貨幣数量説の祖

前ブログからのエントリーの移行作業がまだ終わってませんでした。このエントリー以外にも幾つか移行待ちの記事がありますけども、・・・気が向いたらアップしたいと思いまふ。なお誠に勝手ながらFellow Travelerさんから頂戴しました本エントリーへのコメントの一部(だけしか残っておりませんで)を復元させていただきました。了解もなしに申し訳ございません(ご紹介いただいたBerdell論文は入院後すぐ、つまりはまだ体調が良好(?)であった頃に読ませていただきました。Wennerlind論文はつい最近、というか今さっき読みました。両論文の内容を要約したエントリーを書きたいところですけども・・・)。


貨幣数量説の祖といえばデイビッド・ヒューム(David Hume)。これまで二度にわたって取り上げた(これこれ)DeLongの記事でもFirst Monetarist、pre-Keynesian business cycle theoristとして名前が挙げられている(正確には貨幣数量説を経済分析に明示的な形で導入したアービング・フィッシャーがFirst Monetarismの創始とされているけれども)。

素朴な貨幣数量説論者(追記;素朴な貨幣数量説と単なる貨幣数量説の違い=短期(=貨幣供給量が実体経済に影響を与えうる期間)に重きをおくかどうかの違いとしておきます(勝手ながら)。両者ともに長期的には貨幣供給量の増加は(比例的な)物価上昇を招くという点では一致するものの、素朴な貨幣数量説論者は比較的速やかに長期の状態が到来する(=短期は無視しうるほどの長さであり、そのため貨幣供給量の変化が実体経済に与える影響も小さい)と考える傾向にある)としてのFirst Monetarist、pre-Keynesian business cycle theoristによれば、貨幣供給量の増加は実体経済(実質GDPとか雇用量・失業率など)にはなんらの影響も及ぼすことはなく、貨幣量の増加に比例するかたちで物価が上昇するだけである(貨幣量が2倍になれば物価が2倍になるだけ=貨幣の中立性)、とのこと。フリードマンによればこの見方(First Monetarist=素朴な貨幣数量説の信奉者)はロビンズやシュンペーターやらの曲解(あるいは単純化)によって生み出された虚像であるらしい。フィッシャーが素朴な貨幣数量説論者でないことは確かである(Pavanelli論文参照)。じゃあヒュームはどうなんだろう、ってことで(フリードマンの発言の真偽を確かめるためにも)『市民の国について(下)』(「貨幣について」、p51〜p70)を読んでみました。

実を言うと、貨幣は商品流通において主題の一つとなり得るものではなく、財貨の交換においてそれを円滑にするために人々が互いに同意し合っている交換用具(instruments)に過ぎません。商品流通を車にたとえるならば、貨幣はその両輪の一つなどでは決してありません。そうではなく、それら両輪の回転をより円滑にするための潤滑油のようなものです。・・・誰の目にも明らかなように、その国の所有する貨幣量の多少は全くなんの意味も持ちません。というのは、物価はつねにその国の貨幣量に比例するのであり、・・・(p51)

冒頭からいきなり素朴な貨幣数量説丸出しじゃないかい。フリードマンの嘘つきめ(怒。

貨幣は労働と財貨との表示物(representation)以外のなにものでもなく、労働と財貨との評価もしくは勘定(rating or estimating)の手段として役立つに過ぎません。もしその国に従来よりもより多量の貨幣が存在するようになれば、同じ量の財(goods)を表示するのにより多量の貨幣が必要になるというだけのことです。ですから、その国家だけに限定して問題を考えるならば、貨幣量の増大が善悪いずれであろうと、なんらかの結果をもたらすということは皆無です。それはちょうど、僅かの記号で済ますことのできるアラビア記法の代わりにきわめて多数の記号の必要なローマ記法を用いても、その商人の帳簿に何の変化も起こらぬのと同じことです。(p56)

疑いは深まるばかり。フリードマンの言うことなんか二度と聞くもんか(怒。

一つ確かなことは、アメリカにおける鉱山の発見以来、それらの鉱山を保有している国々を除けばヨーロッパのすべての国々において生産活動が上昇してきているという事実です。そして、この事実を正しく説明し得る理由はなんといっても金銀の増大ということであろうと思います。(p56)

ん?

われわれの気づくことは、いかなる国であれ、その国へ貨幣が従来よりもはるかに大量に流入し始めると、事態は一変し、労働と生産活動とは活気を帯び、商品流通者(the merchant)はさらに企業的精神に富むようになり(enterprising)、工業生産者(the manufacturer)はさらに生産への熱意を燃やす(diligent)とともにその技術をさらに高めるようになってゆくということ、それどころか、農業生産者(the farmer)までがその鋤をますます素早くしかも注意深く操ってゆくようになるということです。もしわれわれが貨幣の増大がもたらす影響は物価を上昇させるということだけである、いいかえると、各人にその買い求めるものすべてに対しより多数の黄色ないしは白色の金属片を支払わせることになるだけである、とするのでしたら、今述べた〔社会過程〕の説明は容易ではありません。(p57)

んんんん?

物価の高騰が金銀貨の増大のもたらす必然の結果であるとはいえ、そのような高騰は金銀貨の量が増大したとたんに始まるというのではなく、増えた貨幣が国内隈なく流通してゆきその影響があらゆる階級(ranks)のひとびとに感得されるようになるには若干の時間がかかるということです。最初のうちはなんの変化も認められません。徐々に物価が、まずこの財貨、ついであの財貨、という具合に上昇してゆきます。そしてついに物価全体が、その国に存在する新たな貨幣量と正しく比例するようになります。わたくしの見解では、金銀貨の保有量の増大がその国の生産活動に有益な影響を与えるのは貨幣の取得と物価の上昇との間のこの〔ズレの〕期間、つまり、そのような過渡的状態のときだけに限られます。(p57〜58)

流入してきた貨幣は、労働の価格を引き上げるに先立ち、先ず、すべての私人の生産意欲(diligence)を必然的に高める、ということでしょう。また、貨幣(the species)〔の増大〕が労働の価格の高騰という結果をもたらすまでにその量をかなりの程度まで増大させ得るということも・・・(p59)。

その国の貨幣保有量が変動するとき、増減いずれの場合でも、直ちにそれに比例しつつ物価もまた変動するということにならぬという事情・・・。事態が新しい状況に応ずるにはつねに一定の間(interval)が介在しなければなりません。(p60)

ヨッ、さすがフリードマン様。私も実はそうじゃないかと思ってたんですよ。ちゃんと最後まで読めって話ですよね。貨幣供給量の増加が(それに比例する)物価上昇を引き起こすまでには一定の間があるんですよね。金融政策(あるいは貨幣供給量の増加)は有効なんですよね、一定の間は(一定の間の推移(つまりは貨幣供給量の増加が景気を刺激する様子)についてのヒュームの説明はp57〜60を参照のこと)。

さらに、ヒュームは貨幣供給量の変化が短期的のみならず長期的にも実体経済に影響を及ぼし続ける(=あるは短期的な状態(=一定の間)がかなり長い間持続する)可能性についても言及している。

その国に存在する貨幣の量の多少はその国の国内的な幸福にかんしてはいかなる意味でも重要性を持たぬということです。為政者のとるべき政策はただ一つ、もし可能であれば貨幣を漸増の状態に保つということだけです。というのは、貨幣を漸増の状態に保つならばそれにより、国内における生産への熱意(a spirit of industry)をいやましに高め、いっさいの真の兵力といっさいの真の富とがそれから成り立つあの労働の蓄積量を増大させることになるからです。(p59〜60)

金銀貨の量の多寡それ自体は全くどうでもよい事柄です。金銀貨の存在量にかんし、もしなんらかの重要性を持つ事情があるとすれば、それは次の二つの事情だけです。すなわち、その漸増と国の隅々までの偏在および流通とだけです。(p69〜70)

「現在の」貨幣量の多寡は問題ではない。(追記;この記述は長期的にも貨幣供給量の増減が実体経済に影響を与え得るとヒュームが考えていたことを示しているんじゃなかろうか?;Fellow Travelerさん、貴重な情報を提供していただきまして誠にありがとうございました)。貨幣量を漸増させることにより、(各種の価格調整が遅れることによって)物価上昇を伴いつつも(=貨幣供給量の増加の影響がすべて吸収されるほどには物価は上昇しない)実体経済を刺激し続けることは可能である・・・。

ここで久々にヒックスの登場(誰も待ってないですかそうですか)。ヒックスは『経済学の思考法』(「第3章 貨幣的な経験と貨幣理論」)において、「貨幣について(of Money)」で展開されたヒュームの議論を簡単にモデル化(というほど大それたものでもないが)したうえで(=古典的数量説のモデルと名付けている)、そこから導き出しうる帰結に関しあれこれ論じている(貨幣供給の増加がなぜ(即座の)物価上昇によって相殺されないのか(貨幣供給量の増加がなぜ実体経済にポジティブなインパクトを与えうるのか)という点を解明するというよりは、そのことを前提した上で貨幣供給の増加がどのような名目所得(物価×実質所得)の変化を生み出すかを考察したものである)。

数量説−今日において死に絶えたわけではない−のもっとも素朴な形は、物価水準を貨幣量に依存させる。しかし、ヒュームが(かつて)与えた形をとるとしても、古典的数量説はこのように素朴ではない。ヒュームは、貨幣供給量の増加の最初の効果が産業を刺激することに気がついていた。「それは、賃金を引き上げる前にすべての人々の勤勉さを刺激するに違いない」。したがって、価格に対する効果と同じく産出量に対する効果も考慮に入れなければならない。両者を同時に考慮するならば、貨幣供給量(M)に依存するとみられるのは、産出量(以下PQと書く)の全価値である。(『経済学の思考法』(以下の引用はこの本から)、p67)

ヒックスは交換方程式MV=PQにおいて流通速度Vが不変(=一定)である場合と可変である場合を分けて議論を展開する(この議論においては貨幣供給は完全に外生的である。毎期mだけの貨幣が外部から注入されると考える(貨幣=金属貨幣のみと想定し、新しい供給源の開発により毎期mだけの(貨幣用の)金銀が産出される)。貨幣は銀生産者(=貨幣供給者と考えてもよい)の手元に入った後、一期間の遅れを伴って(非貨幣的商品に対する貨幣的な需要として)商品供給者に(商品と交換に)手渡されることになる。商品供給者は収入の増加をうけて支出を増加させる。以下続く)。

1.流通速度が不変である場合

金融制度が未発達であるため資金の貸借が不可能(あるいは非常に困難)であり、そのため過去の貯蓄とその期間内に受け取った収入の範囲内に支出は制限される。この仮定の下で、その期に手元に入る貨幣が一期間の遅れを伴ってすべて支出される(よって第2期に2mの所得(需要は銀生産者の需要m)が、第3期に3mの所得(需要は銀生産者の需要m+商品供給者Aの商品Bに対する需要mの計2m)が発生することになる)と考えてはじめて流通速度が一定となる。この時貨幣Mの増加はPQの比例的な増加を帰結することになる。              

2.流通速度が可変である場合

金融制度が未発達であるために借入機会が欠如しているならば、「不時の出費に備えて準備を保有する利点が非常に大きいため、貯蓄を好む、あるいは支出抑制への偏りが予想される」(p68)。受け取った貨幣をすべて支出すると考えるのは現実的ではない。受けとられた貨幣がすべて手渡されるのではなく、消費性向cだけが手渡され残りは貯蓄されると考えるならば、第5期においては貨幣残高は総計5m増加するけれども、第5期に発生する所得はm(1+c+c^2+c^3+c^4)以下となり5mよりは小さくなる。流通速度は貨幣保蔵の傾向が高まるほど(=cが小さくなるほど)小さくなってゆく。この場合においては(時間が経つにつれて)貨幣が無限に増加しても発生した所得は無限には増加しない(=所得PQに上限が存在する;無限等比級数の和ですんで)。 

借入れと貸し出しが可能であると仮定すると(金融制度がある程度発展し、(銀行制度が整備されるとまではいかなくとも)資本市場へのアクセスが可能となったとすれば)以上の議論はどのような変容を被ることになるだろうか。受け取りを超える支出が過去の貯蓄によってのみ調達されるということではなく、他者からの借入れによっても調達されうるようになったとすればどうなるだろうか。

貸手は、彼が手渡した貨幣の代わりに借手の返済の約束を受けとるので(この約束は貨幣の「保蔵」がそうであるようには不時の支出には直接使えないので)、彼が放棄した流動性を償うために、利子の支払いを要求するであろう(どの程度の流動性を放棄するかは、一部は貸出しの条件に依存し、もう一部はその請求権を他人に売却しうる便宜の程度にも依存する。すなわち、資本市場の発展の程度に依存する)。(p72)

利子は流動性放棄の代価である。貸借期間が長期になるほど借手が請求される利子は高くなる(=貸手の流動性の欠如状態が長期化するため)。設定される利子率の水準は借手の信用や純資産ないしは担保となりうる資産の保有状態にも依存するだろう(=返済可能性が高いほど(あるいは流動性の欠如状態が将来的に回復される可能性が高いほど)利子率は低くなる)。流動性の状態に対して楽観的であるならば利子率は低位安定するだろうし、悲観的な場合にはどれだけ高い利子率支払いを約束されても貨幣の貸出しには躊躇するかもしれない。

資金貸借の機会が開かれるや貨幣供給の増加は単線的な所得増加ではなく(1のように)、循環的な所得変化を生み出すことになる。

新貨幣の生産者も、新貨幣で支払われた生産物の生産者も、その所得が増加するとは単純にいえない。同時に彼らの信用状態は改善され、借り入れることが容易になるであろう。少なくとも彼らの一部は、借り入れることを望み、われわれの第一のモデルよりも支出はさらに急速に拡大するであろう(引用者:最後の一文に(注)が付されています(以下注の内容);当初の拡張が単なる物価の上昇ではなく、実物的な拡張であるというヒュームの主張を念頭におくと、通常の「加速度」原理に従って投資増加への需要が生ずると予想することは不合理ではない)。(p72)

保有する貨幣量の増加→信用状態の改善→要求される利子率の低下あるいは貸出量の増加により、支出は1の場合(つまりは収入=支出の場合)を超えて拡大する(=貨幣量の増加に比例する以上に所得が増加する)。しかし、支出の増加傾向もいつまでも続きはしない。貸手はすべての貨幣を貯蓄するわけではなく(自らの支出のために幾許かの貨幣が必要である)、また保蔵された貨幣すべてを貸し付けるわけでもない(幾許かの流動性を保持しようと努めるはずであるから)。支出の拡大傾向が進行するにつれ、借り入れ可能な貨幣の絶対量は減少し(自らの流動性を維持するために貸出しに応じる人が少なくなってゆく)、要求される利子率も高まってゆく(=流動性放棄の代価が高まる)。高まる利子率は資金借り入れを抑制し支出を減少させていくことだろう。

また、貨幣を遊休させておくだけでは利子を返済することはできないので、高い利子率で資金を調達した借手はハイリターンを求めて少々疑わしい事業にも乗り出さざるを得なくなる。無謀な挑戦に乗り出す企業の様子を見て(中には債務を返済しきれずに倒産する借手も発生することだろう)、貸手は資金返済の圧力を強め、どれだけ高い利子率を提示されてももはや貨幣の貸出しには応じなくなる(あまりにリスクが高過ぎるためでもあるし、貸手自身の流動性の欠如がはなはだしいためでもある)。また、経済が拡大するにつれてコスト(賃金や仕入れ品の価格等)も上昇してゆくことから(当初の高い水準にあった)利潤も徐々に圧縮される。高い利子を返済するには物足りない水準まで利潤は縮小してゆくことだろう(=資金借り入れの抑制傾向を生む)。多くの負債を抱える借手は負債圧縮のために新規投資をさけて貨幣保蔵を選好する(=負債の返済を優先する)ことになる。単に支出が減少するというにはとどまらず(1の状態に落ち着いてゆくというわけではなく)、急激な支出の落ち込みを招く(1の状態以下に支出を押さえ込み、2の状態に近づく)ことになるかもしれない。

もし拡大が急速であるならば、上限との衝突も急激であり、危機が生ずる。この危機は、以前になされた貸付の流動性が疑問視されることから生ずる。貸付を行なった貸手は、その資本が減価するのに気づき、貸出しを増加させることに消極的になると同時に、資本のうち貨幣の形で保有する部分を増加させようとする。その結果、支出は急激に減少し、しばらくの間、システムは以前に議論したような「貯蓄超過」の状況に陥る。・・・以前の好況期になされた貸付のすべてが突然無価値になるという非常に極端な場合を考えてみよう。この場合においても(変わることのない)金属貨幣の供給があり、金属貨幣のすべてが、保蔵しようとしている人々の手元にあると仮定することは無理である。したがって、低い水準であるとはいえ、支出は継続する。好況の恩恵を受けない経済部門がかなりあり、衝撃があまり極端でない場合には、下限はそんなに低くはないであろう。新しい借手と新しい貸手がやがて出現し、回復が生ずるであろう(p73〜74)

資金貸借の可能性が存在する経済において貨幣が漸増するとき(この場合貨幣供給が毎期mだけ増加している)、当該経済は均衡経路(=1の状態)をめぐる循環を示すことになる。流動性の状態に不安を覚えさせるほどの景気拡大(M上昇に比してのPQの急激な上昇)はやがて貨幣保蔵の傾向を生むことによって経済を均衡経路以下に落とし込み、2の状態(あるいはそれ以下)に近づいてゆく。漸増する貨幣供給によって流動性の状態が回復するにつれ、支出水準は徐々に高まってゆき、経済は均衡経路に向かって(あるいはそれを超えて)拡大してゆくことになる。

少なくとも二つ理由によってこの「循環」を跡づけることには意味があると考える。一方では、(我々が前提したように)銀行貨幣や他の紙幣がないときにも、景気変動−貨幣的変動−の可能性があることを示している。変動のための条件は、銀行業の存在ではなくして、資本市場の存在である。もう一つの理由は、この説明が貨幣数量説自身に新しい外観を与えることである。このような経済において可能な変動は、・・・均衡経路をめぐる変動である。貯蓄超過も負の貯蓄超過もない経路に沿って形成される所得は貨幣供給と比例的であると仮定するのは正当である。なぜならばこの経路に沿うときには、保蔵も負の保蔵もなく、貨幣は単に正常な仕方で循環しているだけである。しかし、経済はこの経路にはりついているとは限らない。この経路から乖離する範囲が制約されているに過ぎないのである。(p74)

ヒュームによれば貨幣供給量の漸増は一方向的な景気拡大を引き起こす可能性があるとのことであった。また、素朴な貨幣数量説論者(だけではなく貨幣数量説論者も)は貨幣供給の増加は長期的にはそれに比例する物価の上昇を招くだけであると説く。安定的に漸増する貨幣供給は均衡経路をめぐる循環を生む、というヒックスの議論は(経済は一方向的な拡大ではなく循環する動きを示すと主張することで)ヒュームの議論に一定の留保を表明し、また(均衡経路(Mの増加がPQの比例的な上昇を生む)についてしか語っていないということを明らかにすることで)素朴な貨幣数量説論者のあまりに単純な見方への抵抗を示すことによって、(古典的)貨幣数量説に「新たな外観」を与えんとする試みであると見なし得るであろう。(二つの貨幣数量説を同時にその中に含み込んでいるといえなくもないので)eclecticなヒックスの面目躍如といったところだろうか。