言いだしっぺは誰?
スタグフレーション(stagflation)はサミュエルソン(Paul Samuelson)の造語であり、流動性の罠(liquidity trap)はケインズ(John Maynard Keynes)の発案であると広く信じられている。また 「ただ飯なんてものはない(There Is No Such Thing As A Free Lunch)」という表現はフリードマン(Milton Friedman)の名前と結びつけて語られることがほとんどである。しかし、これら3つの言葉いずれに関しても言いだしっぺは別の人物らしい*1。
スタグフレーションはイギリスの政治家マクロード(Iain Macleod)による造語(Edward Nelson and Kalin Nikolov, “Monetary policy and stagflation in the UK(pdf)”, pp.9ならびに同ページの注2を参照)、流動性の罠という語はイギリスの経済学者ロバートソン(Dennis Robertson)の発案(例えばMauro Boianovsky, “The IS-LM Model and the Liquidity Trap Concept: From Hicks to Krugman(pdf)”のpp.1でちょこっと触れられている*2)とのこと。
「ただ飯なんてものはない」に関してはwikipediaあるいはFred R. Shapiro, “Quote . . . Misquote”(NYTimes.com, July 21, 2008)において語られているように、少なくとも1949年にまで*3その起源は遡れるらしい(Pierre Dos Utt氏によって書かれた本 『TANSTAAFL: a plan for a new economic world order』あるいはSan Francisco NewsにおけるWalter Morrow氏の記事)。 ロバート・ハインライン(Robert Heinlein)のSF小説『月は無慈悲な夜の女王(The Moon is a Harsh Mistress)』も「ただ飯なんてものはない」との言葉を広めるのに大きな力を持ったとのこと。
以上、・・・・とするのも何だか寂しいのでスティグラー著『現代経済学の回想』より「ただ飯なんてものはない」に関連した記述を引用してエントリーの終わりとしよう。
昔、経済学は富の生産と分配の研究と定義された。それがどうして結婚、宗教、政治学、そしてさらには動物行動や生理構造までも含むものとされたのだろうか。この疑問に答える一つの方法は、経済学の論理が「無料(ただ)の昼飯などというものはない」という言葉に要約されているというのが流り言葉だと説明することである。
このスローガンは、常連たちに彼らの昼飯の間中ほとんどひっきりなしに飲ませてしまおうとして、サンドイッチ一皿に「昼飯無料」と書いた、古めかしい酒場の貼り紙からとってきたものと思われる。もちろん、この昼飯代は酒の価格にのせられており、そこでこのスローガンとなったのである。しかしこのことは、それよりもっと深い意味のことを語っている。意識的欲望の対象となるものは希少であるに違いない。すなわち、誰も呼吸する空気を意識して欲しいと思わない。あるいは下手な冗談を聞きたいとは思わない。希少なものは高くつく。もしそうでないと、すべての人々は希少なものをもう希少でなくなるまで手に入れるであろう。したがって希少なもの、および所有する価値があるものは、手に入れようとするとだれにでも高くつくのである。希少なものはそれを手に入れる者には無料ではなかったのであり、したがって、その人がそれをただで配ったとすれば、それを受け取る者は、それと引き換えに価値のある何かを与えることになるのである。昼飯には、主人に品物を注文するか、主人を次の機会に招待するか、あるいはうんざりするような話を忍耐強く聞いてやるかして、ともかく価格が支払われるだろう。
だが、科学を定義するにはなんと変わった方法だろうか。それはどちらかといえば天文学を一般に夜になるとよく見えるようになる物の研究と定義するようなものである。それでも、ただの昼飯はないということは、経済学とは選択を含んだ合目的的な行動の研究である、というもっとも広く採用されている経済学の形式的定義の本質に迫るものである。生存であれ、暖をとることであれ、仲間付き合いであれ、うんざりすることを避けることであれ、あるいは昼飯であれ、そこには目的が必要である。そこにはまた、あることをいつするのか、それをどのようにするのか、あるいはそれをどんな方法で(どんな資源を使って)するのか、あるいはだれとするのか、という選択がなければならない。大まかにいえば、ただの昼飯はないということが経済学の本質なのである。
(G・J・スティグラー著 『現代経済学の回想』, pp.237〜238)
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*1:「ただ飯はない」に関してはフリードマン自身が「言いだしっぺは自分ではない」と明確に語っている。例えばMilton Friedman, “The Real Free Lunch: Markets and Private Property”を参照。
*2:この点は先日リンクを貼ったEdward Nelson and Anna J. Schwartz, “The Impact of Milton Friedman on Modern Monetary Economics: Setting the Record Straight on Paul Krugman’s “Who Was Milton Friedman?””のpp.26注32でも触れられている。
*3:Fred R. Shapiro氏はさらに遡って1942年の新聞記事中に「ただ飯なんてものはない」との表現が表れていることを突き止めている。