総需要を刺激するためにどうして金融政策が使用されそうにないんだろうか?


●Tyler Cowen, “Why aren’t we using monetary policy to stimulate aggregate demand?”(Marginal Revolution, September 19, 2010)

ニューヨークタイムズへの寄稿記事(=“Can the Fed Offer a Reason to Cheer?”)に対する補足のエントリー。この寄稿記事の詳細については、night_in_tunisiaさんによる翻訳 “FRBは人々に楽観を与えることが出来るか? by Tyler Cowen”を参照のこと。なお、文中における寄稿記事からの引用部分に関してはnight_in_tunisiaさんの訳をそのまま利用させていただいた。

今日ニューヨークタイムズに寄稿した記事の中で、私は、なぜ我々は3%のインフレーションターゲット―少なくともここ数年の間、私が賛同してきた政策提案―の採用に向かうことができないのか、どうすればこの状況から抜け出すことができそうか、という点について論じた。内容の一部を以下に引用しよう。

・・・もしFRBが高めのインフレターゲットへのコミットメントを宣言しておきながら信認(クレディビリティ)の確立に失敗したら、FRBが無能であると評価されてしまうからだ。そうなるとFRBが再び信認を得るまで長い時間を要することになるだろうし、場合によっては(部分的に)政治的な独立性さえも失いかねない。突然にFRBは不況の「所有者」に落ち着いてしまうだろう。

クレディビリティ問題のある部分は政治環境、とくに議会からもたらされている。3%のインフレターゲティングが発表された次の日を想像して欲しい。年配の人たち、債権者および賃金が固定された労働者達はみな強力なロビイスト達とコネを持っているが、彼らは不平を唱え始めるだろう。共和党は次にキャンペーンを張るべき新たなネタ、つまり「インフレ反対」という旗を見つけたと考えるだろう。そして民主党はどのようなスタンスで行くべきか悩むだろう。何人かの地区連銀の総裁はおそらく公式にそのような政策に反対を表明するであろう。

・・・FRB金融危機の最中にいくらかの政治的独立を失った。FRB財務省と共同して大規模な救済案を引き受けた。そしてこれらの救済は極めて不人気であったことが判明した。議会はFRBの政策執行過程を注意深くチェックし、これからFRBの緊急融資の一回限りの監査を開始するであろう。インフレ、ということになればFRBは議会に対して単に「信用してくれ」というだけではすまない。

これが今回の金融危機の悲しい面だ:特に金融ということに関してはかなりの部分で信頼が失われてしまった。我々の眼前にはフリーランチの見込みが転がっているのにそれを掴めるかどうかは定かではないのだ。

・・・金融緩和拡張の失敗に対して、バーナンキ氏はFRBの限られた裁量権の賢明なる保護者となるのか、それとも栄光のために銃を撃つべき時に失敗や非難を恐れて怖じ気づいた官僚のように振る舞うのだろうか?


ここで何点か補足しておこう。

1. スペースの問題もあって、記事の中ではいわゆる「力強いレーガン好況」(”robust Reagan recovery”)は年率4%を超えるインフレの下で達成されたという点に言及することができなかった。多くの保守派(conservatives)はこの事実から目をそらしている。

2. 3%のインフレは、債務の実質的な価値を引き下げることを通じて、現在困難な状況に置かれている不動産市場の問題解決の一助となることだろう。

3. 記事の中で私が3%のインタゲを推奨した理由は、スコット・サムナー(Scott Sumner)が薦める名目GDPターゲットというアイデアとの差別化を図ろうと意図したからではない。私が3%のインタゲを推奨した理由は、一般の人々に対してはインフレーションターゲットのほうが説明が容易だからというにすぎない。私がサムナーの主張をどう考えているかについては以前に書いたこの記事を参照してほしい。

4. おそらく今現在我々は新たな政治経済的均衡(new political economy equilibrium)に置かれているのかもしれない。この均衡の下では、どの政府機関(government agency)も一つの問題あたり一回限りの行動しか許されない。財務省は財政刺激プランという一回限りの行動を実行し、Fed金融危機の過程で風変わりな(exotic)金融政策とディールメイキング(deal-making)*1を実施した。おそらく、経済の低迷期には、有権者らは狭隘になりがちであり、そのために誰一人として2度目の挑戦をすることは認められない(有権者らが認めるところとはならない)のだろう。これまで我々はこのようなシナリオが有する政治経済学的な意味合いについて深く掘り下げて考えてこなかった。

5. もしFedが今の時点で3%のインフレにコミットすることができないとすれば、どの時点でFedはタイミングを見過ごしたのだろうか(あるいはいつの時点ならコミットメントがうまくいったのだろうか?) おそらく金融危機のピーク時、つまりはFedがかなりの程度の裁量をもって振る舞い、数々のラディカルな行動が正当なものとして受け入れられていた時に、景気回復を確実なものとするために、Fedは熱が冷めるのを見計らって3%のインタゲの採用に移行する旨をアナウンスすべきだったのだろう。しかしながら、あのタイミングで3%のインフレにコミットする旨を宣言することは、マグヌス・カールセン(Magnus Carlsen*2なみの先を見通す力を必要としたことだろう。ともあれ、当時バーナンキは、私が先の4番目のポイントで指摘したメカニズムと似たような事態が生じつつあることを認識していなかったのかもしれない。

6. マーク・ソーマ(Mark Thoma)の意見とは異なり、私は時間整合性の問題(time consistency problems)についてはそれほど心配していない。ただし、議会がFedの政策を支持する限り、という条件はつくが。経済が不調である限りは、3%のインフレを維持することはFedの利益にかなうものである。人々が、経済の状況が改善すれば最終的にはFedは2%のインフレを目指すことになるだろうということを理解しているとしても、それによって私が記事の中で述べたアイデア全体が無効になるとは思わない。

7. 1999年にバーナンキが日本経済について論じたこの文章(pdf)から教えられることは依然として多い。例えば以下に引用する箇所を見よ。

日銀の審議委員らは、明示的なインフレーションターゲットの採用を促す提案に対してこれまで強い抵抗を示してきた。彼ら審議委員らの口からしばしば表明される懸念は、どうしたらそれを達成することができるか自ら確信が持てないようなターゲットをアナウンスすれば、日銀の信認(クレディビリティ)が毀損されてしまうことなるだろう、というものである。さらに、審議委員らは、単にターゲットをアナウンスするだけで人々が抱く期待に何らかの影響を及ぼすことができるかどうかについて疑いの念を表明してもいる。アナウンスメント効果の問題に関していうと、理論と実際の経験とは、特にゲームの「プレイヤー」がアナウンスすることとそのプレイヤーのインセンティブとが対立していないような状況では、「チープトーク」(“cheap talk”)は時に期待に影響を及ぼし得る、ということを示唆している。ゼロ金利政策の継続をアナウンスすることで実際に(日本経済における)金利の期間構造に生じた効果は、アナウンスメント効果の潜在的な力を例証する完璧な一例である。
(BOJ officials have strongly resisted the suggestion of installing an explicit inflation target. Their often-stated concern is that announcing a target that they are not sure they know how to achieve will endanger the Bank’s credibility; and they have expressed skepticism that simple announcements can have any effects on expectations. On the issue of announcement effects, theory and practice suggest that “cheap talk” can in fact sometimes affect expectations, particularly when there is no conflict between what a “player” announces and that player’s incentives. The effect of the announcement of a sustained zero-interest-rate policy on the term structure in Japan is itself a perfect example of the potential power of announcement effects.)

インフレーションターゲットと日銀の信認(クレディビリティ)の問題に関していうと、政策当局者が率直かつ正直に(あるいは誠実に)国民と対話する枠組みを採用する結果として日銀の信認が毀損されるという可能性はあるだろうか。どのようなメカニズムを通じて日銀の信認が毀損される可能性があるのか、私は知らない。
(With respect to the issue of inflation targets and BOJ credibility, I do not see how credibility can be harmed by straightforward and honest dialogue of policymakers with the public.)


あまりにもシュトラウス的な(Straussian)、あるいは、フロイト的な(Freudian)見方かもしれないが、バーナンキのこの文章を読んで私が感じるのは、彼は、コミットメントが可能かどうかはっきりとした確信が持てないままに(3〜4%の)インフレに対するコミットメントを薦めようとしているのではないか、ということである。以下で先の引用箇所に続く文章を引用するが、議論の重要なポイントで登場する”distancing” language*3に注目せよ。おそらくバーナンキは、情報を隠そうとする官僚のインセンティブをちゃんと理解しないままに以下の部分を書いたのだろう。

しかし、日銀の審議委員らが、技術的な理由のために、アナウンスしたターゲットがいつの時点で達成されることになるか、また(そもそも)ターゲットを達成することができるかどうか、について確信が持てないならば、一般の人々にその旨を説明するという道もある。一般の人々が、日銀はリフレーションを実現するために自らにできることをすべてやっていると知っており、また同時に、日銀がどういった理由に基づいて特定の行動をとっているのかを理解しているような状況の方が好ましいだろう。というのも、この状況の代わりというのは、日銀がマクロ経済の改善をサポートする意思や能力を持っているかどうかについて民間部門が疑いの念を抱き続けるままにおかれる状況だからである。
(But if BOJ officials feel that, for technical reasons, when and whether they will attain the announced target is uncertain, they could explain those points to the public as well. Better that the public knows that the BOJ is doing all it can to reflate the economy, and that it understands why the Bank is taking the actions it does. The alternative is that the private sector be left to its doubts about the willingness or competence of the BOJ to help the macroeconomic situation.)


(追記)コーエンのニューヨークタイムズへの寄稿記事に関してちょっとした注釈のようなものを。

コーエンのNYT寄稿記事では主に2つの問題が論じられているように思われる。第1の問題は、「望ましい政策あるいは実施す"べき"政策は何か?」という問題(主に記事前半のテーマ)、第2の問題は「実際にどのような政策が実施されるのか? あるいは、政策決定主体(この場合はFed)はどのようなインセンティブに直面しているのか?」という問題(主に記事後半(“残念なことに、バーナンキ氏は明らかに問題の本質を理解しているのだが”という文章ではじまるパラグラフ以降)のテーマ)、である。

公共選択論の名を有名にした話題に「ハーヴェイ・ロードの前提」批判、あるいは「慈悲深く賢明な(そして単一の意思を持った)政策決定主体」批判というのがある。その内容に簡潔に触れると、政策決定主体は望ましい政策(経済厚生の向上につながるような経済学的に見て実施す"べき"政策)を実際にも実施すると暗黙のうちに想定してしまう思考習慣に対する批判であり、言い換えれば、経済学者(特定の政策に利害関心をもたない経済学者)が(オーソドックスな経済理論が示唆するところに従って)「○○といった政策を実施すべきである」と提言すれば、政策決定主体がそのまま実際の政策として実現してくれると見なす(=経済学者の政策提言がそのまま直線的に政策として実現されると見なす)発想への批判のことである。

どのような政策が実施される"べき"かという問題の考察ももちろん重要なことではあるものの、それだけでは実際にどのような政策が実施されるかといった問題に十分答えることはできないだろう。実際にどのような政策が実施されるかといった問題を考察するにあたっては、政策決定主体=慈悲深く賢明にも実施す"べき"政策を実行する主体、と見なすのではなく、政策決定主体も(普通の人々と同様に)自らの目的・利益の追求を目指して行為する主体であるとみなしたうえで、政策決定主体がいかなるインセンティブに直面しているかに思いをはせる必要があるだろう。

コーエンの本記事では「望ましい政策あるいは実施す"べき"政策は何か?」という問題と「実際にどのような政策が実施されるのか? あるいは、政策決定主体(この場合はFed)はどのようなインセンティブに直面しているのか?」という問題との2つの問題が論じられているという点は先に触れたところである。なぜ2つの問題を切り分けて論じているかといえば、・・・そう、「ハーヴェイ・ロードの前提」「慈悲深く賢明な(そして単一の意思を持った)政策決定主体」という想定から逃れるためである。

記事前半部の議論、つまりは望ましい政策(実施す"べき"政策)=高めのインフレ率へのコミットメントを伴う金融緩和という政策提案に関してはいわゆるリフレ派が長らく主張してきた政策オプションでもあり、正直言って何を今更といった感は否めない。ただコーエンの本記事になんかしら新味があるとすれば、それは公共選択論の伝統に従って、「実際にどのような政策が実施されるのか? あるいは、政策決定主体(この場合はFed)はどのようなインセンティブに直面しているのか?」という問題意識に立って、必ずしも「慈悲深くて賢明」ではないFedが直面しているインセンティブ(あるいは政治環境)に関して簡潔ながらも考察を加えているところである。自らが望ましいと考える政策の実現を意図する立場(自らが望ましいと考える政策を実現させたいと考える立場)から「実際にどのような政策が実施されるのか? あるいは、政策決定主体(この場合はFed)はどのようなインセンティブに直面しているのか?」という問題を考察するということは、言い換えれば、「果たしてFedは望ましい政策(=高めのインフレ率へのコミットメントを伴う金融緩和)を実施するインセンティブはあるか?」を問うことでもある。そして記事の後半部を読めば明らかなように、コーエンはこの疑問に対して否定的な見解を持っていることがうかがえる*4。つまりは、コーエンは、今の政治状況のままでは、Fedは望ましい政策(=高めのインフレ率へのコミットメントを伴う金融緩和)を実施するインセンティブを持たない、と考えているということである。

*1:訳注;金融機関の救済策、特に特定金融機関の吸収合併の仲介を指しているものと思われる

*2:訳注;史上最年少でプロチェスランキング1位に選ばれたチェスプレーヤー

*3:訳注;ちょっと調べたところでは定訳はない模様。この語の意味についてはwikipediaを参照のこと

*4:特に、Fedが積極的に行動するインセンティブを持たない理由として、非伝統的な政策の採用あるいは高めのインフレ率へのコミットメントを伴う金融緩和が失敗した場合にFedの独立性あるいは権限の縮小につながるのではないかという恐れからFedは積極的な行動に乗り出すことに億劫になっているのではないか、政府や議会や世論からの支持がない状態ではFedも積極的になりにくいのではないか(Fedのさらなる積極的な行動に対して唯一支持を与えるであろう失業者も組織化されにくい(あちこちに分散しているから)こともあってFedを支持する失業者の声も政治的に大きな声にはなりにくいだろうとも述べている)、といった点を挙げている。