフレ率上昇と引き換えに失業率を低下させることが長期的にも可能。ただし、インフレ率が高くなるにつれて失業率改善の効果は徐々に弱まる)。フィリップスカーブが右下がりになるのは以前紹介したアカロフらの議論と同じ論理であり、“inflation greases the wheels of adjustment” in labor marketsということから導かれる。すなわち、インフレによって名目賃金の下方硬直性に抵触することなく実質賃金を調整する余地が広がり、ネガティブショックを被った産業(企業)部門において(名目賃金のカットに着手せずとも)実質賃金の高止まりを回避し、解雇や雇用抑制の圧力を緩和することが可能となるためである。低いインフレ率を出発点とするディスインフレ政策(例えばインフレ率を3%から1%に低下させる)は、実質賃金調整の余地を狭めることを意味し、ネガティブショックを被る産業部門から実質賃金を低下させる手段を奪い去り失業率を高止まりさせることになる(苦肉の策としての名目賃金のカットは潜在GDPを低下させるかもしれない)。

The Keynesian Phillips curveによれば、インフレは生産や失業率に対してポジティブな効果を有し、(インフレ率がプラスであれば長期的にも失業率を引き下げることが可能となるわけだから)ゼロインフレが最適であるという結論は決して導き得ない。この見解によれば、最適なインフレ率は自動的に決定される性質のものではなく(ゼロよりも幾分プラスのインフレ率ではあるけれども)、社会的な選好によって―社会の成員がインフレ率と失業率のどちらの変数を重視するか―右上がりのフィリップスカーブ上の一点の失業率−インフレ率関係が選ばれることになる(同じ点にとどまる(同じ点が選ばれる)必然性はない)。


4.The public finance Phillips curve

インフレ税によって政府収入が増加することで他の税を減税させる余地が生じ、(所得税が減税されれば)労働者の勤労意欲が引き出される(=生産性が高まる、労働供給が増える)結果として生産や失業率が改善される。結果としてフィリップスカーブは右下がりとなる。ただし、インフレ率が高くなり過ぎるとインフレ税による歳入増加の効果も減衰するために減税する余地がなくなり、また減価する貨幣を手放して貨幣の代用物を模索する動きが生ずるために(=資源の浪費)、フィリップスカーブはあるインフレ率を境に右上がりとなる。The public finance Phillips curveによると、最適なインフレ率はフィリップスカーブが(右下がりから右上がりへと)屈折するインフレ率ということになる。もちろんゼロインフレではない。


最適なインフレ率がゼロインフレである、という主張を支持する議論は2であり1ではない。また2はあくまでも理論的な可能性に過ぎず(そもそも最適なインフレ率=ゼロインフレ、と主張する人が2をその理論的根拠として挙げるのを見たことがない)、長期的なフィリップスカーブが右上がりであることを示す実証的な根拠は乏しい。一方で3・4が主張するようにフィリップスカーブが(低いインフレ率のもとでは)長期的にも右下がりであることを示す実証的な証拠は多数存在する。1・2が疑わしいのだとすれば、3・4が(特に3が)主張するように最適なインフレ率は社会的な選好によって決定されるということになる。インフレの弊害が実感しにくいのに比べ失業の悲惨さが明白であることに鑑みれば、失業率を最小にするインフレ率が最適なインフレ率である(ないしは社会的に最適なインフレ率として選択される)・・・、ということになりそうだけれども、社会全体の選好なるもの、ないしはpublic interestが一枚岩とみなすことは誤りである。public interestは経済的な利益を同じくする3つのグループ(labour、financia capital、industrial capital)に分割されており(詳しくは“The Institutionalization of Deflationary Policy Bias(pdf)”(Thomas Palley)を参照のこと)、望ましいインフレ率−失業率関係はグループごとに異なっている(各グループによって選択される(右上がりの)フィリップスカーブ上の点は違ってくる)。現実に選択されるインフレ率は政策過程において最も影響力のあるグループにとっての最適なインフレ率であり、社会全体にとっての最適ではない。labour、financia capital、industrial capitalの3グループ間の闘争(=FRBからのサポートを巡る争い)の結果として目標インフレ率(=“最適な”インフレ率として喧伝されるもの)が決定されるというわけである。