もう一つの多様性―the within variety

Tyler Cowen、“The Fate of Culture(pdf)”(Wilson Quarterly*1

The argument that markets destroy culture and diversity comes from people across the political spectrum.・・・・ Duke University's Fredric Jameson sums up the common view:“The standardization of world culture, with local popular or traditional forms driven out or dumbed down to make way for American television, American music, food, clothes, and films, has been seen by many as the very heart of globalization”.


グローバリゼーションは全世界のアメリカ化―アメリカ的価値観およびアメリカ的文化(生活様式)を全世界に広めようとする(あるいは伝統的文化をアメリカ的文化で置き換えようとする)―を目標とする啓蒙主義的/普遍主義的な運動なのであって、その結果は各社会間の文化的多様性(=the across variety)の(アメリカ的文化への)均質化である。グローバリゼーションとは文化的多様性の破壊活動―各国および各社会の(過去から連綿と受け継がれてきた)伝統的・土着的な文化の破壊活動(あるいはアメリカの文化的覇権確立の推進活動)―に他ならないのだ、

・・・・と結論するのは性急にすぎる。

実のところグローバリゼーションの過程において以前とは比較にならないほど促進されている文化的多様性が存在している。それは、the within varietyという名の文化的多様性である。

It can also refer to the variety of choices within a particular society. By the standard, globalization has brought one of the most significant increases in freedom and diversity in human history. It has liberated individuals from the tyranny of place.


グローバル化の進展により確かにthe across variety(=社会間の多様性)はなくなってきているのかもしれない。しかし、the within variety=社会内部の多様性=社会内部の個人が有する文化消費の選択肢の拡大(種々の文化に接する機会の増大)、の程度はグローバリゼーション=社会間での文化的生産物の交換(cross -cultural exchange)の活発化の結果としてヨリ一層高まってきている(CDショップだとか書店だとかに足を運べばこのことは一目瞭然である)。また、the across varietyが消失の危機に直面しているというのも誇張しすぎな物言いであって(全く問題ではないというわけではないけれども)、世界の片隅でしか知られていない超マイナーな文化生産物―民族音楽とか―も世界市場に開放されることによって消費者という名のパトロンを獲得しその命脈を保ちえているのである(アダムスミスの格言「分業は市場の広さに制限される」の一例か)。

the across varietyを重視する論者(=the across varietyの喪失につながるものとして理解されるグローバリゼーションに批判的な論者)は地域間の文化的多様性を称揚する一方で個々の文化に関してはその変容を一切認めない=今あるままの姿を維持しようする傾向にあるが、多様性を称揚するのであれば現時点における各社会間の文化的多様性(=空間的多様性)だけでなく一文化の時間を超えた多様性(=diversity over time;歴史的多様性=時間の経過に伴う一文化の変容)にもそれなりの評価をするべきではないだろうか。そもそも伝統文化・土着文化というけれどもその社会内部で純粋培養された文化が外界との接触を一切持つことなく存続してきた例は乏しいのであって、例えば(一見外界から隔離されてるかに見える)アフリカのとある民族文化なども外部世界との接触により新たな技術・知識を摂取する=自身の文化と外部の文化を総合する/組み合わせることでその姿を微妙に変えつつも今ある型を形作ってきているのである(creative destruction is nothing new, and it's misleading to describe their cultures as "indigenous".)。文化は創造的破壊の過程を何度も潜り抜けることにより、その活力を維持し続けることができるのだ(歴史を振り返ってみても文化的な成熟をみるのは自由貿易の拡大期、外部との接触が拡大している時期である。文化の活力あるいは創造力は外部世界からの影響をいかに巧妙に自己の内部に取り込むことができるかにかかっている。実はヒックスも『経済史の理論』第4章で似たような議論=商業の拡張期(正確にはその末期)に知的・文化的成熟が随伴する、を展開してたりする)。

the across varietyの程度がどれだけ高かろうが(=objective diversity)、その多様性を享受できる人間が(地域的に)ごく狭い範囲に限られているのでは何の意味もない。ヨリ多くの人々がヨリ多くの多様性を楽しめること(=operative diversity)こそが重要なのである。cross -cultural exchangeとしてのグローバリゼーションは遊休状態にある(あるいは非効率的に利用されている)多様性の無駄のない活用あるいはヨリ効率的な活用を促進する一種の潤滑油としての役割を担っていると言い得る訳である。

*1:おそらくTyler Cowen著『Creative Destruction: How Globalization Is Changing the World's Cultures』の要約的なものだと思ふ。Bryan Caplan and Tyler Cowen、“Do We Underestimate the Benefits of Cultural Competition(pdf)”も参考になるかと。