「「流動性の罠」の罠 〜「流動性の罠」の政治経済学〜」


久しぶりに会った知人とランチ。そこでの会話をまてめてみる(といっても、相手が一方的に喋っていたわけですがw)。

himaginaryさんのブログ読んだ? 「わかりはじめた1930年代のレボリューション」。アイケングリーンさすが(もちろんhimaginaryさんもさすが)って感じだよね。

ところでさ、戦後のケインジアンに関してはどうだか知らないけれど、ケインズその人は「制約となったのは中央銀行や政府が経済をリフレートする能力ではなく、その意志であった。」との意見を持っていた、との見解もあるみたいだよね。確かOrphanidesがそんな論文書いてたんだよね。

話にあがっているOrphanides論文は以下とのこと。別れた後にメールで教えてもらった。一部翻訳しているらしく、ブログで引用してもよいとの許可をもらったので以下に引用させてもらう。

●Athanasios Orphanides, “Monetary Policy in Deflation: The Liquidity Trap in History and Practice(pdf)”

●Athanasios Orphanides 「デフレ下における金融政策 〜果たして「流動性の罠」は歴史上実際に存在したか?〜」

<要約>
1930年代中頃のアメリカ経済の経験―短期名目金利が長期にわたってゼロ%近辺にとどまっていた時期―を持ち出してきて、当時金融政策は効果を失っており、経済が「流動性の罠」に嵌っていた証拠である、とする主張を時折耳にすることがある。しかしながら、当時の政策に関する記録(文書)を細かく検討してみると、現実の証拠はそのような主張を支持してはいないことが示唆される。また、大恐慌からの回復過程が不完全かつ気まぐれな調子であった理由は、金融緩和が首尾一貫したかたちで推し進められなかった点に求めることができる。どうして金融緩和は首尾一貫したかたちで推し進められなかったのだろうか? その理由は、低金利(短期名目金利が極めて低い水準にある状況)下での金融政策に関する政策当局者の理解に不正確な点があったからである。加えて、本論文では、1930年代中頃のアメリカ経済の経験と1990年代後半の日本経済の経験との共通点ならびに短期金利を金融政策のスタンスを測る指標として用いることの不適切さ、低金利下においてもロバストな金融政策の運営手続き―状況に応じて、誘導目標(ターゲット)として採用する金利の種類を切り替える―といった話題についても論じる。

<1. イントロダクション>
今日我々が大恐慌(Great Depression)として認知しているところの「不況」("slump")が始まってから数ヶ月ほど経った1930年にジョン・メイナード・ケインズは『貨幣論』を出版した。その本の中でケインズは、景気回復(prosperity)を実現するために必要な金融政策上の行動が近いうちに採られることはおそらくないだろうとの懸念を表明している。「ここで私は、今現在における最大の害悪であるとともに今後の経済的な進歩に対する最大の危険は、世界中の中央銀行の不承不承の態度、市場金利を十分速やかに低下させたがろうとしない中央銀行のその不承不承の態度に見い出すことができる、ということを繰り返しておく。」 その後の議論を予見するかのように、ケインズは、不況下における金融緩和政策に対してどのような実際的な限界が存し得るかという問題―後に「流動性の罠」("liquidity trap" )と呼ばれるようになる問題―に慎重に分析を加えている。その分析の中で、ケインズは、「不況下において金融政策は効果を失う」という議論を斥けている。ただし、政策当局者が景気回復を実現するために思慮深くて(deliberate)力強い(vigorous)行動を採る意思がある限りは、という留保つきではあるが*1。「しかし、一体誰がその最終的な結果(永続する回復)を合理的な理由に基づいて疑うことができようか? もっとも、誤った(misguided)金融政策が変更されることなくいつまでもしつこく続くことで資本主義社会の土台が蝕まれ続けることがなければの話ではあるが。」 ケインズは、中央銀行が金融緩和に乗り出す能力に対して実際上の制約(real constraints)が存在しないとしても、政策当局者が抱く「メンタリティー(心性)やアイデア(思想)」が必要な政策の前に立ちはだかりその(=必要な政策の)採用を阻む可能性を認識していた。ケインズの次の言葉には、この先適切な政策が実行されるだろうとの見込みに対して彼が完全には信頼を寄せてはいないことが表われている。「この11年間というもの、私の役割はというとカッサンドラの役を演じることにあった。・・・今回はそうならないことを祈るばかりである。」 悲しいかな、その後の現実の推移は、ケインズが依然としてアポロンの邪悪な呪いにかかったままであることを証明することになってしまったのであった。

・・・(中略)・・・

流動性の罠」は現代の資本主義経済にとって避けることのできない現実であるのだろうか? それとも、「流動性の罠」は避けることのできない現実などではなく、「流動性の罠」のように見える現象は、適切な金融政策上の行動を採りたがらない政策当局の「不承不承の態度」に支えられた「誤った金融政策」の産物にすぎないのだろうか? この問いを検討することは重要である。というのも、この問いは、自己誘発的な政策の罠(self-induced-policy trap)という論点とかかわってくるからである。もし「流動性の罠」が避けることのできない現実(困難)ではなく、政策当局者が抱く「メンタリティーやアイデア」といった認識の問題に根を持っているのだとすれば、認識それ自体が原因で困難がもたらされ得る(=政策当局者が抱く認識の自己実現的な性質)ということになるのだろうか?


ちょうど今引用したOrphanides論文の内容を簡単に解説してもらった後の会話(といっても、相手が一方的に喋っていたわけですがw)。

政策当局者が抱く認識の自己実現的な性質っていうのはたぶんこういうことだよね。

「低金利下では金融政策にこれ以上できることなんてない(=金融政策は無効)」(との認識)→何もしないor申し訳程度の金融緩和→景気低迷の継続→「ほら見たことか。やっぱり効かないんだよ。」(認識の確証)→何もしないor 申し訳程度の金融緩和→・・・

というわけで、self-induced-policy trapの出来上がりだよね。めでたしめでたしだよね。もたらされる結果は全然めでたくないけどね。

このタイプのself-induced-policy trapは、「「流動性の罠」の罠」とも表現できるだろうね。政策当局者が「流動性の罠」というアイデア(=ゼロ下限制約下での金融政策の無効性)を受け入れる結果として「流動性の罠」っぽい自体が生じるって話だからね。

「「流動性の罠」の罠 〜「流動性の罠」の政治経済学〜」、論文のタイトルとしてはありだよねw

論文にするとしたら、まずは経済学史的な観点から「流動性の罠」という概念を検討しないといけないね。あと、レーヨンフーブッドとかOrphanidesとかに依拠しつつケインズ自身が「流動性の罠」についてどう考えていたかを検討する必要もあるよね。

経済学史的な観点から「流動性の罠」という概念を検討する場合はBoianovskyの論文なんかも参照するといいよね。というか、「詳しくはBoianovskyのこの論文読んでね」で済ませるっていう手もあるよね。

Boianovskyの論文は以下。

●Mauro Boianovsky, “The IS-LM Model and the Liquidity Trap Concept: From Hicks to Krugman(pdf)”

となると、「「流動性の罠」の政治経済学」って側面に力を注ぐってことになるよね。idea mattersっていう観点に立った政治経済学だね。

「「流動性の罠」の罠」、self induced policy trapっていうのは、アイデア→政策っていう影響関係を捉えたものだね。また別に、「流動性の罠」というアイデアを利用してやろう、っていう政策当局者のインセンティブの問題も指摘できるだろうね。

流動性の罠」というアイデアを純粋に信じ込んだ結果として政策の失敗がもたらされるのか(self induced policy trap)、それとも、政策の失敗を糊塗するために(=政策の失敗に対する言い訳として)「流動性の罠」というアイデアが利用されているのか、ってことだね。

流動性の罠」っていうアイデアはある意味好都合だよね。政策の失敗を糾弾する声に対して「我が国の経済は今「流動性の罠」に嵌っているんです。仕方ないんです」って言い訳に利用できるからね。

言い訳としての「流動性の罠」って話をもっと突き詰めて考えたい場合は、Christina Boswell著 『The Political Uses of Expert Knowledge』なんかを読んでみたらいいよね。・・・なんて偉そうに言いながら、僕自身まだちゃんと読んでないんだけどねw

言い訳としての「流動性の罠」っていうのは、The market for ideas(アイデア市場)の一例としてのThe market for liquidity trapの分析ってことになるよね。「流動性の罠」というアイデアの需要と供給の分析だね。

何らかの理由で「流動性の罠」というアイデアを欲する人(需要者)が何らかの(金銭的なものかもしれないしそれ以外のかたちをとるかもしれないし)インセンティブを提供してそれに反応する人がいる(「流動性の罠」というアイデアを供給する人がいる)ってわけだね。

流動性の罠」というアイデアを供給する人すべてが需要者の提供するインセンティブに反応しているわけではないだろうけどね。

Henry Farrellのこれ(「経済学者間での意見の不一致に関するシンプルなモデル」)なんかも、その道の専門家の意見(あるいはアイデア)を自らの主張の権威付け、あるいは自己弁護の知的(intellectually)正当化として利用するって話の応用の一つだね。

*1:引用者注;つまりは、政策当局者が景気回復を実現するために思慮深くて力強い行動を採る意思がある限りは、不況下においても金融政策は有効である、とケインズは考えていたということ