陰鬱なリカード?

労働節約的な技術進歩は、労働者から仕事を取り上げることになって、労働者にとっては望ましくないと信じる人々がいる。「ラッダイト運動の誤謬」と呼ばれるもので、経済学の長い伝統の中でも、これは最大級の愚かな主張の一つである。・・・
もともと「ラッダイト運動」とは、1811年、イギリスのノッティンガムで靴下やレース編み製造に携わっていた労働者たちの起こした運動である。彼らは、失職への抗議として、労働節約型の新型機械を破壊し、「キング・ラッド」(King Ludd.)という風変わりな署名をした回状をつくって自分たちの行動を公にした。機械を破壊すれば、靴下をつくる労働者たちの利益を守れると考えたのである。彼らの技能は古い技術に対応したものなので、新技術にはマッチできないものだとわかっていたのである。イギリス政府は、入念に調査し、1813年、ラッダイトの心配を鎮めるために、14台の機械を破壊した。
その後愚かなことに、ラッダイトの人々の苦悶を、ラッダイトの誤謬に一般化してしまう思想家が現れた。すなわち、同じ量の財をつくるのに、前より少ない労働者数ですむような技術進歩があれば、労働者数がこれまでよりも少なくてすむ経済になる、という誤謬である。ラッダイト主義の信奉者たちは、別の可能性については思いつかなかった。すなわち、これまでと同じ労働者で、より多くの財がつくれるようになるということである。「労働節約型技術」とは、言い換えると「一人当たりの生産が増える技術」のことである。市場経済インセンティブが働けば、雇用を減らすのではなく、投資と生産が増加する方向に動く。そうしなければ、愚かな工場経営者の中には、利益をあげる機会を逃してしまう者も出てこよう。現在と同じ労働者数でありながら生産が増えれば、労働者一人当たりの収入は増えるわけである。
もちろん、元祖ラッダイトたちのように、古い技術しか知らない者の中には、失業する者もいて当然だし、失業した犠牲者たちは悲惨である。しかし、生産向上の強力な技術を身につければ、労働者全体の暮らし向きは良くなる。ラッダイトたちは、古い技術から新しい技術へのシフトと、雇用全体の減少とを混同したのである。前者は実際起こったが、後者は起こらなかった。ドイツ、イギリス、アメリカのように技術進歩を経験した経済では、失業が長期的に増加するトレンドはなく、一人当たりの所得が上昇する長期トレンドが示されている。

ウィリアム・イースタリー著『エコノミスト 南の貧困と闘う』, pp.73〜74


以上長々と引用しましたように、イースタリーはラッダイト主義の信奉者による「機械の導入は労働者の職を奪う」との主張(に基づく労働節約的な技術進歩導入への反対論)を誤謬にすぎないしてバッサリと切り捨てているわけですが、ラッダイトと言えばリカード、特にリカードの機械論と連想する人にとっては「ラッダイトの人々の苦悶を、ラッダイトの誤謬に一般化してしまう思想家」の中には当然リカードも含まれており、この引用箇所はイースタリーによるリカード批判の意味合いも込められているんだと感じるやもしれません。しかしながら、イースタリーが「ラッダイトの人々の苦悶を、ラッダイトの誤謬に一般化してしまう思想家」として具体的にリカードの名前を挙げていないのは、手落ちでもなんでもなくリカード機械論を正しく理解しているがゆえであると私は考えるのであります。つまり、リカードは機械論の中で「機械の導入は労働者の職を奪う→労働節約的な技術進歩導入への反対」なんて議論はしていないということです。嘘つくなと言われるのでしたら、リカードが機械論の中で実際に何を語っているのかちょっとばかり検討してみることにしましょうか*1

この章で私は、機械が社会の諸階級の利害に及ぼす影響についていくらか研究してみることにしたい。
(略)
経済学の問題に初めて注意を向けてからずっと、私見はこうであった。すなわち、生産部門に、労働節約効果を生むような機械を使用することは、全体の利益であって、それに伴う不都合は、大抵の場合に、一つの部門から別の部門へと資本および労働を移動することに伴うものにすぎないのだ、と。(pp.283)

以下リカードは労働節約的な効果を有する機械の導入が「社会の諸階級」―資本家、地主、労働者―の利害にいかなる影響を及ぼすと考えられるか簡単な考察を加えているわけですが、その結果を一言でまとめると、三階級ともに機械の導入から(機械使用の結果として引き起こされる商品価格の下落→実質所得の増加、というかたちで)利益を得るだろうとリカードは述べております。ただこの点に関して注意が必要なのは「私見はこうであった」と過去形で語っているように、リカード自身労働節約的な機械導入の効果に関して幾度かの見解の変化を経験したようでして、「労働節約的な効果を有する機械の導入は社会の全階級にとって利益である」との意見を述べたすぐ後で次のように語っております。

以前の私見は以上のとおりであった。この意見は、地主および資本家に関する限り、ひきつづき変わっていない。だが、私は今は、機械を人間労働に代用することが、労働階級の利益にとってしばしばきわめて有害である、と確信している。(pp.284)

hicksianの嘘つき、と罵るにはまだ早うございます。慌ててはいけません。

私の誤りは、社会の純所得が増加する時にはいつでも、その総所得もまた増加するだろう、と想定したところから生まれた。だが私は今は、地主および資本家がその収入を引き出す一方の基金が増加するのに、労働階級が主として依存する他方の基金が減少することがある、ということを納得すべき理由を認める。それゆえ、私見が正しいとすれば、その国の純収入を増加させうるのと同じ原因が、同時に、人口を過剰にし、労働者の状態を劣悪化させることがある、という結論が出てくる。(pp.284)

私が証明したいと思うことは、機械の発明と使用とは総生産物の減少を伴うことがあるが、そういう事態が起こる時にはいつでも、労働階級のうちの若干名が解雇され、人口が雇用基金と比べて過剰になるから、機械の発明と使用とは労働階級にとって有害になるだろう、ということだけである。(pp.287)

ここに総所得(総生産物)=売上高、純所得(純収入)=利潤とみなしていただいても結構ですが、生産者たる資本家は可能な限り大きな利潤の獲得を目指して生産活動に従事しているのであって売上高の大小にはこだわらないとすれば、資本家は機械導入の結果として利潤が増加する(あるいは減少しない)限りたとえ売上高が減少しようとも機械の導入をすすめるだろう。ところで労働者を雇用する基金たる流動資本は売上高から資本家の利潤を除いた残余からなるのであるから売上高が減少すると「労働階級が主として依存する他方の基金が減少する」ことになる=雇用可能な労働者数が減る、ということになる*2。もし機械の導入が売上高の低下を伴いつつ利潤を増加させる(あるいは減少させない)というようなかたちをとるならば雇用される労働者数は減少するだろう、というわけです。リカードはこの点を簡単な数字例を用いて議論しております。

以上のことからわかることは、hicksianの嘘つき・・・ということではなくて、もうちょっと辛抱しましょう。ただあらかじめ述べておきますと、機械の導入は必ずしも売上高を減少させるとは限らない、売上高の増加と利潤の増加とが共存する場合もある、なんていうつまらない反論に基づいて「リカードは「機械の導入は労働者の職を奪う→労働節約的な技術進歩導入への反対」なんて議論はしていない」と主張しようとしているわけではございません。リカードは、機械の導入が売上高を減少させるとしても、つまりは機械の導入が(売上高の減少の結果として賃金基金が縮小するために)労働雇用量を減少させるとしても「機械の導入は労働者の職を奪う」ということには必ずしもならない、と主張しているのです。「機械の導入は労働者の職を奪うけれども、労働者の職を奪わない」? 矛盾しているじゃないかと思われるでしょうが矛盾はしておりません。リカードの主張を聞いてみましょう。

資本を増加させるために収入から貯蓄する力は、純収入が資本家の欲望を満足させる効率に依存するにちがいないから、彼の欲望が同じであれば、機械採用の結果である商品[価値]の低下から、彼の貯蓄の資力は増加する、―つまり、収入を資本に転嫁する際の容易さは増進する、という結果が必ず生ずるだろう。だが、資本が増加する度ごとに、資本家が雇用する労働者数は増加するだろう。それゆえ、はじめに解雇された人々の一部分は、のちになって雇用されるだろう。そして、もし機械使用の結果である生産の増大が、以前総生産物として存在しただけの数量の食物および必需品を、純生産物として産出するほどの大きさであれば、全人口を雇用する能力は以前と同一であろう。したがって、そこでは人口の過剰は必ずしも起こらないだろう。(pp.287)

私はまた、機械改良の結果としてつねに生ずる、商品で評価された純所得の増加が、新たな貯蓄と蓄積とに導く、ということもすでに述べた。この貯蓄は年々行われるものであって、機械の発明によって最初に失われた総収入よりもはるかに大きな基金を間もなく創造するにちがいないのであり、そうなった時には、労働需要が以前と同じ大きさになるだろうし、また、人民の状態は、純収入の増加のために、彼らがなおさら貯蓄を増加させることができるようになることによって、さらにいっそう改善されるだろう、ということが記憶されなければならない。(pp.294〜295)

長々と引用しましたが、リカードが言わんとしていることを簡潔にまとめると以下のようになります。
機械導入が労働雇用に与える効果を論じるに際してはその即時的(あるいは短期的)効果と長期的効果とを区別しなければいけない。確かに機械導入の結果として短期的には労働雇用量が減少することがあるかもしれない。しかしながら、資本家が無限の欲望を有していて手にした利潤をすべて消費に回すということがない限りは、機械導入の結果によって資本家が手にする(実質的な)利潤が増大し*3、また資本家が手にした利潤から貯蓄に回される部分も増大するであろう。貯蓄の増加は労働を雇用するために利用可能な資本の蓄積を意味し、年々の貯蓄がなされるたびにそれに応じて雇用される労働量も増加するであろう。機械の導入は利潤増加→貯蓄=資本蓄積の進展という経路(=機械導入の長期的効果)を経てやがては機械導入の即時的効果(機械導入→労働雇用量の減少)を相殺することになる、つまりは労働雇用量は機械導入以前の水準へと回帰することになる(あるいはそれを超えて雇用が拡大する)だろう、というわけでございます。

確かにリカードが言うように機械を導入しても長期的には労働雇用量は元の水準に戻るのかもしれない。でも雇用の水準が元のレベルにまで回復するには(資本蓄積が十分になされるまでには)非常に長い時間を要するかもしれない。長期的にはというけれど、「長期的には我々はみな死んでしまう」かもしれないじゃないか。機械導入により雇用水準が落ち込む過渡期において失業状態におかれる労働者の苦しみは無視するのか、との批判もあるかもしれない。リカードが言うように機械導入の長期的効果を受け入れたとしても労働節約的な機械導入への反対は依然として成り立つのかもしれない。
機械導入の即時的効果を嫌って労働節約的な機械の導入に反対する議論を想定してのことでしょう(←この点は私の勝手な推測)、リカードは以下のように「労働節約的な機械導入への反対論」への反論も寄せております。

一国が機械の使用を妨害すれば、その国はけっして安全ではありえない。なぜなら、ある資本が、機械の使用によってこの国で生まれる最大の純収入を獲得することを許されなければ、その資本は外国に運び去られるだろうし、これは労働需要にとっては、最も広範な機械の使用よりもはるかに重大な障害となるにちがいないからである。なぜ障害になるかといえば、ある資本がこの国で使用されている限り、その資本は若干の労働に対して需要を創造するにちがいないからである。すなわち、人間の助力なしには機械を運転することはできないし、人間の労働の貢献がなければ機械を製作することはできないのである。資本の一部分を機械の改良に投下すれば、労働需要の増進は逓減するだろう。〔だが、〕その資本を他国へ輸出すれば、労働需要は全滅するだろう。
また、商品の価格は、その生産費によって規定される。改良された機械を使用すれば、商品の生産費は引き下げられる。したがって、われわれはそれらの商品を外国市場で、より安い価格で売ることができる。だが、他のすべての国々が機械の使用を奨励するのに、われわれがそれを拒否すれば、わが国の財貨の自然価格が他の国々の〔財貨の〕価格まで低下するまでは、われわれはわが国の貨幣を外国の財貨と交換に輸出せざるを得ないだろう。これらの国々との交換を行うにあたって、われわれは、この国で二日の労働を費やした商品を、外国で一日の労働を費やした商品と交換に与えるかもしれない。だが、こういう不利な交換は、われわれ自身の行動の結果である。なぜなら、われわれが輸出している商品は、二日の労働が費やされたが、もしわれわれが機械の使用を拒絶しなかったとすれば、わずか一日の労働を費やしたにすぎなかったことだろう。わが隣国民は、われわれよりも賢明で、機械の用役を独り占めにしていたのである。(pp.295〜296)

労働節約的な機械の導入を政策的に規制すれば、そもそも生産活動自体が行われなくなるかあるいは生産活動が海外へ移転することによって雇用が減少するだろうし、また労働節約的な機械の導入を政策的に規制することで国内の企業が非効率的な(あるいは費用のかかる)生産状況に置かれるならば、海外企業との競争に敗れて生産の縮小(あるいは市場からの撤退)を余儀なくされやはり雇用の減少という事態を招くことになるかもしれない。これらの結果として減少する雇用労働量は機械導入の即時的効果による雇用の減少を凌駕するかもしれない、というのであります。
リカード自身は労働節約的な機械の導入に対していかなる政策対応をとり得るかという点は論じておりませんが(政策的に何もする必要はないと考えている結果かもしれないけれども)、以上のリカードの議論と矛盾しないかたちでの政策対応の一つとして考えられるものは、労働節約的な機械導入の長期的効果を促進すること、つまりは機械導入によって減少した雇用労働量が導入以前の水準にまで回復するスピードを速めること、となるでしょう。ここまでの議論の枠内でいいますと、労働節約的な機械導入の長期的効果は資本家による貯蓄(資本蓄積)を通じて表れるのでありますから、資本家に対して貯蓄を行うインセンティブを提供する(=大まかにいえば貯蓄優遇政策)、ということになるでありましょう。

以上をまとめますと、リカードは「ラッダイトの人々の苦悶を、ラッダイトの誤謬に一般化してしまう思想家」ではない、ということになるわけでございます。


お気づきの方もいるかもしれませんが、このエントリーは「ヒックス小ネタ」カテゴリーということになっております。にもかかわらず、ここまでヒックスのヒの字も出てきておりません。hicksianの嘘つき、と罵倒したくなる気持ちもよくわかります(自分自身でもそう思う)。しかし、待ってほしい。・・・・と続けるにはあまりにエントリーが長くなってしまいました。細かい点は機会があればいずれ触れることができればと思いますが、ヒックスは『経済史の理論』の中でリカード機械論の検討を行っているのでございます(「付論 リカードの機械論」)。議論の設定はリカードのオリジナルとは若干違いますけれども、ヒックスはリカードと同様の結論を導き出しております。つまりは、労働節約的な機械導入の効果を即時的効果と長期的効果に区別した上で(即時的とか長期的とかなんて言葉は使ってないけれども)、「短期的には雇用減少、長期的には利潤からの貯蓄による資本蓄積の結果として雇用回復」という結論を(ということで、ヒックスもまた「ラッダイトの人々の苦悶を、ラッダイトの誤謬に一般化してしまう思想家」ではない、ということになります)。分量的にもそんなに長くはありませんので興味がある方はご一読なさってみてはいかがでしょうか。


(追記)

機械導入の即時的効果/長期的効果とするよりは、機械導入の雇用抑制効果/雇用促進効果としたほうが率直でいいかもしれんね。機械導入直後は雇用抑制効果が優勢だけれども、機械導入から時間が経過するにつれて徐々に雇用促進効果が表れ始め、やがては雇用抑制効果を打ち消すに至ると。


(追々記)

機械導入の雇用促進効果の結果として労働雇用の水準が機械導入以前のレベルに復した経済というのは雇用されている労働量という点からすると機械導入以前の経済と違いはない。しかしながら、機械導入(費用節約的な生産方法への転換)の結果として商品価格が下落しているので機械導入前後で名目賃金の水準に違いがないとすれば賃金の商品購買力、すなわち実質賃金は上昇する、という結果になる。それゆえ、労働節約的な機械導入は労働者に対して実質賃金の上昇という便益をもたらすものであり、冒頭の引用文においてイースタリーが述べているように、労働節約的な機械導入の結果として「労働者一人当たりの収入は増え」、「労働者全体の暮らし向きは良くなる」のである。


エコノミスト 南の貧困と闘う

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経済学および課税の原理 (下巻) (岩波文庫)

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経済史の理論 (講談社学術文庫)

経済史の理論 (講談社学術文庫)

*1:羽鳥卓也・吉澤芳樹訳『経済学および課税の原理 下巻』(岩波文庫, 1987年), 「付録C 〔第3版第31章 機械について〕」, pp.282〜pp.296。以下の引用は本書による。

*2:話を単純にするために生産活動に必要な生産要素は労働者(による労働サービスの提供)だけであるとしましょう。あなたが100万円の資金を元手に事業を始めようとしているとします。労働者一人雇うのに10万円の支払い(=労働賃金)が必要だとするとこの100万円の資金で10人の労働者が雇えます。この10人の労働者を雇って生産した商品が市場で合計120万円で売れたとすると100万円のお金を用いて120万円のお金を稼いだわけですからあなたは20万円分の儲けを手にしたことになります。ここで商品の販売代金である120万円を手にしてこの事業を閉じるという選択肢もありますが、販売代金の120万円を元手として事業を継続するという選択肢もあります。労働賃金が以前と変わらないのであれば120万円の資金で12人の労働者を雇うことが可能になり以前よりも事業規模を拡大することができますが、儲けである20万円は自分の好きなように使おうと考えて事業には再度100(=120-20)万円だけを投下するという選択肢もあります。販売代金からどれだけの金額を自分の持ち分としてとっておくかはあなたの自由ですが、販売代金からあなたの取り分を差し引いた金額が今後事業を継続するにあたって使用することが可能な資金であり、同時に労働を雇用するために利用可能な資金=賃金基金ということになります。もしあなたが儲けである20万円の取り分で満足と考えるような禁欲的な人物であれば、(市場の条件が変わらない限りは)100万円の資金を元手に10人の労働者を雇い、生産された商品を市場で売却して120万円を手にする→20万円を自分のためにとっておいて100万円の資金を元手に事業継続→・・・、ということで100万円の資本が回転するたびに(=労働者を雇って生産された商品を市場で販売するたびに)20万円の儲けを手にすることができる、ということになります。あなたの取り分が少なければ少ないほど労働を雇用するのに利用可能な資金は大きくなる(=労働賃金が変わらないとすれば雇用可能な労働者の数も多くなる)ということになりますが、同時にあなたの取り分が一定だとすると売上高が大きいほど労働を雇用するのに利用可能な資金は大きくなります。反対にあなたの取り分が一定だとすると売上高が小さいほど労働を雇用するのに利用可能な資金は少なくなります。もし50万円の元手で70万円の売上げを手にすることができれば、あなたの儲けは20万円ですから先ほどの10人を雇って120万円の売り上げを手にした場合と事業としての魅力は変わらないでしょうが、50万円の元手で雇用される労働者数は(一人当たりの労働賃金が10万円のままで変わらなければ)先ほどの10人から5人へと減少しますから労働者全体としてはあなたには売り上げの可能な限り大きい事業に従事してもらいたいと考えるでしょう。

*3:利潤が増大しないのであればそもそも機械を導入しようとはしない