タロック著「民間企業による公共財の供給」


●Gordon Tullock(1996), “Provision of public goods through privatization”(Kyklos, Vol.49(2), pp. 221-224)

12月は英語力強化月間ということで(自分の中だけの話ですが)適当に英語の文章を訳していくことにしました。手始めはゴードン・タロックの論文です。この論文を選んだ理由は・・・すぐ近くにあったから。それだけです。

本論文では、公共財の供給を政府に委ねると民間に委ねる場合よりもその供給が少なくなるような特別な事例を取り上げる。政府による公共財供給が民間に委ねる場合よりも少なくなる理由は、政府の関心が通常は国境線の内部にのみ注がれる一方で、民間の製薬会社の関心が世界市場に注がれているからである。その結果として、特許権の取得が可能であるような製薬のケースにおいては、公共心に溢れる政府が新薬の開発のために投下する研究開発資金は、民間企業―たとえその民間企業が利己的で意地汚い人々の集団によって率いられていたとしても―が開発に投下するであろう資金よりも少なくなると予想されるのである。
公共選択論や伝統的な財政学等においては、大きな外部性や公共財の存在に基づいて政府の市場への介入が正当化されることになる。本論文では、公共財の供給を民間に委ねた方が政府に委ねるよりも外部性の内部化がヨリ促進されるであろう特別な(そしておそらくは非常に稀な)ケースを議論する。本論文で議論するケースにおいても、私的所有権の保護(=特許権の保護)という点で政府は役割を果たすことにはなるが、リバタリアンの大半もこの程度の政府の役割は許容するところであろう。
本論文で議論する特別なケースというのは医薬品の研究開発の問題である。以下では、医薬品の研究開発を政府に委ねると、かなりの規模で外部性の内部化に失敗することになるということを示すであろう。もちろん、以下の議論は製薬だけではなく他の種類の研究開発の事例に関しても同様に妥当するかもしれないが、残念ながら私は他の事例に関してはよく知らないので製薬のケースにのみ議論を限定する。以下では、非現実的であることは重々承知しているが、政府は大変能力に優れるとともに倫理的な面でも文句のつけようがないほど高潔であると想定するであろう。政府に関するこの想定をヨリ現実的なものに近付ければ、私の以下の議論の妥当性はさらに増すことになるであろう。
新薬開発を進める方法として2つの方法を考えることができる。まず第1の方法は、新しくかつ高性能の医薬品を開発するために、政府が税金を徴収し、その資金を用いて政府が直接にあるいは民間企業に委託して研究所の維持運営にあたるという方法である。通常のルールとして、この方法で新薬の研究開発が進められる場合には、新薬開発の過程で新たに得られた医療知識は無料で開放されることになる。時には政府は新薬の利用に際して使用料を課すこともあるし、またワクチンの予防接種の場合のように、国民に新薬の利用を義務付けることもある。
もう1つの方法は、民間企業自らが新薬開発のために資金を投下し、特許使用料あるいは医薬品の販売を通じて開発資金を回収するという方法である。政府が研究開発にあたる第1のケースと民間企業が研究開発にあたる第2のケースのどちらのケースにおいても、我々が望むこと(=社会的な最適)は限界的なバランスが達成されること、つまりは研究開発に投下される最後の1ドルが1ドル分の病気の治癒という便益を生み出すことである。もちろん、我々は完璧を期待することはできず、特に研究開発の結果がどうなるかに関して不確実性が伴う場合にはそうである。それにもかかわらず、「最後の1ドル分の便益=最後の1ドル分のコスト」というのは我々社会全体にとっての目的となるものであり、以下では、一時的にではあるが、「最後の1ドル分の便益=最後の1ドル分のコスト」というルールは我々が望むところのものであり、我々が想定する理想的な政府は以上のルールに従って行動すると想定することにしよう*1
民間企業は新薬の特許から得られると期待する収益が最大化される点まで新薬開発に資金を投下するあろう。我々が想定している理想的な政府は、最後の1ドルがそれぞれ国民全体に与える便益と納税者全体に与えるコストとを比較した上で両者が等しくなる水準にまで新薬開発に資金を投下するであろう*2
新薬開発に伴う外部性は国際的な外部性である。我々が想定する理想的な政府が考慮に入れるのは、国境線内部の国民に対する便益と(納税者たる国民への)コストである。アメリカ政府は新薬開発にあたっては、何らかの慈善的な理由を除いて、例えばリベリアの国内で何が起こるかにはそれほど関心を寄せないであろう。一方で、利潤の獲得を目的として医薬品を販売する民間企業は自然と(=利潤獲得に動機づけられるかたちで)世界市場全体を考慮に入れるであろう。
言い換えるならば、新薬開発には、新薬の研究開発が行われている国の外部における人々の健康・福祉の改善というかなりの規模の潜在的な外部性が伴うのであり、新薬の開発は外国人の健康増進という公共財を提供するものでもあると言い得るのである。この潜在的な外部性は、利潤獲得を目的として新薬の特許申請を行う民間企業の考慮の中には入ってくるであろうが、自国内部の投票者や納税者の利害にしか興味のない(我々が想定する理想的な)政府によっては考慮されることはないであろう*3
以上の主張は、我々が想定する理想的な政府への批判ではないということに注意しよう。我らが理想的な政府は、国民の福祉の最大化を実現しようと試みており、政府が先に述べた「最後の1ドル分の便益=最後の1ドル分のコスト」というルールに従うならば実際にも国民の福祉は最大化されることになるであろう。しかしながら、新薬の開発においては、アメリカ政府がほとんど目を向けず、一方で民間の製薬会社が大きな注目を寄せる外国人の福祉(健康)という外部性が存在するのである。政府も民間企業もともに何らかの最大化を試みている。民間の製薬会社が異常なほどに利己的で意地汚い人々に率いられていようとも、その民間企業は国民全体の福祉に奉仕する一国の政府によってはペイしないと判断された新薬開発にも取り組むであろうし、また国民全体の福祉に奉仕する一国の政府以上にヨリ多くの資金を新薬開発に投下するであろう。
現実の世界に目を向けると、一国の政府は医療の研究に対して敵対的であるかのように見える。医薬品の価格はアメリカを含め多くの地域で非常に高価であり、新薬の導入を煩雑で費用のかかるものにしている政府規制は新薬のさらなる研究開発を阻害している。
こういった事実が生じている理由は、以下説明するように私には明白であると考える― 一見すると捻くれた議論のように見えるかもしれないが―。私のこれまでの生涯を通じて医療は大きな発達を見せてきたが、医療の発達のすべてとは言わないがその多くの部分は新薬の開発によっていた。例えば、病原菌の感染は私の少年時代には非常に危険なものであったが、今や大抵の場合においてはそこまで心配する必要のないものとなっている。それもこれも宿主(患者)ではなく病原菌を狙い撃ちする高度な医薬品が開発されてきたためである。
以上のような医薬品の重要性にもかかわらず、医薬品への支出は診療において小さな部分を占めるにすぎない。大抵の場合において、医薬品への支出は医療支出全体の5%未満ほどである。医療支出の大きな部分を占めるのは、医者などの診療スタッフの人件費や病院でのケアに要する費用である。医薬品の価格引き下げによる医療支出の節約はたかが知れているのである。
一方で、製薬会社は研究開発の成果に伴う大きなリスクゆえに多種多様な研究開発に従事することを通じてリスクの分散を図る必要があり、その結果として企業の規模は非常に大きくなりがちである。反対に、直接的な診療サービスや療護サービス等を提供する組織は大抵は非常に小規模であり、医者や看護婦など多くの人員を抱えてもいる。この小規模な組織の人員は投票を通じて政治に影響を与えるばかりではなく、彼らの所属するコミュニティーに対しても影響力を有しているものである。
政治的な面では、地域社会から遊離した大規模な製薬会社よりも地域に密着したローカルプロバイダー*4の方がヨリ大きな成功を収めることになるであろう。実際にもローカルプロバイダーよりも製薬会社の方がヨリ多くの政府規制に直面している。また、医療費のコストを気にかける市民は、医療コストが高いのは目先の利益に目が眩んで医薬品の価格引き上げに熱心な製薬会社の資本家どものせいであってフレンドリーな隣人たるローカルプロバイダーのせいだなどとは考えもしない。製薬会社の利潤圧縮を意図した政府規制は世界中で人気のある政策であり、このような政府規制の結果として新薬の製造はほとんど進んでおらず、今日はともかくこれから10年先の将来においては世界的な死亡率は悪化する可能性もある。
以上の議論は特許権の取得が可能な研究開発にのみあてはまるものである。医学的にも有用な基礎研究は数え切れないほど豊富にあり、政府がこのような基礎研究に関与することが望ましいかどうかという点は本論文が対象とするところのものではない。しかしながら、これまでの議論に従うならば、一国の政府(特に理想的な政府)は一国内の国民に対する便益とコストとを比較考量し、両者がちょうどバランスするように行動するということから、政府による基礎研究もまた(一国レベルではなく世界的なレベルから見て)過少供給という結果になる可能性があるという点には触れておくべきであろう。
特許権の取得が可能な医療分野の研究開発に話題を戻すと、政府によるこの分野への関与は実際のところ研究全体の進歩を遅らせてしまうという可能性もある。その理由は、政府は民間企業と比べて研究開発からの収益を過小に評価するために*5特定の新薬開発にヨリ少ない資源しか投下しないためである。
医薬品の研究開発はリスキーな投資活動である。ここにある特定の医薬品の開発のために2億5000万ドルまでなら研究資金を投下する意思のある民間の製薬会社があるとしよう。この製薬会社は競合する他の製薬会社に先んじられる可能性や新薬の開発に失敗する可能性もしっかりと認識しているとしよう。もしこの製薬会社が政府が予算総額1億5000万ドルを投じて同分野の研究開発に乗り出す予定であるとの噂を耳にしたならば、この製薬会社はこの医薬品開発に従事するリスクがさらに上昇したと判断してこの医薬品の開発事業から撤退し、また別の医薬品の開発に向かうということになるかもしれない。あくまでも今の例は思いつきでしかないが、なくはない話であろう。政府は一般的には民間企業とほとんど競合することのない基礎研究分野にだけ関与すべきなのである。
本論文に好奇心をそそるところがあるとすれば、それは、公共財のようなものは確かに存在し、加えてその公共財の供給にあたって政府は理論的に見て民間企業に劣る可能性があるという点を示唆していることである。政府が民間企業に劣る理由は、政府は国際的な場においては公共財を供給することがないからである。実際にも一国の軍隊というのは外国人にとっては公共バッズ(public bads)である。純粋な公共財に類似したものの供給の状況を改善する一つの手段として、我々はその供給を民営化すべき(=民間企業に委ねるべき)なのである。


単に訳すだけでは素っ気ないので自分なりに解説を試みてみよう。
まずタロックはbenevolentな政府、つまりは社会全体の利益の増進を目的とする政府を想定する。さらには政府は社会全体の利益増進を目的とするだけでなく、その目的を達成する能力も備えていると想定する。つまりはタロックもその重要な一員である公共選択論学派がオールド・ケインジアンに対して向けた批判、「あんたらケインジアンはハーベイ・ロードの前提に立っている。あんたらケインジアンはあたかも政府が単一の意思を持ち社会全体の利益を目的として行動しているかのように認識しているようだけど、そんな認識は非現実的もいいところだ」という批判を忘れたかのように、オールド・ケインジアンそっくりなかたちで「政府」に関する想定を置いている。その上でタロックはこう問う。
「新薬の研究開発は利潤を目的とする民間の製薬会社に委ねるべきなのか、それとも社会全体の利益の増進を目的とする「政府」に委ねるべきなのか?」
タロックの答え;「民間の製薬会社に委ねるべき。理由は「政府」は一国内の利害しか考慮に入れないが、製薬会社は可能な限り多くの利潤を得ようとすることを通じて新薬から便益を受ける人々全体、一国内に限定されない世界市場全体(全体というよりは「政府」以上に多くの人々の利害)を考慮に入れる。確かに「政府」は一国レベルで考えると社会的に最適なレベルまで新薬開発を進めるかもしれないが、世界市場全体でみると最適なレベルと比べて過少供給ということになるであろう。民間の製薬会社も世界全体で見て最適なレベルまで新薬の開発を行うことはないであろうが、「政府」と比較して考慮に入れる人々の範囲が広い分「政府」よりもヨリ多くの資源を新薬開発に投下するであろう。世界市場全体で見た最適な水準と比較すれば「政府」も民間の製薬会社も不満足な結果に終わるという点では同じであるが、「政府」に委ねるよりは民間の製薬会社に委ねた方がまだましである」
次にタロックは公共選択論学派らしさを取り戻す。つまりは果たして「政府」は社会全体の利益増進を目的として行動しているのであろうかとの疑問を提示するのである。
「現実の世界に目を向けると、一国の政府は医療の研究に対して敵対的であるかのように見える。医薬品の価格はアメリカを含め多くの地域で非常に高価であり、新薬の導入を煩雑で費用のかかるものにしている政府規制は新薬のさらなる研究開発を阻害している。」
「政府」が社会全体の利益増進を目的としているならば、医薬品の価格は社会的に最適なレベルにまで新薬開発が進んでいる結果としてもっと安価であってもいいはずだし、また政府規制を設けて民間の製薬会社による新薬開発を阻害するはずはない。でも現実は・・・。
果たして現実の「政府」はどのような行動原理に従っているのであろうか?
タロックはこの問いに答えるために診療市場における民間のプレイヤーに着目する。診療市場には大きく民間の製薬会社とローカルプロバイダーとがいる。民間の製薬会社は世界市場を相手にしていることもあって地域のコミュニティーからは遊離した存在である。一方でローカルプロバイダーは地域に密着した存在であり、またローカルプロバイダーはその職員を通じて地域住民との日常的な人的な接触の機会を有している。地域住民は当然製薬会社よりもローカルプロバイダーに対して愛着を持っている。
タロックはさらに医療支出に占める医薬品への支出割合とローカルプロバイダーへの支出割合にも目を向け、医療支出全体に対してローカルプロバイダーへの支出割合がヨリ大なる部分を占めることを確認する。医療コストが高いとすればその理由はローカルプロバイダーへの支出、あるいはローカルプロバイダーにおいて雇用されている職員の人件費が高いことに起因する可能性が大きい。ローカルプロバイダーは医療コストが高い理由が自らへの支出費用が高いため、あるいは職員の人件費が高いためであるということを安易に認めるわけにはいかない。そこで批判の矛先を交わすために民間の製薬会社が医薬品の価格を引き上げているせいだと主張する。ローカルプロバイダーに愛着を持つ地域住民も同調して「悪いのは製薬会社だ」と主張する。ローカルプロバイダー・地域社会の声を受けて「政府」は医療コスト引き下げのためと称して製薬会社に規制を課す。政府規制に伴う煩雑な新薬の認可手続きは製薬会社による新薬開発のインセンンティブを削ぐことになり、新薬の製造が抑制されることになる。
つまり、「政府」は社会全体の利益増進を目的として行動しているわけではなく、社会内部のある一部の集団の利益を増進するよう行動している可能性があるということである。
タロックはさらにもう一つの論点を提示している。「政府」が社会全体の利益を増進しているとしても、知らず知らずのうちに民間の製薬会社の医薬品開発を阻害し、その結果として世界市場全体で見た場合に公共財の更なる過少供給が促進される可能性である。
「政府によるこの分野への関与は実際のところ研究全体の進歩を遅らせてしまうという可能性もある。その理由は、政府は民間企業と比べて研究開発からの収益を過小に評価するために特定の新薬開発にヨリ少ない資源しか投下しないためである。」
最初にまとめたように社会全体の利益増進を目的とする「政府」と利潤獲得を目的とする民間の製薬会社とでは、(後者の方がヨリ多くの人々の利害を考慮に入れる結果として)後者の方がヨリ多くの資金を新薬開発に投下する可能性が高い。タロックはこの点を具体的な数字を例に挙げて論じている。つまりは、政府は1億5000万ドルを投資し、民間の製薬会社は2億5000万ドルを投資するというかたちで。
「医薬品の研究開発はリスキーな投資活動である。ここにある特定の医薬品の開発のために2億5000万ドルまでなら研究資金を投下する意思のある民間の製薬会社があるとしよう。この製薬会社は競合する他の製薬会社に先んじられる可能性や新薬の開発に失敗する可能性もしっかりと認識しているとしよう。もしこの製薬会社が政府が予算総額1億5000万ドルを投じて同分野の研究開発に乗り出す予定であるとの噂を耳にしたならば、この製薬会社はこの医薬品開発に従事するリスクがさらに上昇したと判断してこの医薬品の開発事業から撤退し、また別の医薬品の開発に向かうということになるかもしれない。」
一国全体で新薬の開発に投資される金額は政府と民間の製薬会社のそれぞれの投資額の合計である4億ドル(=1億5000万ドル+2億5000万ドル)になるとは限らない。政府による新薬開発への参入は民間の製薬会社の新薬開発からの徹底を招く可能性があるのである。もし政府が新薬開発に参入した結果として民間の製薬会社が新薬開発から撤退したとすれば、一国の社会全体で新薬開発に投資される金額は政府による投資額1億5000万ドルである。万一社会全体の利益増進を目的とする「政府」が新薬開発に参入しなければ、その結果として民間の製薬会社が新薬開発を継続していたとすれば、一国の社会全体で新薬開発に投資される金額は民間の製薬会社による投資額2億5000万ドルであった可能性がある。つまりは、社会全体の利益増進を目的とする「政府」が新薬開発に参入する結果として一国の社会全体で新薬開発に投資される金額が減少するかもしれないのである。
長くなったがこれまでの議論をまとめることにしよう。
新薬の開発というケースに関して言うと、社会全体の利益増進を目的とする「政府」に開発を委ねるよりも民間の製薬会社に開発を委ねた方が世界市場全体のレベルで見て望ましい可能性がある。さらには社会全体の利益増進を目的とする「政府」による新薬開発への参入は民間の製薬会社による新薬開発をクラウドアウトする結果として新薬開発の供給を(政府が単独で新薬開発に乗り出すレベルにまで)減少させる可能性がある。そしてそもそも「政府」が社会全体の利益を増進しようと意図しているかどうか怪しい面がある。「政府」が社会全体の利益を増進しようと意図していないとすると、民間の製薬会社による新薬開発への投資額との乖離は一層増大することになるであろう。
最後にタロック論文の一番のポイント(と私が考える点)に触れておこう。それは「社会」ということでどのレベルを想定するのかという点である。benevolentな政府は確かに一国という「社会」のレベルでは最適な公共財供給を実現するかもしれない。ただなぜ「社会」ということで「国」にその範囲を限定しなければならないのであろうか。タロックの論文はbenevolentな政府という非現実的な想定を受け入れてもなお「政府」による市場介入を批判する視座を提供するものであり、また不完全な選択肢(民間企業か「政府」か)の中からbetterなものを模索するという公共選択論のそもそもの問題意識、広くはデムゼッツによる「ニルヴァーナアプローチ批判」の応用事例なのである。

*1:原注;読者は政府のことを好意的に解釈しすぎだと感じられることだろう。確かに政府をこのように特徴づけることは私の通常のやり方ではない。

*2:原注;本論文は特許権の取得が可能な医薬品の研究開発のみを対象としている。医療の研究は時に特許権が設定できないような改良―例えば新たな外科手術法のように―を生み出すことがある。

*3:原注;時に政府は研究の結果に対して特許権を取得し、特許の使用に対して使用料を課すことがある。その際には政府は民間企業のように振る舞うことであろう。

*4:直接的な診療サービスや療護サービス等を提供する組織

*5:政府は国民にとっての便益とコストしか考慮しない一方で、民間の製薬会社は医薬品が全体としてどれだけ売れるだろうかとの考慮を通じて一国の枠を超えて世界市場全体に目を向けていることになる